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02-2.5
「……はい。はい。わかっています。
はい。……ええ、大丈夫です。本当に申し訳ありません。
……はい。ではまた明日、僕の方からご連絡を差し上げます。
いえ、とんでもありません、本当に申し訳ありませんでした。失礼します」
携帯を切った後、深く息をつく。
和谷四段と話を終えた後、本当は午後に入っていた取材の仕事を体調が悪いという理由でキャンセルした。
先方にどれだけ怒られても、罵倒されても構わなかった。電話では失礼だと思ったが、それでも誠心誠意謝る気持ちで話をした。
すると先方は怒るどころか、「体調不良だ」と言った僕の身体を非常に心配してくれた。
「明日にして欲しい」という僕に「本当に大丈夫ですか」「ご無理をなさらないでください」「ご迷惑でなければお見舞いの品を」などと、なんだかお互い電話越しに頭を下げながら謝り倒しているような構図になってしまった。
……少し良心が痛む。
仮病(確かにいつもよりは体調不良に変わりはないのだが)を使って、相手に迷惑がかかると知りながら仕事をサボってしまったのだ。
でも。
でも今の僕はそれどころではない。
やらなくてはならないことがあるんだ。今すぐ。
ようやく気がついたんだ。
自分の気持ちにも。何を今すべきなのかも。
そして呼ばれたんだ。
僕にはその声が聞こえた。ハッキリと。
──彼が、僕を呼ぶ声が。
だから僕はいかなくてはならないのだ。
………と思いつつも。
棋院に戻って来たはいいものの、彼に関する手がかりが一つもない。
相変わらず彼の携帯電話は切れたままで、連絡を取ることが出来ない。
もしかして実家に戻っているかもしれない。
彼の実家の電話番号ならわかる。いや、家の場所もわかる。思い切って訪ねていってみようか。
……いや。
もしも実家にいるのなら、もうとっくに棋院と連絡が取れているはずだ。
朝から彼のすっぽかしてしまった数々の仕事の対応に追われている事務局が、今もなお殺伐としながら彼に関する問い合わせの電話対応をしているところを見る限り、おそらく実家にも彼は不在だったのだろう。
きっと彼のお母さんは心配されているに違いない。また、自分の息子が仕事を放って行方不明になっているのだ。
早く、早く見つけなくては。
先程和谷四段から、彼が懇意にしている棋士たちの連絡先をすべて教えてもらった。
和谷四段は午後から指導碁の仕事が入っていて、「お前だけに頼んじまって悪いな」
と言っていた。
彼が「お前の午後の仕事はどうしたんだよ」と聞くので、「すべてキャンセルする」と言うと彼は唖然としていた。
その後、別れ際に彼は「……なんか……もう愛だなお前」などと言っていた。
…勘がいいな、彼は。藤崎さんの旦那さんになるだけのことはある。
しかし、結局他の棋士たちはみな進藤の居場所は知らなかった。
知らないどころか「何でお前が知らないんだ」「何があったんだ」と逆に僕が問いつめられるばかりだった。
彼が見つからないまま刻一刻と時間は過ぎてい8時になろうとしていた。
……ふと、既視感を覚える。
以前に、彼が北斗杯の後に2週間姿を消した時。
その時も僕はこうして手当たり次第に電話をかけ、訪ね、あちこちを探し回ったっけ。
思わずクスリと笑いが零れる。
進歩がないな、僕たちは。
4ヶ月前と何も変わっていないじゃないか。
いや、それどころか7年前からずっと変わっていないんだ、僕たちは。
いつまでもいつまでも終わらない追いかけっこをしている。
キミは、僕が追いかける度にスルリと逃げてゆく。
なのに僕に向かって「お前を追いかけている」などと言う。
終わらないメビウスの輪をグルグルと回っているだけみたいだな、僕たちの関係は。
向かい合えるのは対局の時だけだ。
でも今度は違う。
今度こそ僕は捕まえる。
何故ならわかったのだから。
彼の声が聞こえたのだから。
僕は絶対に彼を捕まえることができるのだ。
僕だけが。
バサバサバサバサっ!
あまりの大きな音に、思わず身体がビクリと震える程驚いてしまい、音のした方を見る。
すると、僕のいる休憩スペースの側の廊下に、本とたくさんの書類が散乱しているのが見えた。
周りには僕以外の人は誰もおらず、さすがに目の前で落とされて無視する訳にもいかず、拾うのを手伝う。
「大丈夫ですか」
「あ、ああ、す、すみません」
盛大に本をまき散らした男は、焦りながら本と書類を拾い集めていく。
……それにしても。
「秀策ばかりだな」
「……お好きですか? 秀策」
あ、と僕は思わず自分の口を押さえる。
いつの間にか思っていたことが口から零れていたようだ。
いつもはこんなことなどないのに。……やはり疲れているのだろうか。
でもその男は、ニコニコとしながら僕の方を見ていた。
「あ、す、すみません。…つい」
「いえいえ」
「それにしても、古い本ばかりですね。僕も見たことのないものがたくさんある。
……この本なんかまったく知らないな。棋譜も……見たことのないものだ」
「ええ、先程資料室からお借りしたんです。
まだまだ一杯あったんですけどね、とりあえず持てる範囲だけ持ってきたんですが。
…って、落としているようじゃ、持てる範囲じゃなかったってことですね」
本当にすみません、と言いながら男はハハハ、と笑った。
「それで、お好きですか? 秀策」
「え」
男は再び質問を僕に投げかけた。
……秀策か。
「…もちろん棋譜はたくさん見ていますし、参考にもしています。
実家に帰れば、秀策の本はたくさんあるし。秀策の棋譜はよく並べますよ。
……こういうのは、好きと言うのでしょうか?」
「それはもう、立派なファンですよ」
男はそう言うと、再び積み上げられた本の中から1冊取り出し、パラパラと捲った。
「今度秀策全集が再編されて、来年の春に出版されることになったでしょう?
僕も一応、執筆者の中に名を連ねているんですよ」
「……ああ、それで」
「進藤くんのようにすべて暗譜しているのならね、こんな本を引っ張り出すこともないのでしょうけど。
僕はさすがにそうはいかなくて」
そういえば進藤がテレビの前のソファーテーブルで、床に座り込んでウンウン言いながら書いていたっけ。
その時も進藤は、特に資料も何も見ずにスラスラと棋譜を書き込んでいた。
まるで自分が打ったものかのように。
この秀策全集の仕事は、彼は一旦は執筆を断ったものだ。
北斗杯の後の行方不明事件の時に、天野氏がそう零していた。
その後彼が復帰して、僕と共に住み始めた頃から、彼の執筆が始まった。
「断ったんじゃなかったのか」と尋ねたら「うーん、なんとなく気が向いたから〜」
と曖昧な答えを返された。
明確な理由を聞いても彼ははぐらかすばかりで、答えてはくれなかった。
「進藤くんは、どうして秀策があんなにも好きなんでしょうね」
「……」
「北斗杯の第1回の時も高永夏と秀策のことでモメたことがあるそうだし。
研究会でも彼はよく秀策を並べるし。
…いってしまえば、彼の棋風は秀策に酷似している」
「……」
進藤が秀策を好きな理由。
もちろん何度も聞いたことがある。
でも答える度に彼の言う理由はコロコロと変わっていて、どれも真実とは思えなかった。
最後には「好きなものは好きなんだからいーの!」と言って押し切られた。
キミのその「好き」はただの「好き」とは違うだろう。
まるで。
「秀策の棋譜に恋でもしているんですかねえ、彼は」
「……」
「なんちゃって、これは冗談ですけど」
そう言って男は笑った後、俯いてしまった僕の顔を見ながら「あっ!」と声を上げ、何かを探すようにしてポケットをゴソゴソと探った。
しばらくして男は「あったあった」と言いながら、僕に小さなものを差し出した。
「……これ」
「今度のお会いする時で構わないんですが。渡しておいていただけませんか?
あなたの方が彼に会う確率は高いでしょうから」
男の差し出したものを受け取る。
僅かな重みと、金属の冷たさが指先に伝わる。
「……緒方さんのライター」
「昨日飲みに行ったんですよ、一緒に。その時に忘れて行かれたんで、お預かりしていたんです。
相当酔っぱらっていらっしゃいましたからねえ、緒方先生」
「…そうなんですか?」
「そのライター、ずいぶん使い込んであって。
愛用されているようでしたから、きっと大切なものじゃないかと」
確かに緒方さんはずっとこのライターを使っていた。
というか、このライター以外で煙草を吸っているところを見たことがない。
僕が子供の頃からだ。
凝った彫り物のしてあるそれは本当によく使い込んであり、あちこち傷がついている。
「……僕の母が、緒方さんにあげたものなんです。確か」
「おや」
「もっとも、僕がまだそれこそ3,4歳の頃ですから、覚えてないんですけど。
母からそう聞きました。大切にしてくれていて嬉しいって」
「そんな大切なものを忘れるなんて。相当に酔ってらしたんですねえ」
「……ハハ」
「だからでしょうか。進藤くんを自分のタクシーなんかに乗せちゃったりしたのは」
……何を。
積み上げた本たちがまたバサバサと耳障りな音を立てて崩れ落ちてゆく。
僕が急に立ち上がってその男の胸ぐらを掴み詰め寄ったからだ。
床に立て膝をついたままだった男は僕の目を眼鏡の奥から冷静に見つめたまま、僕の力を受け止め静かに立ち上がる。
ほぼ同じ目線の高さのまま僕と男は睨み合う。
いや、睨み合うというよりも。
一方的に僕だけが睨んでいると言った方が正しいのだろう。
「『その棋風は青龍のごとく力強い』と言われるだけのことはありますね。……確かに強い力だ」
「……今何て言ったんだ」
「何をです」
「進藤が」
「そんなに大事なら、何故あんな状態のまま放り出したんです」
男は先程まで顔に張り付いていたニコニコとした笑顔を捨て、『冷徹』と呼ぶに相応しい程の冷たい目で僕を見た。
睨まれている訳ではない。ただ、見つめているだけだ。底の見えない水のような、暗くて冷たい目で。
僕は思わず胸ぐらを掴んでいた手を離してしまう。
男は僕から離れると、再び散乱した本を拾い集めた。
「……まあ、色々あるのでしょうけれど。野暮なことは聞くつもりはありませんよ。
馬に蹴られて死にたくはありませんからね」
「……」
「ただ、彼は僕の可愛い教え子だった子だ。
…それこそ、キミと緒方くんのように、僕は彼が囲碁を始める前から知っている。
彼のもつ才能も。力も。闇も。知っている。
理解は出来ないですけどね。僕のような凡人では」
「……」
「キミなら理解できると思ったんだが。無理だったんですか?」
「違う!!」
僕は。
僕は。
僕は僕は僕は僕は僕は。
「……聞こえたんだ」
「何が」
「彼の……声が聞こえたんだ。僕を呼ぶ声が」
「……」
「僕は……僕にしか。
僕にしか聞こえない声だ。
誰にも。和谷四段にも。藤崎さんにも。緒方さんにも。あなたにも。
あれは僕にしか聞こえない声だ。それが聞こえたんだ」
「だったら何してるんです」
「……え」
「早く行きなさい」
呆然と見つめる僕に彼は言う。
「ライターを届けに来たとでも何とでも言えばいいでしょう。
早く行きなさい。
あの子は、キミにしか見つけることは出来ないんだ」
男の言葉を最後まで聞く前に、僕は走り出していた。
エレベーターのボタンを殴るように押す。
もどかしい。
非常階段に向かう。
階段の扉を開く前に、僕は振り返って叫んだ。
「白川先生!!」
白川先生は本を再び持ちあげて、ヨロヨロとよろめいていた。
僕は深く頭を下げ、非常階段の扉を開けると階段を転がるようにして駆け下りた。
きっと白川先生は僕が進藤のことを探しているのを知って、わざと僕の目の前で本を落として接触してきたのだろう。
僕に彼の居場所を教えるために。
見つけた。見つけた。見つけた見つけた見つけた。
逃しはしない。今度こそ。
待っていろ。
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