06-5.5





「その少年は、幼い頃より囲碁を嗜んでいました。
 彼の大好きだった曾祖父が、囲碁が趣味だったからです」

「彼の家は、代々医者を営んでいました。
 彼の父親も、母親も、祖父も、叔父も、叔母も、従兄弟も。
 自分と同じ名を冠する人たちは、皆医者でした。
 だから彼も、小さい頃は『将来は自分も医者になるんだ』
 ということを信じて疑いませんでした」

「彼が小さい頃、両親はほとんど家にいませんでした。
 仕事が忙しいからだ、ということを理解していた彼は、
 両親がいないからといってグレることもなく、愛情が足りない! などと言って喚くこともなく──
 今思えば、それもすべてあの曾祖父のおかげだった」

「学校から帰って家にいても退屈な彼は、よく曾祖父の家に行っていた。
 彼の実家の本家にあたる家で、じいさんが一人で住むにはデカイ屋敷だった。
 曾祖父は彼を大変可愛がってくれた。
 彼には兄と妹がいたが、彼らは本家に来ることはほとんどなかった。彼だけが足繁く通っていた。
 そこで彼は、初めて囲碁というものに触れた」

「面白かった。
 白と黒の世界なのに、彼には酷くそれが色鮮やかな世界に見えた。
 自分の住んでいる実家の方が、よっぽど白と黒しかない、モノクロな世界に見えていたからだ」

「彼は、曾祖父が目を見張る程、すごい勢いで囲碁を覚えていった。
 10歳で始めてから、その1年後には、アマの中ではそれなりに名を轟かせていた曾祖父を
 アッサリと抜いてしまった」

「曾祖父は喜んだ。『これは喜ばしい才能だ』と。
 彼は嬉しかった。初めて自分の能力が誉められたような気がしたんだ」

「でも両親や兄弟はいい顔をしなかった。
 勉強もせずに何をやっているんだ、と。
 そんな石遊びなどしていないで、医者になるべく将来に向けて勉強をしろ、と」

「でも曾祖父は言った。
 『この子には我々には持つことの出来なかった才能がある。
  それを家の古いしきたりなんぞで潰してくれるな』
 ──と」

「そう言った曾祖父自身も医者だった。
 代々続いてきたこの家業を最も発展させ、世間に「緒方」の名を知らしめたのもこの人だった。
 でも──ジイサンは、何も息子や孫たちに自分の跡をついで欲しいわけじゃなかったんだ。
 やりたいことをやってほしい。
 いつも曾祖父が言っていたことだった」

「両親は、彼が囲碁をやっても何も言わなくなった。
 協力もしてくれなかったがね。そのかわり文句も言わなくなった。
 その時オレは思った。
 『ああ、オレは諦められたんだな』と」

「それでも良かった。
 これで思う存分囲碁が出来る。
 囲碁より面白いものなどないんだ。
 ──そうだ、囲碁で。
 囲碁でオレは上まで上りつめてやる。そしてオレを諦めたアイツらを見返してやる。
 フフ、今思えばなんともまあ短絡的で、ガキッぽい理由だったな。
 でもそれが、随分と長い間オレのアイデンティティだったんだ」









「オレが囲碁を始めて3年程経った時──
 中学に入る頃だったか。
 曾祖父が一人の碁打ちを連れてきた。
 何でも、その碁打ちがプロになる時に後押しして尽力したのが曾祖父だったのだ。
 いち早くその碁打ちの才能に目をつけたのも曾祖父だった」

「まだ若いその碁打ちは、その頃の碁界の若手台頭の旗手だった。
 ──その人はずば抜けた才能がありながら、不遇な状況に身を置いていてね。
 プロになるのが遅かったんだ。
 彼がプロになったのは、25歳になってからだった。
 でもその後の彼の台頭は早かった。あっという間にタイトルを手にした。
 その人は曾祖父にとても感謝していた。
 『自分が今こうして碁を打てているのは、緒方先生のおかげです』ってな」

「オレとその碁打ちが出会ったのは、彼がタイトルを手にしたばかりの頃だった。
 そう、初のタイトルにして『名人』だった。
 タイトルホルダー。しかも『名人』。当時のオレが目指すべき、将来倒すべき存在がいたんだ。
 オレは胸が躍った。どんな男だろう、と」

「初めて会った印象は──質素な男だった。
 傲りもせず、物静かで寡黙な男だった。
 オレは少しがっかりした。なんだ、こんなものか、と。
 タイトルホルダーってのは、もっと常に堂々としているものだと思っていたんだ」

「でもそんなオレの考えはすぐに一蹴された。
 碁石を持った途端、その人の目の色が変わった。
 水の底のように静かだった黒い瞳が、まるで何もかも焼き尽くすかのような
 炎を宿した瞳に変わっていた」

「衝撃を受けた。それまでの自分の世界の狭さを思い知らされた。
 こんなに強い男がいるなんて。
 驚いたが嬉しかった。
 やっぱり、やっぱりオレの目指すべき世界は間違っていなかった、と。
 囲碁ほど面白いものなど、どこにもない。
 そう確信した」










「それからオレはすぐにその人に弟子入りした。
 最初は『自分はまだ弟子なんて』と言っていたが、
 …さすがに世話になった人の曾孫だ。断れなかったんだろう。
 半ば押し掛け的な形で、オレは弟子入りした。
 オレは学校が終わると、その人の家に向かった。
 楽しかった」

「弟子入りした次の年のプロ試験にオレは外部で受けて、一発合格した。
 当然だった。
 あの人の教えを毎日毎日受けていたんだ。
 それでオレはあの人と同じプロの世界に入った。
 一番喜んでくれたのは──やっぱり曾祖父だった。
 良かった。オレは曾祖父が喜んでくれたことが一番嬉しかったし、誇らしかった」

「そしてその直後、曾祖父は亡くなった」

「──まあ、もう歳だったしな。
 入退院を繰り返していたのは知っていたし──
 覚悟はしていたつもりだったが……さすがに辛かったな。
 プロになったばかりだというのに、沈んでロクな碁が打てなかった。
 そんな時、オレを励ましてくれた人がいた」

「一人の女性だった。
 6歳年上で──オレと先生がよく行く碁会所で給仕をしていた」

「寡黙で言葉下手な先生に代わって、その人はコロコロと明るい声でよく笑い、喋った。
 落ち込むオレをひたすら励ましてくれた。
 よけいな意地を張って悲しいのに泣けないオレの代わりに泣いてくれるような人だった」

「明るくて──美しい人だった」

「気がつくとオレは調子を取り戻し、連勝街道を突き進んでいた。
 先生よりもその人の方がよっぽど喜んでくれたな。
 囲碁は自分のために打っているつもりだ。
 でもその人がそうやって喜んでくれるのは純粋に嬉しかった」

「それからその人は、何故か先生の家でもよく見かけるようになった。
 オレが学校を終えて先生の家に行くと、いつもその人が当然のように出迎えてくれた。
 おいしいお茶を入れ、お菓子を出し、囲碁で煮詰まると楽しい話をしてオレと先生の気を紛らせてくれた」

「気がつくと──先生とその人は、互いを名前で呼び合っていた」

「そして、そうなってからオレは初めて色々気がついたんだ。
 先生とその人が付き合っているらしいこと。
 そしてオレはその人のことが好きだったらしい、ということ。
 でもその人はオレの大切な先生しか見えていなかった、ということ」

「笑っちまうだろう?
 自覚した途端に失恋決定だ。しかもどちらもオレの大切な人だった。
 どうにもこうにも、身動き一つすら取れない。
 生殺しだった」

「それからまた月日が流れて、その人は子供を産んだ。
 その人にそっくりな可愛い子でな。…まあ、中身は先生にソックリだったんだが。
 最初は入籍したこと、妊娠したことを聞いた時は辛かった。
 オレは生まれてくるその子に優しく接することが出来るのかどうか不安だった。
 それがどうだ。
 生まれてきた赤ん坊を見たら、それまでオレの中に渦巻いていた思いは
 サラサラと流れて消えていた。
 ごく自然に──『愛おしい』という感情が沸いた。
 このオレがだ。
 自分で自分に笑ってしまったな」

「そしてその生まれた子が3歳くらいになる頃──
 オレは棋院主催の成人式を終えて、出席していた先生と共に先生の自宅へと帰った。
 当時すでに今もいる門下のほとんどの人間が…そうだな、芦原以外は入門していてな。
 家ではすでに祝杯ムードだった。
 『これで我々も堂々と酒が飲めるな』なんて言ってな。それまでも堂々と飲んでいたくせに。
 まあ、来年はお前もアキラくんも味わうとは思うが」

「祝杯も終焉を迎えた頃──ほとんどの人間は酔いつぶれて寝てしまい、
 先生はさっさと自分の部屋に引っ込んでしまっていた。
 オレは一人で、ちょうど今夜のような夜空を見ながらチビチビと飲んでいた。
 すると──気がつくと、あの人がオレの隣に穏やかな笑顔で座っていたんだ」

「夢を見ているのかと思った。それか幻覚を見るほど酒に酔ってしまったのか──
 オレは酒を飲むのも忘れてその人の美しい顔を見た。
 その人は変わらず笑っていて、オレに小さな箱を差し出した」

「百合の花の彫ってある、綺麗なライターだった」












『あんまり煙草吸い過ぎちゃ駄目よ』











「そう言って、彼女は先生のいる部屋へと戻っていった」

「こんなにも、今にも手の届きそうなところにその人がいる。
 でもその人には手を触れてはいけない。
 絶対に」












「触れられる距離にいて、でも触れてはいけない。
 触れるな、と言う」























「こんな残酷な話があるか」