07-3.5






「……で、ここに打つと…、ホラ、こっちと連絡ができるでしょ」
「ほほう」
「そうすると、ここに道ができる」
「ふむ」
「この石が、生き残れる道が」

「なるほどなあ」




先生は、深く感心したように大きな声でそう言いながら、子供のようなキラキラした目で盤面を見つめた。
そんな様子を見て、オレはなんだか嬉しくなって、いつもニコニコとしている先生の笑顔につられるようにニコニコとしてしまう。
まったく70過ぎのジイサンなのに、なんでそんなに嬉しそうなんだか。
ああ、でもオレのじいちゃんも70過ぎてるし。

……いいな。いつまでも、この歳になってもこうしてキラキラとしていられるのって。

あんまりオレがジッと見つめていたせいか、先生は不思議そうな顔をして盤面から目を離し、オレを見上げた。


「なんだい?」
「あ、ううん。先生、楽しそうだなあって」
「そりゃあねえ、キミのファンだからね、僕は。
 そのキミに指導碁を打ってもらってるんだから。楽しいさ」

先生はそう言いながらオレの茶碗を覗き込み、お茶湧かしてくるか、と言いながら席を立った。


畳の敷かれた8畳のこの居間のとなりには、少し広めのダイニングキッチン。
シュンシュンと薬缶が湯気を立てる音が聞こえてくる。
先生は鼻歌交じりに戸棚をあけて、おまんじゅうをお皿の上に乗せているのが見えた。

オレは少し早めに出されたこたつに足をつっこみながら、テレビをボンヤリと見ていた。
テレビの上には北海道の熊の置物。その横には古い茶色のタンス。そのタンスの上にはまたどこかのお土産。
こたつの上に広げられた碁盤は折り畳み式の安いヤツで、何十年とよく使い込んであるのか、あちこち傷だらけだった。

どこにでもある普通の、ちょっと懐かしい家。

ウチのじいちゃん家に少し似てるかな。
居間から見える庭に目をやり、葉がチラチラと散っていくのを見ながら思った。


この家が少し他の家と違うとしたら。
正面玄関に出ているのは表札ではなくて看板で。

この居間とダイニングキッチンと、小さな物置の横にあるのは小さな古い扉で。
その扉を開けると、そこに漂うのはツンと鼻をつく消毒液の清潔な匂いで。

昔ながらの古い「町の診療所」の小さな待合い室があって。


「おっまたせ〜」

そう言いながら再びこたつに戻ってきたこのおじいちゃんは、昔ながらの古い「町のお医者さん」で。
名を矢部先生といった。






矢部先生のこの診療所兼自宅は、塔矢先生の家のすぐ側にある。
塔矢家の人々は昔から風邪を引いたりすると、この病院に訪れていたらしい。
現在では矢部先生は歳をとったこともあって、週2日程診療所をあけて、昔なじみの患者さんだけを診ているらしかった。
それ以外の日は、趣味の釣りをしたり、盆栽をいじったり、碁を打ったり。

この診療所兼自宅には、先生が一人で住んでいた。
「奥さんはいないの?」と聞いたら、「随分前に死んじゃったよ」と先生は笑った。

それで、どうしてオレがそんな塔矢家縁の家に指導碁に来ているかというと。



先日、塔矢が仕事でいなくてオレが家でボーっとしていた時、塔矢のお母さんから電話がかかってきたのだ。
オレと塔矢は仕事の関係もあり、それぞれ電話線を引いてそれぞれの部屋に電話を持っている。
最も今では、仕事の電話だろうとプライベートの電話だろうと、ほとんどがケータイにかかってくる。
だから本当は自宅用の電話なんて必要ないとオレは思っていたのだけど、塔矢が「インターネットをやるには電話線が必要だし、原稿チェックでFAXを受け取ることも多いんだから、電話は持っていた方がいい」と言うので渋々電話を引いた。(オレの分も塔矢が引いた)

そんなわけで、この自宅用電話はインターネットとFAXのためだけにあり、通話をするための電話機としてはほぼ使われることはない。
その電話機が、本当に久しぶりに音を立てて鳴ったのだ。


「……もしもし?」
『ああ、進藤君! こんにちは!』
「………ええと」
『突然お電話してごめんなさいね。アキラの母の塔矢明子です』


予想していなかった電話口の相手にオレはメチャクチャ驚いて、思わず大きな声を出しながら「塔矢に何かあったんですか!?」などと聞いてしまった。
すると塔矢のお母さんはいつものように明るい鈴の鳴るような声でコロコロと笑って『いいえ、ちょっと進藤君にお願いがあってお電話したのよ』と言った。

「お願い?」
『あのね、私やアキラが昔からとてもお世話になっている方がいて。
 その方も囲碁をおやりになるの。それでね、進藤君の大ファンなのよ』
「はあ……」
『それでね、是非進藤君に指導碁を打ってもらえないかって』
「オ、オレがですか?」
『本当に不躾なお願いでごめんなさいね。進藤君が忙しいのはわかっているから、無理しなくていいのよ。
 本当にお時間のある時で構わないの』
「い、いや、そーゆーことじゃなくって。
 その、塔矢やおばさんの知り合いってことは…塔矢だって普段指導碁打ったりしてますよね、きっと」
『ええ、そうねえ。最近はあの子も忙しいみたいで、なかなか先生のところに行けないって、この前ボヤいていたけど』
「あの、ってゆーことは…その、塔矢先生…とかも?」
『その方ね、お医者さんをしてらしてね。私たちの家の近くで診療所を開業なさってて。
 元はといえば、あの人の…行洋の掛かり付けのお医者様だったのよ。
 だからあの人が本当に一番にお世話になってる方で。今でもこうして日本に帰ってくると、時々お相手させてもらってるみたいだけど』
「そっ……そんなのダメですよ!」
『何故?』
「だっ……塔矢はともかく、塔矢先生が指導碁打って……!
 その、オレも普通になら打ってみたいけど、オレなんかの指導碁なんて、そんな全然大したことないし!」
『でも、その先生は進藤君のファンなのよ。
 随分前だけど、アキラが先生に「進藤君と住んでるんです」って言ったら先生怒っちゃってね。
 「僕、ファンなんだから! そういうことは早く言ってよ!」って。
 アキラもタジタジでねえ。本当に面白かったわ』

塔矢のお母さんはそう言うと再び明るい声で笑った。




『その先生はね、アキラや行洋の碁じゃなくて、あなたの碁が好きなの。
 あなたと碁が打ちたいって言ってるの。
 行洋やアキラに遠慮することなんて、全然ないのよ。
 もし良かったら、打ってあげて。ね?』





オレの碁が。







何故だかオレは、電話口で真っ赤になってしまい、そのまま塔矢のお母さんから矢部先生の連絡先を聞いて指導碁をする約束をしてしまった。





オレの碁が、好き。














何故だろうか。

塔矢のお母さんにそう言われたのは、誰に言われるよりも、オレは嬉しかったのだ。















──そうしてオレは、矢部先生の家に指導碁を打ちに来たのだ。
先生は昔から塔矢や塔矢先生と打っているだけあって、打ち筋が少し似ている。
でもずっと柔らかくて、包み込むような暖かい優しい碁だった。

矢部先生もその碁の通り優しくて暖かい人で、オレが行くと本当に喜んでくれた。
なんだか、ホントにオレのじいちゃんみたいだ。
塔矢もきっと、矢部先生と話しているときはそう思っているんだろうなあ。
そう考えるとオレはまた嬉しくなって、先生と一緒にずっとニコニコとしながら碁を何局か打った。

二人でこたつに足を入れ、向き合ってズズッとお茶をすする。
塔矢がウチで入れてくれるのと同じ日本茶の味がする。
きっと、同じお茶屋さんで買っているんだろうな。
そんな小さなことからも、ここにいるとオレの知らない塔矢に会えそうな感じがした。


「ねえ、先生」
「何だい先生」
「……先生はやめてよ。進藤でいいよ」
「先生って呼ばれるの嫌いかい」
「うん。全然慣れない」
「奇遇だね。僕も同じ。もう40年以上先生なんて呼ばれちゃってるけど、まだ慣れないよ」

先生は肩を竦めながらそう言って優しい顔で笑った。
皺だらけの小さな顔がクシャクシャになる。
オレもつられて微笑んでしまう。

「あのさ、塔矢は小さい頃からこうして先生と碁を打ってたの?」
「ああ、そうだねえ。あの子はやっぱり昔から強くてねえ。
 全然手加減してくれないんだよ。老人相手にヒドイだろ?」
「アハハ」
「でも昔から優しくて可愛い子でね。そして囲碁に対して誰にも負けない誇りと情熱を持っている」
「うん」
「イイ男だろ?」
「……うん」
「惚れそう?」
「もう惚れてるかも」

オレがそう言うと、先生は「あー進藤君取られちゃったなー」と頭を掻きながら豪快にガハハと笑った。

「小さい頃の塔矢って、どんなだった? 可愛かった?」
「知りたいかい?」

先生は眼鏡の奥からオレの顔を見上げると、今度はンフフフと何かを企んでいるような雰囲気で笑った。

「進藤君がきっとそう言うだろうと思ってね。イイもの用意してあるんだよぉ〜」

そう言って先生は戸棚から大きな古いアルバムを出し、埃を軽く払うと、こたつの上の碁盤をどけてオレの前へと差し出した。






「アキラくんの小さい頃。知りたいんだろ?」