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07-06
「諦めるって…、どういう」
「名人戦の最中に、キミの言っていたことをずっと考えていた」
進藤が声を荒げようとしたところを遮って、僕は話を続けた。
進藤は出鼻を挫かれたせいか声を引っ込めると、憮然とした表情のまま僕の話をおとなしく聞いた。
「僕は小さい頃から囲碁ばかりやっていて──
そんな自分にはもちろん後悔はしていないし、誇らしいとも思ってはいる。
でも時々──不安になることがあるんだ」
「……不安?」
進藤が眉をひそめて、僕の顔を見つめながら聞き返してくる。
僕は「お茶入れ直してくるね」と席を立ち、台所に向かった。
急須を持って台所へ向かう僕を、進藤はその大きな目でずっと追いかけていた。
しばらくして、再び台所から戻ってきた僕を、進藤は先程と変わらぬ表情で見つめていた。
彼の湯飲みと僕の湯飲みにお茶を入れる。
ふわりと暖かい白い湯気が立った。
僕は腰を再び下ろすと、湯飲みを両手で包みながら、目線を湯飲みの中の茶に落とした。
「僕は……やっぱりキミの言うように、囲碁以上に他人に深い関心を持つことができない…と思うんだ。
それで、もしかしたら大切なことをたくさん見落としているんじゃないかって」
「……」
「もしかしたら、キミの……キミのことは、もちろん僕は何よりも大切だと思っているんだけど…
でも僕は、その、こんなだから…あの囲碁教室の時の男の子のように、
キミの気持ちも見過ごしてばかりいるんじゃないかって」
「……」
「そんなことを考えながら、名人戦の石を並べていた」
「……」
「気が付いたら、僕の石の周りはすべて黒い石で囲まれていて──」
「……」
「僕の白い石は、──僕は、一人だけになっていた」
湯飲みの中の茶が、ゆらゆらと揺れていた。
白い湯気が、次第に薄くなって消えてゆく。
「もしかして……このままの僕では、いつかキミにも去られて…
それで、一人になってしまうのではないかって」
「……」
「そしてもしも、もしもそうなった時に…僕は一人で…
ずっとこれからも一人だけで、囲碁を打っていくことが出来るのかなって…」
「……」
「ごめん。馬鹿げた考えだってわかってるんだけど」
再びシンとした静粛が僕たちを包んだ。
進藤は、僕の言うことに対して何も返事を寄越さなかった。
僕は、僕の言うことに黙りこくってしまった進藤の顔を見ることに躊躇われて、湯飲みから顔を上げることが出来なかった。
そのまま、静かな時間がどれほど続いたのだろうか。
「プッ……」
突然、その張りつめていた空気が、進藤から発せられた奇妙な音によって破れる。
思わず僕が湯飲みから顔を剥がして進藤を見ると、進藤は顔こそ俯かせていたものの、左手で額を支えながらブルブルと震えながら笑うことに耐えているようだった。
僕は、そんなに何かおかしなことを言ってしまったのだろうか?
ごくごく真剣に、そして素直に僕の気持ちを吐露したというのに。
何故笑う。
笑うとこか、ここ。
僕が進藤を凝視していると、彼は耐えられなくなったのかついにはアハハと大声を立てて笑い始めた。
だから進藤。笑うとこなのか、ここは。
僕は至って真剣にだな。
「お前ってさー、ホントバカだよな」
「な…」
「囲碁バカ」
そう言って進藤は再びアハハと天井を仰ぎながら笑う。
囲碁バカって。大体キミは、人のこと言えないだろうが。
というか、そんな感想を抱かれるような話だったのか、僕が今真剣にした話は。
「だってさ、フツー別れたら『悲しい』とか『辛い』とか『一緒にいられない』とかさ、そーゆー風に思うモンじゃねえ?
それなのにお前、『別れたらもう囲碁が打てなくて困る』って、真っ先に思うって、 これって十分囲碁バカだと思うけど」
「……あ、いや、僕は別にその」
「…でも、ま、いーよ。
オレ、お前のそんなところが好きなんだし」
進藤は笑顔のままそう言うと、湯飲みをとってお茶を一口だけ飲んだ。
思わぬところでの思わぬ進藤の発言に、何の構えもしていなかった僕の精神的被害は甚大で、思わず卒倒しなかっただけでも誉めて貰いたい。
ただ、顔に全身の血が逆流していって顔の色が血色の良いのを通り越して赤色に変色していくのをとめることはできなかった。
僕が顔を変色させている間に、進藤は先程と変わらず笑いながら再び続ける。
「囲碁、なんだな、お前の心は」
「いや、その僕は」
「本当に、囲碁が。囲碁が好きなんだな。
オレはお前のそーゆーところが一番好きなのかもしれない」
進藤は穏やかにそう言うと、また湯飲み口をつけて「なんかお前のお茶飲むのも久しぶりだな」と言って笑う。
僕は、黙ったまま進藤を見つめた。
進藤は酷く穏やかな顔をしていて、本当に嬉しそうに僕に言った。
「オレは、そんなお前だから好きになったんだと思う」
「……」
「好きになることが出来たんだと思う」
「…でも…。
…僕は結局あの男の子の気持ちはわからないままだ」
僕が俯いてそう言うと、進藤は、ああ、と言いながら再び笑った。
「それはさ。
たぶん、すぐにはわからないよ。でも、いつかわかる日が来ると、オレは思う」
「いつか」
「お前ならきっとわかるよ」
「キミのことも?」
進藤は、目を見開いて僕を見つめる。
僕も再び顔を上げて、進藤を見つめた。
お互いの目が、視線が交差する。
「一番不安なのは、キミの気持ちだ。
僕は、きちんとキミを理解することができている?」
「──…」
その時。
本当に、一瞬だけ。
進藤の大きな色素の薄い瞳がグラリと揺らいだ気がした。
でもそれは本当に一瞬のことで。
進藤はすぐに先程までと同じ笑顔に戻ってしまった。
気のせい…?
それとも。
「……──それも、きっと」
進藤が再び酷く穏やかな笑顔で僕を見つめる。
優しい瞳だった。
「いつか、わかる日が来る。もしも、今はわからないと思っていてもいつか──。
ずっと、一緒にいれば。
ずっと一緒にオレ達は打ち続けていれば。
わかる日が来るよ」
オレたちには囲碁があるんだから。
な、囲碁バカくん。
そう言って進藤は再び大きな声で笑い始めた。
そんなに何度も人のことを囲碁バカ囲碁バカと言って笑うことないだろう。
僕がそう言って抗議の視線を向けると進藤は何だよ、と言いながら目尻に堪った涙を拭った後、小さなテーブルに身を乗り出して人の鼻をグイと力強く摘んできた。
「ヒタイ(痛い)! ヒンド……」
僕の抗議は、進藤の唇の中に吸い込まれていった。
うっすらと目を開けると──やっぱりだ。
進藤の睫がフルフルと震えていた。
まったく。
どうしようもないな。
僕はバカだよ。
でもそんなバカな僕を好きだと言ってくれるキミこそ十分バカだ。
そしてそんなキミにここまでいいようにされて、ほだされて、それでもキミに心底惚れている僕がやっぱり一番の大バカ者だ。
「……なんかしょっぱいな」
「…は?」
「キス。このお新香のせいか」
唇を離した途端に彼は色気のまるでないことを言いながら、皿に残っていたキュウリを一欠片口の中に放りこむと、「片づけはオレがやってやるよ」と言いながらテーブルの食器をガタガタと下げだした。
冗談じゃない。
今度は何枚お皿を割る気だ。
慌てて僕は、台所へ向かう進藤の後を追いかけた。
いつかわかる日が来る、か。
いいだろう。その日までじっくりと待つとしようか。
生憎待つのは慣れているんだ。
キミがこうして僕の傍にいて、僕と囲碁を打ってくれるのなら。
僕はいくらでも待つことが出来る。
そして僕はどこだって行けるよ。
ねえ、進藤。
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