06-03






緒方さんのマンションに来たのは初めてだった。




当たり前か。オレと緒方さんの間に、互いの家を行き来するほどの接点などない。
棋院や仕事先で会えば挨拶くらいはする。
片手で足りる程だけど、一緒に食事に行ったこともある。(もちろん緒方さんの奢りで)
その程度の間柄だった。

でも何故かオレは今、緒方さんの家にいる。
……何でだろう。


事の顛末は聞いた。
オレがフラフラと明け方の街を一人で彷徨うように歩いていたこと。
それを偶然タクシーから見つけた緒方さんが、オレを自分の家に連れてきたこと。
そうしたらオレが緒方さんちに着くなり死んだように眠りこけてしまい、起こしても起きないので放っておいた、ということ。

「飲みの帰りで、酔っぱらっていたからな。
 気まぐれで野良猫を拾ってやったんだ。感謝しろ」

そう言って緒方さんはフンと言いながらいつものように笑った。




そして今こうして月明かりの下で、二人で盤を挟んでいる。







塔矢先生が打ったという三星火災杯の棋譜を最後まで並べ、散々怒鳴り合いながらも検討を行った後に、一局打とう、ということになった。
オレは今人生最大の絶不調中で、とてもじゃないけど三冠の緒方先生のお相手なんて務まりませんよと言うと、緒方さんは溜息のような白い煙草の煙を吐き出した。

「仕方ないから、今のお前でガマンしてやるよ」

そう言って緒方さんは皮肉な笑いを浮かべ、「場所を移そう」と言いながらベランダへと向かった。




緒方さんの住んでいるマンションはいわゆる「デザイナーズマンション」というヤツで、生活感はないけれど、とてもオシャレな造りになっている。
高さは3階建て(のもちろん3階の一番いい部屋に住んでいる)と、最近のマンションにしては低いものだったが「あんまり高い所に住むとイチイチ降りたり上ったりするのが面倒だろう」と緒方さんは言った。(まあ後日実は緒方さんが高所恐怖症だっ 
たということを知るのだけれど、それはまた別の話)
部屋は3LDKと一人暮らしにしてはかなり広く、一番すごいのはベランダ(「ベランダ」と言ったら緒方さんは「バルコニーと呼べ」と言って怒った。細かい人だなあ)だった。
屋根のついている「ルーフバルコニー」ってヤツで、観葉植物などの他に白い木で出来たテーブルと、同じく白い木の綺麗な椅子が二脚置いてあり、それでも十分に有り余る広さだった。
屋根はガラス張りで夜空が透けて見え、ガラスの向こう側にキラキラと星が輝いていた。

そして、その星空の向こう側に見えるのは、大きな月。


最初はこんな薄暗い中で打てるのだろうか、と思った。
でも緒方さんは「ここなら月の明かりだけで十分だ」と言って、お酒を飲みながら白石を持った。






明るい………。






月の明かりはオレが想像していたものよりもずっと明るくて美しかった。
まっすぐに碁盤を照らす、綺麗な光。







まるで、あの時のような。

















4年前の遠い春の日。


















ちょうど今と同じ感じの月明かりの下で、オレは4年前緒方さんと打った。
いや、打ったのはオレじゃない。




アイツが打った、最後の対局だった。




あの日も、緒方さんはお酒を飲みながら白石を打っていた。










緒方さんは、あの日の対局のことは何も言わない。今も。
きっと聞きたいことは山程あるだろうに。

それとももう忘れてしまっているのだろうか。酔っぱらっていたしな。
そもそも4年も前の話だし、緒方さんにしてみれば酔いの席で打った戯れ言の一局に過ぎなかったのかもしれない。
覚えていろ、という方が無理な話だろう。




でもオレは、今もあの日の対局をハッキリと覚えている。




古い旅館。
畳の匂い。
芦原さんのイビキ。
お酒の匂い。
緒方さんの手。
石を打つ音。
輝く星。
月の光。




アイツの指し示す、美しい一手。




アイツは綺麗だった。
月の光に透けて。
アイツの向こう側に、夜空の星がキラキラと輝いていた。
そしてアイツの打つ一手一手も、美しい光を放ってキラキラと輝いていた。


それが、最後の輝きだとも知らずに。



オレは。
















































…緒方さん。
覚えてないの?






アイツの綺麗な綺麗な一手を。






ねえ。














































聞いてみようか。

































「ねえ、緒方さん」
「何だ」

少しお酒の入っている緒方さん。
このシチュエーションもあの時と同じ。

「思い出さない?」
「何が」

月の光を頼りに打つ。
これも、あの時と同じ。

「前にもこんなことあったよね」
「……」
「覚えてない?」

白石を置いた緒方さんの手が、碁盤の上でピタリと止まった。
オレは碁盤から顔を上げて緒方さんを見る。

あの時とまったく同じ。
月の光を浴びながら、緒方さんはオレのことをジッと見つめていた。




あの時と違うのは、アイツがいないというだけで。































「意外だな」


緒方さんは白い煙を吐き出すと、短くなった煙草を灰皿に押しつけて火を消した。



「お前の方からその話題を持ちかけてくるとは思わなかった」
「……え」
「4年前の対局」


確かにあの時もこんな月明かりの下だったか、と言って緒方さんは空を見上げて明るい光を放つ月を見た。


「お前はどうでもいいことはよく喋るくせに、肝心の事はちっとも話さないからな」
「…何だよ、それ」
「言葉の通りだ。だから今まで聞かなかった。
 問い正したいことは山程あったがな。
 でもどうせ何を聞いても答えないだろうと思った」


緒方さんは新しい煙草を再び出すと、マッチをすって慣れた仕草で火をつける。
マッチの燃える匂いが、月の光と混じり合って碁盤の上に流れる。


「……オレに……何を聞きたかったの?」
「どうせ何も言わないくせに」

緒方さんはそう言うといつものように鼻でフン、と笑った。
それと共に力強い一手を打つ。
碁石が静かな夜の空間に、心地よい音を立てて響いた。

「そんなのわかんないじゃん」
「ほう」
「今日は、言うかもよ」
「何でまた」
「一応、緒方さんには借りが出来ちゃってるしね」

なるほどな。
そう言いながら緒方さんは、愉快そうに煙を吐き出した。

「では一つ聞かせてもらおうか」

眼鏡の奥で、緒方さんの色素の薄い瞳が月の光に反射するようにして光った。















「saiはどこにいる」