07-07





「ミャー」
「……」













夜10時過ぎ。
思ったより帰りが遅くなってしまった。
久しぶりに実家に帰って、夕飯を食べた後に帰ろうかと思っていたら緒方さんが訪ねてきて、お前の祝い酒なんだから一杯やろうだなんて言われて無理矢理酒の席に付き合わされてしまったのだ。









2週間前に、僕は漸く念願の名人位を奪取することが出来た。





対局相手だった芹澤先生は、投了を告げた後に大きく、そして酷く深い息をついた。
その息は、「悔しい、残念だ」という色と「終わった、ホッとした」という色と。
両極の色を兼ね備えたような、深い深い溜息だった。

カメラのフラッシュや記者達の声が響く中、「ありがとうございました」と僕が頭を下げると芹澤先生も同じように「ありがとうございました」と言って深く頭を下げた。
頭を上げた時に、目が合う。
同じ碁盤の上ではあったが、芹澤先生の瞳の色は先程までのようなすべてを焼き尽くす紅蓮の炎を宿した瞳ではなく、静粛をたたえた深くて優しい色になっていた。

「いい対局だった」

芹澤先生は、深い静かな声で呟いた。

「満足のいく棋譜を残せた。悔いがない…と言ってしまえば『棋士失格だ』などと言われてしまいそうだが。
 でも、そう思えてしまう程に素晴らしい対局だった。
 君とこの名人戦を打てたことを誇りに思う。ありがとう」
「……僕の方こそ。本当に素晴らしい対局でした。
 芹澤先生とこのような対局を設けられたことは、僕のかけがえのない財産です。
 ありがとうございました」

僕の返答を聞くと、芹澤先生は僅かに微笑して、少し瞳を伏せたあと再び深く息をついた。

「これからが大変だよ」
「え?」
「君も解っているだろう。
 名人位だ。君のお父さんの色が最も強く残っているタイトルだ。
 それを、これから君の色に新たに染めていくんだ。
 並大抵のことではない」
「……はい」


そうだ。父が最も長く持っていたタイトルなんだ。
漸く僕は、父の歩いていた道の入り口に辿り着くことが出来たような気がした。

この道を歩んで行けば、僕もいつか父の見えていた『世界』を見ることが出来るだろうか。
その先を見ることが出来るだろうか。



そして、今こそ父の気持ちを理解することが出来るだろうか。




「来年、君の色に染まったこのタイトルを、再びこのような素晴らしい対局で私の元に返していただく。
 それまで大切に持っていてくれたまえ」
「はい」
「それではお先に失礼する」

芹澤先生は穏やかな低い声でそう告げると、立ち上がって記者のフラッシュが瞬く中、部屋を出て行った。
僕はしばらくその背中を座ったまま見送っていた。






それからは、毎日が本当に目の回るような忙しさで。
名人戦が終わってから東京に戻れたのが2日後で、その翌日から再び記者会見だの雑誌やテレビの取材だの、検討だの解説だの、と毎日毎日朝から晩まであちらこちらと走り回された。
おかげで家の滞在時間は酷く短いもので、進藤とはすれ違いの生活だったのだ。

今日も今日とて午前中は何やらの取材をこなし、それで漸くすべての雑誌・テレビなどの取材攻勢が落ち着いてきたのを見計らい、午後から実家に帰っていたのだ。

父に会うのは久しぶりだった。


現在は1年の大半を韓国か台湾、または中国で過ごす父は、たまにぽっかりと2週間や1ヶ月間ほど、日本に帰ってくることがあった。
今回はたまたま僕の名人戦の時に帰国をしており、直接報告をすることが出来た。

僕が名人位を獲得したことを告げると、母は手を叩いて「おめでとう! 良かったわね、アキラさん」と顔を紅潮させて喜んでくれた。
父の方はというと、いつもと全く表情を変えぬまま「そうか」と小さく一言だけ呟いた。
そして静かな声で「精進しなさい」とだけ告げると、さっさと自分の部屋に引っ込んでしまった。

母は、やや呆然と父を見送っていた僕を見て「大丈夫よ、お父さんアレでいて結構喜んでいるんだから」と笑いながら呟いた。
僕が母の方へ振り向くと、母は昔と変わらぬ笑顔のままだった。

「お父さん、大変だったのよ」
「…大変?」
「あなたの名人戦の日にね、あなたの勝ちが決まった直後に天野さんからお電話頂いて。
 その後にお父さん、後援会の会長さんのご自宅に電話してね、随分長いこと話込んでいて。
 その次に矢部先生に電話をかけて。
 …そうねえ、かれこれ二人合わせて3時間近くお電話していたんじゃないかしら」
「3時間!? お父さんが?」
「それくらい嬉しかったのよ」

母は穏やかな声でそう言うと、再びフフっと笑った。
それから。



「そういえば、進藤くん」
「え?」







「進藤くんは、喜んでくれた?」















































「ミャー」
「……」






僕の目の前で小さな小さな黒い物体が細い声を上げて鳴いて、再び僕は意識を慌てて現在に戻す。
おかしいな。
確かに緒方さんに何杯か無理矢理付き合わされたが、酔っぱらいはしなかった。
酔っぱらってないはずだ。
こんな幻覚を見てしまう程には。

おかしい。

幻覚・幻聴でないのだとしたら、ではこの帰ってきた僕を出迎えてくれたこの黒くて小さな物体は何だ?


というか進藤。
家にいるんだったら、たまにはキミが出迎えてくれたっていいじゃないか。






「ミャー」





目の前の黒い物体は再び鳴くと、トテトテと覚束ない足取りでリビングに続く廊下を走っていった。
僕はその黒い物体に引きずられるようにして中へと入り、リビングの戸を開けた。




そして僕は、信じがたい進藤の第一声を聞く。














「あ、アキラ」