昔──幼稚園に入るころだったか。
一度だけ囲碁教室、というものに通ったことがあった。

父とは当時から毎日打ってはいたが、その頃の父はまさに飛ぶ鳥を落とす勢い、とでもいうのだろうか。
次々とタイトルを獲得し始めた頃で、対局数も半端な数でない上に地方などで行われる囲碁のイベントやら雑誌の取材やらに容赦なく借り出されており、家に僅かな時間
しか帰ることの出来ない日々が続いていた(と記憶している)。
父が家にいる日の朝は対局することが出来たが、それ以外の時間は父が僕との対局のために時間を割くことなど到底不可能だった。
当時緒方さんや何人かのお弟子さんたちが研究会と称してよく家には来ていたものの、彼らはまだ勉強中の身で、(彼らにとってみれば)碁石を持ち始めたばかりの幼稚園
児に一から教えている暇などももちろんなかったのだろう。

さすがに見かねた父は、僕を仕方なく近所の囲碁教室に入れた。
僕が石から離れてしまうことを恐れたのだろう。





僅かな間しかいなかったから、ほとんど覚えていないけれど。
一人だけ、鮮明に記憶に残っている子供がいる。
























その子は──名前は覚えていない。顔も。
確か、僕より一つか二つ年上だったか。

囲碁の実力は覚えている。
素直でいて、とても力強い棋譜を打つ子だった。
他の子供たちよりもずば抜けて強く、才能のある子だった。

僕は、その子と打つことだけが、あの囲碁教室の中で少しだけ楽しかったのだ。




その子が。

囲碁教室の休憩時間に、階段の踊り場で父親らしき男に酷く怒られていた。

『なぜ一度もあの子に勝てないんだ』
『おかげでお前はずっとNO.2だ』

『そりゃ勝ちたいよ。でも塔矢は──』

『今日こそ勝て! 勝てないうちは家には入れん!』



















僕のことだ。

僕に勝たなくちゃお家に入れないの……?

僕のせい……?

どうして?



























午後の対局はその子とだった。











































『確かにお前はひとりレベルの違う碁を打つ』


当たり前じゃないか。


『まぎれもなくNO.1だぜ』


だって僕は。


『でもな、いつかオレ様がお前を追い抜いてNO.1になってやる。
 覚悟しとけよ』


そんなの無理だよ。


























だって僕はお父さんの子供だから。



























































『ボク……負けようか?』


































































これでキミはお家に入れるよ。
良かったね!
























































僕は、その事を誉めてもらいたくて父に嬉々として話した。
父はいつものとおり碁盤の前で腕を組み、険しい顔をしたままだった。
頭を撫でてはくれなかった。


どうして?









次の日囲碁教室に行くと、昨日のあの子は辞めていた。


どうして?








そして僕も翌週には父に手を繋がれて、囲碁教室を後にした。
もう二度と囲碁教室に行くことはなかった。


どうして?














その帰り道に、父が僕に言ったのだ。































































『すまなかった』






























































後にも先にも、父に謝られたのはその1回だけだ。















どうして?


なんであやまるの、お父さん。






























































何故あの子が囲碁を辞めてしまったのか。

何故父が僕に謝ったのか。








今も僕は、わからないままでいる。














innocent world


act.07













































































「ホントにわかんないの、お前」
「………」
「バカだな」
「………」


バカと言われて、僕はジロリと彼を睨む。

進藤は少し掠れた声でもう一度呆れたように「バッカだな〜」と言うと、彼の隣で横になったままの僕を無視するかのように僕の身体の向こうに置いてあったペットボト
ルに手を伸ばした。
彼の、骨の浮き出る痩せた白い脇腹が嫌でも(嫌ではないんだが)目の前に飛び込んできてしまい、今さらながら思わず僕は目を逸らす。

彼はペットボトルの蓋を開けると、ゴクゴクと音を立てて中の水を飲んだ。
水が彼の喉を伝っていく度に、細い、白い喉仏が上下に動く。


その首筋に散る、赤い痕──。







……僕が付けたのか。(当たり前だけど)







ここまで至るに思い起こされるは、あの茨のような長い道のり……。


なんだかある種の感動のようなものが込み上げてきて、目頭が熱くなる。
それと同時に僕があの痕を付けた時の彼の表情と声色を思い出して顔まで熱くなる。
ついでに身体も熱くなる。



僕がそうして一人で感情の渦とワケのわからない熱に巻き込まれてる間に彼はいつの間にかミネラルウォーターを飲み干していて、思いっきり怪しんだ顔で僕のことを覗き込んでいた。



「な、なに」
「何一人で赤くなってんの」
「べっ…、別に」
「な〜んかイヤラシイこと考えてただろ〜、お前」



彼はそう言って、彼こそイヤラシイ笑みを浮かべると僕の鼻を力一杯摘んで引っ張りあげ、横になったままだった僕の身体を30度程力任せに起こす。
僕はというと、もちろん両の鼻の穴を塞がれた上に力任せに引っ張られた訳だから、それによって起こる身体的現象として自然に間の抜けたような鼻声になり、痛覚も同時に刺激されて涙まで出る。(これは先程の感動によって込み上げてきた涙とは別物だと信じたい)


「イッ……イタタタタタ! ひんどう(進藤)、イタ…ッ…、…ンッ……」



視界が彼の小さな顔によって塞がれる。
鼻声で喚き散らしていた僕の口も塞がれる。彼の口によって。





口も塞がれて、鼻も塞がれて。
どこで呼吸をしろというのか。皮膚呼吸で補えとでもいうのか。
ふざけるな。ぼくはカバじゃないんだから。バカかもしれないけれど。


さっきキミが言った通り。







バカか。















バカで結構だ。何が悪い。
キミが、ここにいるのだから。

これ以上のことなんて、僕にはない。

























さすがに息苦しくなって、涙目になりつつうっすらと目を開ける。
彼の顔が至近距離で目に飛び込んでくる。

端正な顔だな、と思う。
白くて小さな、綺麗な顔。


思っていたよりずっと睫が長い。







その睫がフルフルと小刻み震える彼のキスの時の癖を確認すると、僕の身体は力が抜けたように彼を受け止めたまま後ろに倒れた。









酸欠のせいか、寝不足のせいか、幸せのせいか。





意識が遠のいていく。


















………ああ、カバは別に皮膚呼吸で暮らしている訳じゃないよね……ごめんね、カバ……などとうっすらと幼稚園の頃動物園で見たカバの顔を脳裏に思い描きながら僕は意識を手放した。