07-6.5










「そっか、順調なのか」
「うん」


あかりはにこやかに返事をすると、左手で前髪を少しだけ掻き上げて、レモンスカッシュの入ったグラスのストローに口をつけた。
その時、その左手には。


「それって」
「ああ、これ? エヘヘ」

あかりは嬉しそうに、芸能人の婚約記者会見よろしく左手の甲をオレにかざして見せた。
左手の薬指には、キラキラと小さな石が輝いている。
オレは思わず近寄って、「おお〜」と言いながらあかりの白い手を見た。
あかりの白い華奢な手には、その小さな石はとても良く似合っていた。


「式とかすんの?」
「うーん、そうね…。お腹が目立っちゃう前にーって言ってたんだけど。
 なんかもういいかな、って」
「いいって…しないってことか?」
「今別に、焦ってやることもないかなって。子供生まれてからの方が、私も楽だし。
 それにホラ、義高コレ買っちゃったでしょ。色々大変なのよー」

そう言ってあかりは左手をくるくると回した。
本当に嬉しそうだ。あまりの素直な幸せモードに、オレはからかう気も失せてしまう。



オレは、久しぶりにあかりと会っていた。
先々月──オレの誕生日の頃だったから、まだあの時は夏だったか。
塔矢とゴタゴタモメた時に、オレは和谷ともモメて。
その時以来オレも忙しかったし、あかりも色々あって、電話やメールのやり取りはあったものの、直接会うことはなかなか出来なかった。
まあ、和谷から近況はよく聞いていたので、ちっともそんなに会ってないだなんて気はしなかったんだけどな。



そういえば、和谷のヤツもあれから色々と大変だったのだ。
まず自分の実家に帰って、親父さんとお袋さんに、勘当の一歩手前くらいまで怒られたらしい。
で、今度は森下先生のところに行って雷どころじゃ済まない程怒られて、破門になりそうになったところを冴木さんとしげ子ちゃんが慌てて止めてくれたとかで。
そして最後にあかりの家で、いわゆる「お嬢さんを僕ください!」ってヤツをやって、あかりの親父さんに殴られそうになったとかで。
でもそこを止めてくれたのがあかりのお袋さんで、「こんないい子があかりを貰ってくださるって言うんだから、アナタいいじゃない」と、この一言ですべて落ち着いてしまったらしい。

…まあ、あかりの家を良く知るオレに言わせてもらえば、あかりの家は親父さんとお袋さんと、姉ちゃん(今はナントカって病院で看護士をやってるとか)、あかりの4人家族(+犬)で、親父さんがあかりや姉ちゃんには似てもにつかない結構な強面のオッサンなんだけど、この家の絶対的な権力者はお袋さんなのである。
だから、お袋さんがクロといえばクロになってしまう、シロと言えばシロになってしまうような家なワケで。

で、このお袋さんってのがスゴイ面食いで、年甲斐もなくジャニーズとかが好きらしい。
和谷は、ジャニーズ程じゃないかもしれないけど、棋院の中ではかなりカッコイイ部類に入ると思う。
若い女の子のファンも結構いるし、おっかけみたいな子も何人かいるしな。
それで、あかりのお母さんは和谷のこと(主に顔)を気に入ってくれたらしく、解決に至ったらしい。



まあ、そんなこんなでなんとか婚約にこぎ着けた和谷は、それはもう毎日シアワセ一杯、オレも伊角さんも冴木さんも、アイツの惚気に食傷気味になっていたところだった。
そんな和谷がこの前ちょっと暗くなってたから、あかりとケンカでもしたのかと思い「どうした」と声をかけたら「結婚って……金かかるんだな…」と酷く低くて暗い声で呟かれてしまった。
……ナルホド、その原因がコレか。
あかりの手元をキラキラと輝かす石を見て、オレは納得した。
今日も和谷はコレで連続出勤21日目、棋院で囲碁教室である。

ま、あかりが幸せならオレはいいんだけどさ。

そう思いながら、手元のクリームソーダのアイスをストローでつついた。



「ま、でもとにかく元気なら良かったよ」
「うん」
「……そういえばお前、大学は?」
「退学届け出してきた」
「……そうか」




あかりは今はまだ短大の1年生だった。
惚気てばっかりいる和谷も、そのことだけは後悔しているようだった。
子供が生まれるのは確かに喜ばしいことだけど、少なくともあかりの描いていた『人生設計』みたいなヤツは崩れてしまったのだ。
短大を卒業したら、あかりは保母さんになりたいと言っていた。
その夢は果たせなくなってしまった。


「でもね、私、大学は辞めちゃったけど保母さんの夢はやめたつもりはないのよ」
「え?」
「専門学校っていう手もあるし。
 この子生んで、育てて、落ち着いたらまた学校に通って、採用試験受けてみようかなって」
「……」
「まだ私19だもん。色々出来るでしょ。子供もその一つよ」
「……お前、昔から強い女だなーって思ってたけど。
 なんか、母ちゃんになってますます肝が据わってきたっつーか…。
 おっかねえ母ちゃんになりそうだな」

オレがそう言うと、あかりは何よそれー!!と昔と変わらぬ口調でオレに向かっておしぼりを投げつけてきた。
ホント、スゴイよ。
お前。

オレは多分、お前のそういうところが好きだったんだと思う。
そして、多分和谷も。


「……和谷も昇段したしな」
「でも、ヒカルにはまだ追いつけないって悔しがってたよ」
「アハハ」


あかりは再びストローに口をつける。
……そういえば妊娠中って、なんか酸っぱいモンが欲しくなるんだっけ。


「いつ生まれるんだ? 赤ん坊」
「えーとね、予定では4月かな」
「春生まれかー」

今は秋の終わり。もう間もなく寒い冬がやってくる。
その次に訪れる暖かい春。
その時に。





その時には。






「ヒカル?」
「え」
「どうしたの? なんかボッとしてたよ」
「ああ、いや。ゴメン」
「大丈夫? 何か疲れてる?」


慌てて取り繕う。
大丈夫。大丈夫。

オレは、大丈夫。

あかり。オレ、大丈夫だよ。
そんな心配そうな顔するなって。

あかり。




「あんまり無理しないでね、ヒカル。
 ちゃんとご飯食べてる?」
「食ってるよ。アイツ、すっげーウルサイから」
「アイツって…塔矢くん?」
「アイツ、お母さんみたいなんだぜ」

オレの愚痴を聞いて、あかりフフっと笑う。
もうすぐお母さんになるせいなのかな。あかりの笑顔が以前と少し変わったような気がした。
前よりもさらに、柔らかくて優しい笑顔。


「そっか。ヒカルは塔矢くんがいるから安心ね」
「何だよ、人をガキみたいに言いやがって」
「ああ、でももう私なんかが『塔矢くん』なんて呼んじゃダメかしら」
「なんで」
「『塔矢名人』って呼んだ方がいい?」

そう言ってあかりは再び笑う。
義高が悔しがってたけど、アイツはやっぱりすげえって言ってたよ、と言って。



塔矢は、2週間前に行われた名人戦第7局で見事鮮やかな勝利をおさめ、『名人』となった。
その時たまたま別件で棋院にいたオレは、塔矢勝利の第一報を聞く事が出来た。
その後の棋院の大騒ぎはそれはもう大変なもので、すぐに記者会見の準備だの、マスコミ各方面に連絡だの、その後すぐに大勢のテレビやら記者やらが押し掛けてきて大変だったのだ。
当然、一応『塔矢のライバル』という『碁聖』の名よりもある意味強い肩書きを持つオレは、しばらくマスコミに再び追っかけられる格好となってしまった。
名人戦を終えて塔矢が家に戻ってきたのは2日も経ってのことだった。
まさしくヘロヘロになって帰ってきた塔矢は、お茶を一杯ぐいっと飲んで、「お疲れ」とオレの言葉を聞くや否や背骨が折れるかと思うくらいの勢いで抱きしめられて、その後のことは……それはもう、大変だったのだ。


塔矢名人、か。




良かった。



この名が聞けて。
















塔矢。



















+++++








その後あかりとファミレスを出ると、いつの間にか空は暗くなっていた。
そういえば、午後から天気は下り坂に──なんて天気予報が言ってたっけ。


「送っていこうか?」
「ううん。大丈夫よ。
 ヒカル、今日は帰れるの? 仕事?」
「いや、今日はオフだから」
「あ、そうなんだ。午前中は用事があるって言ってたから。仕事だと思ってた」
「午前中は──ちょっと、行くとこがあって」
「…そう。ヒカル、早く帰ってね」
「何だよ、急に」
「何かやっぱりヒカル、疲れてるみたいよ。顔色、あんまり良くない」

あかりは心配そうに眉をよせて、オレの顔を下から覗き込んだ。
……さすが幼なじみ。
オレのこと一番よく知ってるのって、やっぱりお前かもな。あかり。


あかり。




「そうだ、お前なるべく早く結婚式はしろよな」
「何でよ」
「だって、オレお前の花嫁姿みたいもん」
「なあに、それ。お父さんみたい」

あかりはそう言ってケラケラと明るく笑った。




そのままあかりとオレは駅で別れ、お互いに逆方向の電車に乗っていく。
電車の窓の外の空はどんどん泣き出しそうな色合いになっていき、オレが駅に着いた頃には完全に泣き出してしまっていた。








なあ、あかり。



オレにとってお前は、本当に本当に大切なヤツで。
多分、オレは小さい頃からお前に惚れてたんだろうな。
でもあんまり近くにいたモンだから、そういう感情に気が付かなかったのかもしれない。
オレ、昔から頭悪かったし。

だから、オレは今お前がそうして幸せそうな笑顔で笑ってくれているのが本当に嬉しい。
お前のことを抱きしめてくれる人がいてくれて、本当に嬉しい。
そして、お前が抱きしめるべき新しい生命がいてくれて、本当に嬉しい。

本当に良かった。


お前はもう大丈夫だよな、あかり。
























雨足は次第に強くなっていき、コンビニで買ったビニール傘にバラバラと音を立ててぶつかる水滴も強くなっていく。



ジーンズの裾が水を吸い込んでいくせいか、次第に足が重くなる。
なんだか妙に背中に背負ったリュックまでも重く感じる。

何でだろ。
別にコイツは水を含んだワケではないのに。


アレかな。
午前中に矢部先生に貰ったアイツが結構重たいのかもしれないな。



























塔矢。












お前は?










お前は大丈夫?













お前のことを抱きしめてくれる人は、抱きしめる人は、いる?





































































ねえ、塔矢。




































































「ミャー…」












バラバラと雨のぶつかる音の中で、一つだけ異なる音が響き、オレは我に返った。
いつの間にか道の真ん中で立ち止まってしまっていたらしい。

……気のせい?

でも確かに。
















「ミャー…」




















再び響く、弱々しい声。
親猫の声じゃない。多分子猫だ。小さな、今にも雨の音にかき消されてしまいそうな、小さな声。


……前にもこんなことがあったような。
小さな猫が、木の上に。


左腕の肘がビリリと痺れたような気がして、思わず右腕で強くこすった。



その時。








「ミャー」






























オレの足下の、30cmも空いていないだろう細い細い路地に。
ずぶぬれになった小さな小さな真っ黒い子猫がうずくまっていた。