07-05







「おかえり」
「………」





進藤は両手にたくさんの紙袋を持ち(おそらく友人達に配る四国のお土産だろう)、玄関先で靴も脱がないまま目を丸くして僕の顔をじっと見ていた。

「早く上がったら?」
「え、あ、うん」

僕に促されると、進藤は我に返ったように漸く靴を脱いでガサガサと音を立てながら部屋に上がった。
そのまま居間に足を進め、テーブルに並べられた食事を見て再び進藤は目を丸くする。

「ああ、夕方くらいには東京に帰るって行ってたろ?
 その後棋院に寄ったとしても、ちょうど夕飯時には帰ってくるかな、って思って」
「……」
「もしかして、もうご飯食べてきちゃった?」

進藤は慌てて首を横に振る。
良かった。
僕はそう思って、「じゃあ冷めないうちにいただこう」と言って食卓についた。

進藤は慌てて部屋に入って上着と荷物を置いてくると、また慌てて洗面所に手を洗いに行き、そして食卓に戻ってくる。
彼が席に着くのを待って、僕は両手を合わせて「いただきます」と頭を下げたあとに箸をとった。
今日のメニューは、ご飯、みそ汁、肉じゃが、お新香、鯖の味噌煮。進藤の好きな洋食も考えたが、もしも彼が夕食を取ってきてしまったことを考えて、僕の好きな和食
のメニューにさせてもらった。まあ、それでも一応、和食の中では進藤の好きなモノばかりを選んではいるのだけど。お互いの折衷案といったところか。
僕が箸を進めているのを見て、進藤も慌てて「い、いただきます」と言って頭を下げて箸をとった。

お互い食事をしているせいもあるが、テレビも付いていない(僕が食事中にテレビを付けるのがあまり好きではないので、進藤は渋々それに合わせてくれている)ために、
シンとした静粛が僕たちを包んだ。
箸と器がぶつかり合う音だけがごくたまに静かな居間に響き渡った。




進藤はもくもくと食事を進めながらも、上目遣いでチラチラと僕の様子を探っていた。
撮影先で聞いたのか。それともその前に聞いたのか。
名人戦があったのは3日前だから、撮影前に聞いたのか。






僕と進藤は、現在ともに一つずつタイトルを保持している。
僕が十段、進藤が碁聖。
お互いリーグ戦に残って、対局したことがあるのが天元。(これは僕が勝ったのだが、結局その僕も緒戦で破れ、緒方さんの挑戦者になることは出来なかった)

それ以外の公式戦でも、僕たちはお互いの対局が近づくとごく自然に距離をとる。
どちらが決めたわけでもなく、本当にごく自然なことだった。
必要以上に会話もしないし、打つのもいつもより抑えて、せいぜい一日一局がいいところだ。
また、自分たち同士の対局でなくても、どちらかがタイトル戦など大きな対局を翌日などに控えている時も、いつものように激しく検討したり、無駄話をしたり…という
のもごく自然に減っていった。

気を使っている訳ではなかった。本当に自然なことだったから。
少なくとも僕は、そうだったのだ。





でも、もしかして。
もしかして進藤は気を使っていたのかもしれない。













今も、名人戦王手を逆転負けで逃し、土壇場まで追いつめられた僕に対して、何と切り出したらよいのか考え倦ねているのだろう。








「しょっぱい」
「は?」

静かな居間の中に、突然進藤の大きな声が響く。僕は鯖から顔を上げて進藤の顔を見ると、彼はしかめっ面をしながらコリコリと音を立ててお新香を食べていた。
「しょっぱい?」
「うん。いつもの浅漬けよりしょっぱい。お前、塩加減間違えたんじゃねーの?」
そんな馬鹿な。
そう思って僕もキュウリを口に入れる。すると確かに。
「………」
「な、しょっぱいだろ?」
思わず無言になってしまう程にはしょっぱかった。
ま、メシに合うからいいか、とかなんとかフォローになっているんだかどうだかよくわからないことを言いながら、進藤は再びキュウリを口の中に白飯と一緒に放り込ん
だ。

……前言撤回。進藤に限って、僕に気を使っているなんてこと、なさそうだ。




ふう、っと僕は詰めていた息を吐く。
思いの外、緊張していたのだろうか。

……誰に? 何に?

進藤に対して? ……何故?






それは──








「そーいや、おつかれさん」
「え?」

進藤は口をモゴモゴと動かしながら、鯖の小骨を取りつつ僕に話しかけてきた。
僕は突然掛けられた声に、先程と同じように僅かに驚きながら顔を上げた。

「名人戦。熱戦だったな」
「……」
「惜しかったな」

まるで何でもないかのように。
鯖の小骨に夢中になりながら、進藤はサラリといった。

……僕は箸を置く。
再び、息を吐く。
また、無意識のうちに息を詰めていたようだった。
その詰めていた緊張が、進藤のサラリと言った一言をきっかけにしてサラサラと溶けていったようだった。

「二度目」
「え?」
「その深〜〜〜い溜息」
「あ」
「何か悩み事でもあんの、お前」

進藤は茶碗を片手にまた口をモゴモゴと動かしながら僕を上目遣いで見つめた。

悩み事、か。
そんなつもりはなかったのだけど、今こうしてキミに声をかけてもらうまで、無意識のうちに考え込んでしまっていたことがあったらしい。
自分でもよくわかっていないそれを、『悩み事』というのかどうか、よくわからないけれど。


「……どうしようかと思っていた」
「何が」
「名人戦に負けて。
 逆転負けだった。勝てる一局を落とした。
 ……キミも多分、すでに棋譜を見ているだろうとは思っていた。
 それで、もしかして、キミに諦められていたらどうしようか、と」
「……は?」

進藤はご飯を飲み込むと、箸と茶碗を置いた。
ごとり、と静かな音が居間に響く。

進藤が顔をしかめるのがわかる。自分が、とてつもなく進藤に対して失礼なことを言っているのがわかる。
一局勝った負けたというくらいで、僕たちの絆は揺らぐようなものではない。
進藤が、僕が負けたことで軽蔑をしたり蔑んだりするような人ではないこともよくわかっている。
僕が彼に対して言っていることは、彼を馬鹿にしているのと同義語だ。
でも。
でも。
でも。
でも。

でも、不安だったのだ。

進藤に会うまで。進藤の声を聞くまで。






これが僕の正直な気持ちなんだ。







僕は臆病で、弱くて、孤独で。

他人の気持ちがわからなくて。






キミの気持ちもよくわからなくて。











これが僕なんだ。