07-4.2









外はすっかり暗くなっていた。
日が落ちるのが早い。冬の足音が聞こえ始めている証拠だ。
冷たい風に、オレは思わず肩を竦めながら自分を抱き込むようにしてジャンパーの前を合わせた。

「夕飯食べていけばいいのに」

外まで見送りに来た矢部先生は、寒そうにオレと同じように腕を組みながら、残念そうな顔をした。

「ありがと。でもこれから棋院に寄らなくちゃいけないんだ」
「仕事?」
「いや、出版部に原稿取りに行くだけ。
 来年さ、秀策の全集が出るんだよ。それの執筆やってんの、オレ」
「へえ! 秀策かい!」
「先生、秀策好きでしょ?」
「よく分かるね」
「じゃ、買ってね、全集」

きっちり宣伝かあヤラレタなあ、と言って先生は頭を掻きながら派手に笑った。
オレも先生の豪快な笑いにつられて、思わず笑ってしまう。

優しい優しい先生。


小さい頃の塔矢の側にいた人。

塔矢を見てきた人。



そして、「塔矢の可能性を奪ってしまったかもしれない」と後悔している人。







「先生さ」
「うん?」
「さっき、『塔矢の囲碁以外の可能性を我々が奪ってしまったのかもしれない』って言ってたじゃない」
「……うん」
「オレは、そうは思わないよ」


オレがそう言うと、先生は目を丸くしてオレを見つめた。


「だってさ、それは塔矢の運命だったんだよ」
「……運命」
「うん。塔矢先生の子供として生まれた、運命」
「……」
「…うーんと…、オレ頭悪いからさ、あんまり上手く言えないんだけど。
 塔矢が先生の子供として生まれて、2歳で囲碁を始めて、才能を開花させて。
 囲碁がすべて、として育ったのって、塔矢の運命だったんだよ」
「……」
「きっと『お前は囲碁をやるために生まれてきたんだよ』って、言われて塔矢は先生の子として生まれたんだよ」
「……」
「塔矢は、…うーんと、ホラ、オレと違ってアイツ頭いいからさ。
 きっと、小さい頃からそれが分かってたんだよ。それが自分の運命なんだって。それが、自分なんだって」
「……」
「だから、矢部先生も塔矢先生もさ。
 塔矢のこと、『可哀想』とか『悪いことをした』だなんて思っちゃ、その方がアイツよっぽど可哀想だよ」


再び冷たい風が吹く。
オレは、腕をさすりながらふと遠くの空を見る。
太陽がもうすぐ完全に沈もうとしていて、空の下の方綺麗なオレンジ色に染まっていた。


まるで燃えているみたいだ。



……アイツの、『運命』だとか『魂』を色に例えたら、こんな色なんじゃないだろうか。
美しい、燃えるような色。







「……『お前は囲碁をやるために生まれてきたんだよ』って、言われて生まれてきた、か」

矢部先生は、オレが見ているのと同じ遠い空の向こうのオレンジ色を見ながら呟いた。

「神様だとか…僕はそういうの、信じる方じゃないけどね。
 もしそういう人がいて、そうやってアキラくんが生まれて来たのだとしたら、確かにそれは幸せなことなのかもしれないね」
「きっとね、囲碁の神様がそう言ったんだよ」
「囲碁の神様か」

そう言って先生はフフ、と笑った。
オレも一緒になって笑う。

「信じていいよ、先生。
 オレね、こう見えても囲碁の神様と昔、一緒にいたくらいだから」
「囲碁の神様と?」
「あ、コレ内緒だからね! 誰にも言っちゃダメだよ」

先生はオレが冗談を言っているのだと思っているのだろう。
肩を竦めて再び笑う。



オレ、大真面目なんだけどな。





「進藤くんは」
「え?」
「進藤くんも、そうなのかい?」


先生は、先程と同じ空を見つめながら聞いてくる。太陽の最後の光が、眩しい程光っている。
最後の炎のように。


「進藤くんも、囲碁の神様にそう言われて生まれてきたのかねえ」






















眩しい。
美しい、太陽の光。

昔、学校の帰り道にアイツと見た太陽を思い出す。









『昔も今も、太陽と月だけは変わらず人間の傍にいるのですね』











そう言って綺麗に笑った。










まだ、アイツがずっと変わらずオレの傍に居てくれるのもだと、信じて疑わなかった、あの頃。



















オレは。






































「……オレは、どうかな」
「うん?」




「ううん。あ、オレもう行かなくちゃ」
「ああ、……うん」
「先生、今日は本当にどうもありがとう。楽しかった」
「こちらこそ。どうもありがとう先生」

矢部先生は笑ってそう言いながら手を差し出してきた。
オレも笑いながら、先生の皺だらけの小さな手を握った。

眼鏡の奥の、優しい目。
矢部先生はオレの目を見つめたまま、手を握ったまま口を開いた。


「…行洋くんがね」
「え?」
「『進藤くんがいてくれてよかった』って言っていたよ」
「……塔矢先生……が?」









『私のエゴなんです。アキラは』
『行洋くん』
『……今まで孤独な世界で一人で闘ってきたアキラ。私はそこから先の世界を教えてやることができなかった』
『そこから先の世界?』
『でも、私が教えることが出来なくても、『その世界』をアキラに誰よりも伝えてくれる人がいたんです』
『……誰だい?』

『進藤くんが』


『進藤くんが、アキラの傍にいてくれる。
 アキラに伝えてくれている。アキラは彼と一緒にいれば、必ず気付くことが出来る。
 そして『その世界』に行くことが出来る』
『……』
『私はそう信じています』




『進藤くんが──あの子がいてくれて、本当に良かった』
















「──……」
「だから。……これこそ僕たちの我が儘で、エゴなのかもしれないけど」
「……」

「これからも、どうか変わらずアキラくんの傍にいてやってくれないか」
「……」
「僕はね、きっと。
 きっと、囲碁の神様は進藤くんのことが好きで。
 囲碁が好きな進藤くんが本当に好きで。
 それで、キミをアキラくんと引き合わせてくれたんじゃないかと信じているよ」












囲碁の神様が、オレのことを好きで。


























確かに、塔矢とオレが出会うことが出来たのは──アイツがいたから。



















矢部先生の目が再び眼鏡の奥で、優しく笑った。











目の奥がツンと痛い。
ヤバイ。泣きそうだ。




泣きそうだよ、塔矢。
















塔矢。















お前の、傍に。























































でも、塔矢、オレはね。








































泣きそうになるのをなんとかこらえるために、オレは上を向きながら鼻をすすると、殊更明るく大きな声で先生に話しかけた。

「ねえ、先生。今度また来てもいい?」
「うん?」
「今度は、仕事じゃなくて来たいな」
「……そうだね。今度は仕事じゃなくいらっしゃい」



先生はそう言うと、少し力をこめてオレの手を握った後、手を離した。
目は、オレを見つめたまま。

























でも、眼鏡の奥のいつもの優しそうな目は、何故か今は笑ってはおらず。


















































「これは、僕の我が儘で、エゴだ」



「僕は、キミにはアキラくんの傍に居て欲しいんだ」

















































































「いいか、必ず時間を作って来るんだ。……なるべく早く」





太陽は完全に闇の中へ消えていた。