07-04








形成はまさに五分と五分。
取られれば取り返し、取れば取り返され。
盤面のあちこちで激しい闘いが繰り広げられていた。

お互いの持ち時間も少なくなっていく。

時計は午後3時を過ぎた。
中央で取り込まれている黒4子や、下辺黒地の出来具合をにらみながら難解な進行が続く。
消費時間は、1日目は芹澤先生が1時間以上多く使っていたが、いつのまにか白番である僕の方が追い越していた。黒105の時点で、芹澤先生が6時間23分、僕が6
時間30分。
互いに残り1時間半程度になった。


ふとした瞬間に、顔を上げる。
芹澤先生と目が合った。
すべてを焼き尽くすかのような、紅蓮の炎を宿した鬼のような目。

さすがに2年防衛を果たしている名人だ。
そうそう簡単には渡してくれないか。

脳が痺れてくる。
普段は眠っているはずのすべての脳細胞が起きあがって、白と黒の石を並べているからだ。





負ける訳にはいかない。
こんなところで負ける訳にはいかないんだ。









僕は何としても名人を獲りたい。
父が初めて獲って、そして引退するその時まで守り通したタイトルだ。

週刊誌やTVで騒がれているような「父の偉業を受け継ぐ」とか「父子二代で輝く名人位」とか。
そんな生易しい感傷に浸っている訳ではない。
これは闘いなんだ。


僕自身の。



名人を獲れば初めて色々見えてくるかもしれないんだ。
父が守った名人位のこと。父の囲碁のこと。名人として囲碁を打っていた時の父の気持ち。






僕は小さい頃から、それこそ物心付く前から父と囲碁を打ってきた。
毎日、毎日。
それが小さい頃の僕の全てだったのだ。
父と、父のいる白と黒のこの世界が。
僕の全てだった。

でも幼かった僕には、その時の父の気持ちなんてまるでわからなかったのだ。

どうして父は、囲碁を始めたのだろう。
どうして父は、僕に囲碁を教えたのだろう。
どうして父は、あの時。






どうして父は、あの時僕に謝ったのだろう。







『お前こそ、もー少しキョーミ持ったほうがいいと思うぜ』


駄目なんだよ、進藤。
僕には囲碁が全てだから。
小さい頃から、それだけで育ってしまったから。


『そうしないと、多分その囲碁教室を辞めた男の子の気持ちっての、一生わかんないぜ』


そんな僕でも。
名人を獲れば、その時の父の気持ちがわかるかもしれないって思ったんだ。
僕に謝った、あの時の父の気持ちが──。














パチッ。







芹澤先生の置いた黒石の力強い音でふと遠のいていた意識が再生する。
芹澤先生の置いたその場所は──。





シンと静まりかえった対局場。
もちろん立ち会い人や記者の話し声は厳禁だ。
でもその、静粛なピンと張りつめた空気だからこそ、そこにいる人間のわずかな息づかいが嫌という程はっきりと耳に入るのだ。

一斉にその場にいる皆の息を飲む音が、僕の耳にはっきりと聞こえた。
そして僕の脳がビリっと痺れる音も。






思いもよらぬ場所にあった、白の急所。








紅蓮の炎に焼き尽くされる、白い聖地。













負ける訳にはいかないんだ。
これに勝てば、僕は初めて父の気持ちを理解することが出来るかもしれないんだ。
もしかしたら、あの男の子の気持ちも解ることが出来るような気がするんだ。

そして、そうしたら──。


進藤の。
進藤の本当の気持ちを理解することが出来るかもしれないんだ。





進藤の、深い深い進藤の奥底に沈む、本当の彼の気持ち。
それが解るような気がするんだ。





負ける訳にはいかない。
負ける訳にはいかない。
負ける訳にはいかない。
負ける訳にはいかない。
負ける訳にはいかない。






この第6局の前の晩に進藤と打った時に彼の綺麗な綺麗な一手が語っていたんだ。
「お前なら勝てるよ」と。











次の一手を打つ。素早く黒に返される。
残り少ない時間。










どこに。
どこに打てば白の生きる道は──。


脳がビリビリと痺れる。













生きる道は──。
























































































囲碁は、二人揃わなければ始まらない。
二人が向き合って、初めて打つことができる。

それが碁なんだ。











でも僕は時々思う。




























囲碁は孤独だ。

自分の力だけで生きる道を探し出さなければ、死んでしまうんだ。
























そんなこと、父の子として生まれた時から、僕はわかっていたけれど。














このまま。
このまま僕は、父の気持ちも、あの男の子の気持ちも、本当の彼の気持ちも。
わかることのできないまま。



それでも僕は、この孤独な闘いをたった一人で続けていくことが出来るだろうか?








たった一人で。