|
07-4.8
加賀が吐き出した煙草の白い煙は、穏やかな風に乗ってユラユラと空の上へと舞い上がって、青い色に溶けるようにして消えてゆく。
遠くで再び、カモメも高い鳴き声が聞こえた。
その声は、どこか切なさを帯びているように感じた。
何かを探して、そして見つけることの出来なかったような、切ない声。
4年前にあの島に来た時も、今と同じ海を眺めながら同じカモメの声を聞いて、そんな風に思ったっけ。
そんな昔のことをなんとなく思い出しながら、加賀の横顔を見る。
その横顔は何ら変わりはなく、再び白い煙を吐いた。
「才能がないんなら、いくらなりたいつっても、無理だろ」
「……でも、加賀に将棋の才能がないなんて…」
「意外か?」
「だって、だってあんなに頑張っていたのに。
大会で優勝とかだってしてたんでしょ? 将棋部のヤツら言ってたよ、加賀先輩ほど強い人はいないって」
「お前ね」
加賀は変わらぬ表情で続けた。
「囲碁も将棋も実力と才能が支配する勝負の世界だ。
努力だけで全てがカバー出来るような甘い世界じゃねえ。中学のブカツじゃねーんだよ。
お前、そんなこと身をもってわかってるだろーが」
「………」
「こんなこと、今その世界に身を置いてるお前にオレの口から言わすんじゃねーよ」
加賀は低い声でそう言うと、煙草を銜えながらゴロンと砂浜に仰向けになって寝転がった。
再び青い空にカモメの切ない鳴き声が響いていく。
囲碁も将棋も実力と才能が支配する勝負の世界。
孤独な世界。
そうだよ。
そんなこと、オレは分かりきってるはずなのに。
「……ごめん」
情けない。
それしか言うことが出来ない。
オレがその後に何も言えずに俯いていると、フ、と空気が緩むのを感じた。
加賀が、煙草を銜えたままいつものように口の端を上げるようにして笑っていた。
思わずオレは、加賀の顔をジッと見つめてしまう。
「……将棋、ねえ」
加賀はまるで深い溜息のように、フーッと寝転がったまま大きな息をついた。
それと共に白い煙も僅かに吐き出される。
そしてまた、静かに溶けて消えてゆく。
「ガキの頃からジイサンの影響で将棋が好きでな。
ガキらしい遊びよりも、ジジイの家で将棋ばっか打ってたな。
それこそ、物心つくかつかないかの頃からだ。
すぐに覚えたし、楽しかった。
小学校でも中学でも将棋部に入って…負けたことはなかったな」
「……」
「楽しかった。打つことがひたすら楽しかったんだ」
「……」
「オレには才能があると信じていたから」
加賀の静かな声が響く。
目は、いつもの鋭さが少しなりをひそめ、遠い昔の優しい思い出を見つめているかのような、優しい色をたたえていた。
「高校に入って…お前の囲碁の世界もそうだが、将棋の世界もプロ入りの年齢は若いからな。
すぐに将棋のプロになるために準備を始めた。
『将棋のプロ』以外の将来なんて、考えたこともなかったな」
「……」
「知り合いの紹介で、さる先生のところに弟子入りして…奨励会に入って…
この奨励会ってのが、棋士になるための養成機関みたいなヤツでな。
26歳までにこの奨励会に属しながら四段にならなきゃプロになれねえんだ」
「……」
「はじめのウチは結構順調でな。トントンと級も上がっていった。
やっぱりオレ様は天才だ、オレには将棋しかねえ、と思った」
「……」
ザザザ、ザザザと静かな海の音だけが響く。
遠くで当然スタッフ達の声も響いているはずなのに、まるでオレと加賀の二人きりになってしまったかのように静かな空間がオレと加賀を包んでいた。
加賀は寝転がったまま、青い空を見つめている。
朝よりも随分暖かくなった穏やかな風にのって、白い雲がフワフワと空の上を滑っていく。
「それがな。
ある日突然、急に勝てなくなった。
理由はわからねえ」
加賀の低い声に、海を見ていたオレは思わず加賀の顔を見てしまう。
加賀の表情は変わらず穏やかなものだった。
急に勝てなくなる。
理由もわからずに。
勝負の世界に生きる者なら誰にでもある経験。
オレも、この前の碁聖を獲った後の不調を思い出してしまう。
「ただのスランプかと思って、過ぎるのを待とうとした。
でもいつまでたっても勝てるようにはならなかった」
「……」
「毎日毎日、ろくに寝ずに棋譜を並べて。打って打って打ちまくった」
「……」
「それでも勝てるようにはならなかったんだ」
「昔はただ打つことだけが楽しかったのに。
それが、いつのまにか苦痛になっていたんだ」
「スランプなんかじゃなかった。それがオレの才能の限界だったんだな」
そこまで言うと加賀は身体を起こし、短くなった煙草を空き缶の中に放り込んだ。
赤い鮮やかなジャンパーの両ポケットに手を入れたまま、空を眺めている。
穏やか目で。
「朝起きて、いつものように顔洗って、歯ぁ磨いて、メシ食って。
一局並べて。
窓を開けて空を見た。今日と同じくらいよく晴れた綺麗な空だった。
その時に『ああ、辞めよう』って思った。
そんなモンさ」
青い空の上を、白い雲が先程と変わらずに静かに滑ってゆく。
綺麗な綺麗な、よく晴れた青い空。
あの日と変わらない。
「………」
「おかしな話だろ。今までの人生、オレの半身を占めていたと言ってもいい。
それがその日の朝、突然なくなったんだ。あっさりとな」
突然。
半身が。
あっさりと。
消えて。
「………辛く……なかったの?」
海の静かな音が響く。
しばらく音を発することの出来なかったオレの声は、みっともなく掠れていた。
「辛かったさ。
でもオレは別に将棋を誰に奪われたわけでもねえ。
オレは自分の手で将棋を捨てたんだ」
「………」
オレは別に運命論者じゃねえけど、と加賀は前置きして笑う。
「お前が、囲碁の道を選んで突き進んだように。
オレが将棋を捨てたのは」
「……」
「多分、そういう運命だったんだな」
「……」
「それは、受け入れるしかねえだろ」
「……」
「オレたちは生きているんだから」
オレたちは生きて。
加賀は右手のポケットから煙草の箱を再び出して、火をつける。
再び、新しい煙が立ち上る。
「なんか、随分シンミリした話になっちまったな。悪ぃ」
加賀は煙草を銜えながら笑って言う。
オレは黙ったまま首を横に振った。
加賀は将棋を捨てていた。
オレの知っている6年前の加賀は、将棋の才能と自信に満ちあふれていた加賀で。
いつも不敵な笑みを浮かべていた加賀で。
いつでも、どんな時もカッコよかった加賀で。
加賀は変わってなかった。
でも将棋を捨てていた。
きっと、本当に本当に辛くて悲しくて、自分が死んで消えてしまうよりも辛い思いをしたに違いない。
だって、その思いにはオレは覚えがあるから。
オレも同じように、大切なものを捨てたから。
辛くて、辛くて、悲しくて。
あの日もよく晴れた空で。
オレは今眺めている海と同じ海を、その時一人で眺めていて。
辛くて、辛くて、悲しくて。
でもその海を眺める加賀の表情は、6年前の加賀にはなかった、酷く穏やかで優しいもので。
大切なものを捨てなければならない運命だった。
大切なものと別れなければならない運命だった。
大切なものを失った。
本当に本当に大切なものを失った。
傷ついた。
悲しかった。
辛かった。
でも、その大切なものを失うかわりに。
かわりに、得たものもある。
加賀も、そしてオレも。
「ねえ、加賀」
「あ?」
「加賀さ」
「……今でも将棋、好き?」
加賀はオレの方をチラリと見たあと、フーッと白い煙を吐き再び視線を海へと戻した。
「ったりめーだろ」
6年前と変わらぬ不敵な笑みを浮かべて加賀は言う。
「捨てなきゃならなかった運命だとしても。
誰かに奪われる運命だったとしても。
それでオレの中から将棋が影も形もなく消えちまうワケじゃねえ」
「きちんと自分の中に息づいている。今も昔と変わらずにな」
「そう思えるようになっただけで、将棋をやってて良かった。
将棋を好きになって良かった」
「オレ様はそれで十分だ」
良かった。
加賀はやっぱり変わってないよ。
昔の強くてカッコいい加賀のままだよ。
オレの背中を押してくれた加賀のままだよ。
ねえ、加賀。
オレ昔ね、加賀のこと結構スキだったよ。多分。
「加賀、役者の仕事は好き?」
「……どうかな。
将棋よりは、好きにはなれねえかもな」
「そっか」
「でももう少し続けてみようかとは思ってる。
そうしたら、いつか将棋がそう思えるようになったみたいに、この仕事も思えるかもしれねぇし」
「……うん」
「そろそろ午後始めるよー」と、遠くで監督が呼ぶのが聞こえた。
加賀は「うーす」と返事をして立ち上がり、太陽に向かって伸びをして「オラ、行くぞ」と座ったままのオレを急かした。
オレがモタモタとしていると、加賀はイラついたように「しょうがねえな」と言いながら左手を差し伸べてオレを立たせてくれた。
加賀、案外優しいんだよね。昔から。
変わってないね。
ねえ、加賀。
オレ昔ね、加賀のこと結構スキだったよ。多分。
加賀はオレの前を歩きながら言う。
「そーゆーお前は」
白い雲が、青い空を流れていく。
「お前は、囲碁は好きなのかよ」
ねえ、加賀。
「ったりめーだろ」
ねえ、加賀。
「上等」
ねえ、加賀。
オレもいつか、そういう風になれるかな。
加賀にとって、将棋のように。
オレにとって、アイツのように。
「変わらずにずっと心の中で息づいてる」って。
「好きになって良かった」って。
いつかオレも、そういう風思ってもらえるようになれるのかな。
ねえ、加賀。
|