06-02








「わっ」


「……本来ならば白はこちらに打ちたいところだがな。
 でも先生は思い切って……いや、初めから読んでいたのだろうか──
 ココに打った」
「スゴイ」
「………」


韓国で毎年行われる三星火災杯。
世界中からプロだけでなく世界アマ選手権者、欧州選手権者を含む多数の棋士が参加する本格的なオープン棋戦だ。
先月の終わり頃から予選が始まり、各国の棋士250人近くが参加して行われる。

日本の碁界を引退した塔矢先生は活躍の場を自由に活動できる海外に移し、今もなお精力的に様々な国際棋戦に参加している。
そしてこんなスゴイ棋譜を、「どうだ」と言わんばかりにオレたちに見せつけてくるのだ。





塔矢先生は、楽しそうだ。

本当に。





先生は、1ヶ月に1回、約1週間程日本に帰ってくる。
あの忙しい塔矢もその時は「今日は父と母が帰ってきているから」と言ってスケジュールを調整して時間を作り実家へと帰っていくので、その度にオレは「ああ、もう塔矢先生が帰ってくる時期かー」などと思っていた。

一緒に暮らし始めたばかりの頃、塔矢はそう言って実家に戻り3日程帰って来なかった。きっとつもる話が色々とあるのだろう。
オレも時間さえあれば挨拶くらいしたいなあと思っていたが、手合いやら取材やらその他の仕事でとにかく忙しく、先生が日本にいる間に時間が作れなかった。

その次の月──7月だったか。
塔矢先生が韓国から一時的に帰られた時、塔矢はまたいそいそと実家に戻っていった。
オレは碁聖戦があったもののそれ以外の仕事は極力入れないようにしていたので、先月よりは割と時間があって、その日もオレは家にいてボンヤリと過ごしていたのだ。
塔矢もいないことだし、鬼のいぬ間に……といった感じで、オレは塔矢が最も嫌う『リビングで寝っ転がりながらDVDを見つつカップラーメンをすする』という行為を楽しんでいた。


「……進藤」
「うわっ!」
「………」
「なっなんだよお前! トツゼン現れて!!
 実家に帰ったんじゃなかったのかよ!!」



実家に帰ったはずの塔矢が、出ていってものの2時間もしないウチに、油断し弛緩しまくっていたオレの背後にイキナリ立っていたのだ。

「帰るには帰ったんだが……」
「うん」
「お母さんが……その…、僕を見るなり怒り出して」
「なんだよ、お前お母さんとケンカしたのか!?」

塔矢のお母さん。
塔矢によく似ていて、まるで女優さんみたいに綺麗なお母さん。
何度か塔矢の家に行った時にも、すごく良くしてくれた。いつもいつもつい打つのに夢中になって図々しく夜までいるオレに、夕ご飯を何度もご馳走してくれたのだ。
おいしかったなあ、塔矢ん家の晩ご飯。
和食をこんなにもおいしいと感じたのは塔矢のお母さんのご飯が初めてだった。
(ウ 
チのお母さんはオレのリクエストに応えることが多いので、洋食が主になり、本格的な和食はほとんど作ることはなかった)

それでかな。オレが、塔矢の作るご飯が好きなの。
お母さんに教わったのか(本人は芦原さんに一番教わったと言っているけど)味付けがよく似てるんだ。
優しい優しい塔矢のお母さん。
せっかく久しぶりに会ったってのに、何でケンカして帰って来るんだよ!


「早く電話して謝れよ! 今なら許してもらえるから!」
「違う、違うよ。ケンカなんかしてない」
「じゃあ何だよ。お前怒られたって」
「……お母さんが」
「うん」
「何で僕一人で帰って来るんだって」
「…うん?」
「キミと一緒に、何で帰って来ないのかって」
「…………は?」


そう言って塔矢は、今度はオレを連れて再び実家に戻った。
せっかくの親子水入らずの所にオレなんかが入っていっていいものか(しかも塔矢先生もいるのに)と、さすがの図々しいオレも恐縮しきりだった。
でもオレが塔矢の家に上がって挨拶するなり、塔矢のお母さんはオレの手をとってスゴく喜んでくれた。


「この前からずーっと来て欲しくて、アキラさんに何度も何度もお願いしてたのよ!」
「す、すみません」
「でもお仕事忙しかったんでしょう? 仕方ないわよね。
 今回はお会い出来て嬉しいわ。
 まったくもうアキラさんときたら、あれだけお願いしてたのにノコノコ一人で帰ってきたのよ。
 進藤くんはどうしたの、って言ったら『家にいます』って。
 だからすぐに迎えに行ってもらったの」
「ハハ……」
「お、お母さん」
「まったくもう気がきかない子でごめんなさいね。
 それはそうと進藤くん、ちょっと痩せたんじゃない? 大丈夫?
 元々細かったのに、何だかまた細くなって」
「い、いや、全然そんなことないです」
「今日はたくさんご飯作ったの! 一杯食べていってね!
 お土産も一杯買って来たのよ! ゆっくりしていってね!」

こうしてオレは塔矢のお母さんのご飯をそれはもう3日分は食べたんじゃないかというくらいご馳走になり、その後塔矢先生と一局打たせてもらいその上検討までして、さすがにこのまま帰るのは申し訳ないと洗い物を手伝ったりしていたら何故か塔矢の部屋にいつの間にか2組布団が敷かれていて、気がついたら泊まっていた。
お風呂までいただいて柔らかい羽布団に入りオレが「ふわあ」と欠伸をした時に、すでに隣の布団の中に収まっていた塔矢が「すまない……」と申し訳なさそうな声を出した。

何で謝るんだよ。
オレ楽しいよ。
塔矢先生に打ってもらって、話をさせてもらって。
塔矢のお母さんにあんなに可愛がってもらって。
塔矢にそう言ったら、何故か塔矢は少し顔を赤らめて「おやすみ」と言って背中を向けてしまった。
何だよ、変なヤツ。



まあ、とにもかくにも、オレは塔矢先生が好きだった。

オレと塔矢に海外での囲碁の話をたくさんしてくれる。
こんな対局をしたとか、こんなに素晴らしい子供がいたんだ、とか。
それは決して『目上の者として』とか『教える立場だから』という感じではなく、本当に『同い年のトモダチが自分の対局を自慢している』みたいな感じだった。
だって、スッゲー目ぇキラキラさせて話すんだ。
子供みたいだ。

そんな風に、本当に囲碁が大好きで、本当に囲碁のことを楽しそうに語る塔矢先生がオレは本当に好きだった。
嬉しかった。
そして、少しだけ懐かしかった。








塔矢先生といると、まるでアイツといた時みたいだったから。





そんなことを塔矢の横で思ったりしていた。














「おい」
「え?」
「またトリップしてただろ」
「……トリップって。人のこと、ジャンキーみたいにさ」
「なら人と話している最中に上の空になるな。お前の癖だぞ」
「……そう、かな」
「何もないところを見つめたり、何かブツブツ言ってたり。
 お前のことを知らないヤツが見たら本当にただのジャンキーだ」

そう言いながら緒方さんは煙草を1本取り出し、マッチで火をつけた。

「……あれ」
「なんだ」
「緒方さん、いつものどうしたの」
「何が」
「ジッポ。シルバーの」

緒方さんは少し意外そうな顔をしてオレを見つめ、「よく知ってるじゃないか。
さて 
はオレのファンか」と珍しく冗談を言ってマッチの火を消しながら肩をすくめた。

「いや、別にファンじゃないけど。
 あのジッポ、特徴的だったから覚えてたんだ」
「ほう。棋譜以外にも覚えられる脳みそがあるんだな」
「……ボディにさ、何か彫り物してあっただろ。
 一度チラっと見たときにカッコイイな、って思って。
 オレ煙草吸わないけど、このジッポは欲しいなってちょっと思った」

緒方さんはフン、と鼻で笑い煙草の煙を吐き出した。
白い煙が碁盤の上をフワフワと漂う。

「昨日の晩飲んだ時にどこかに忘れてきてしまってな」
「え…」
「女から貰ったモノの中では気に入っていた方だったんだがな。
 まあいい」
「またそんなことばっか言ってー。…その女の人カワイソウじゃん」
「昔のことだ。いつまで持ってても仕方のないものだったしな」

囲碁ジャンキーのガキにはわからんか、とか言いながら緒方さんは煙草を銜えたまま台所へと立っていった。
マッチの残り香が漂う。


















囲碁ジャンキーか。
確かにそうかもな。


逃れることは出来ないんだ。
この黒と白の石から。


アイツを失っても。
塔矢も失っても。



オレは再びこうしてまた黒と白の石の前にいる。



たとえすべてを失っても、オレは囲碁だけは捨てることは出来ない。

















出来ないんだ。