07-08





「あ、アキラ」





まったく予想していなかった進藤の第一声に、僕は思わず吹き飛ばされそうになる。
ちょっと待て進藤。
今なんて。




今。





「アキラ」

酷く優しい瞳と声で進藤は再び僕の名前を呼ぶと、先程僕を出迎えた黒い小さな物体を腕に抱え込んだ。
心臓が本当にこのまま飛び出して僕を残して走って行ってしまうのではないかという勢いで音を立てる。
ああ、うるさい。心臓の音ってこんなに大きいものだったろうか。

なんだ。
なんだなんだなんだ。
なんなんだ。
この展開はなんだ進藤。
名人位を奪取した僕へのご褒美なのか進藤。
聞いてない。聞いてないぞそんなことは。

ああ、一体どういうつもりなんだ進藤。
今すぐそこにきちんと正座をさせて小一時間ほどキミのその策略の真意とそれに至った経過などを問い詰めたい。
小一時間で済むだろうか。2時間くらい必要か。
問い詰めたいのに。

問い詰めたいのに、声が出ないんだ。




「アキラ」
「………………………あの…」

漸く出た声は自分でも驚く程震えて掠れていて。


「あの……進……」
「んもーしょうがないヤツだなー、お前は」
「……! す、すいません」


突然の進藤の「しょうがないヤツだ」発言に、僕は訳のわからぬまま頭を思わず下げてしまう。
いや、訳のわからないことはない。
進藤としては、何をきっかけにしてそう思ってくれたのかはわからないが(やっぱりご褒美だろうか)僕のことを名前で呼んでくれているのだ。
それなのに僕はそれに対してまともな返事どころか声を出すことすらままなっていないのだ。
呆れられて当然かもしれない。
でも。
でも、本当にしょうがないじゃないか。


だって、あまりの嬉しさに僕は気がおかしくなってしまいそうなんだから。


進藤は黒い小さな物体を腕に優しく抱え込んだままいつの間にか彼の前でコートを着て荷物も持ったまま正座をしている僕に笑いかけた。
その笑顔の優しさに、再び僕は眩暈に似たものを起こしそうになる。

「おかえり」
「あ…た…ただいま…」

進藤は腕の中の物体を優しく撫でた。
黒い小さなその物体は、「ミャー」と小さな細い声を上げた。


「アキラ」
「あの……その……なんというか……
 なっ……名前……」
「え? だめ?この名前で呼んじゃ」
「や!! いや!違くて!
 ちょっ…突然だから驚いただけで…!」

そっか。
進藤は優しい声でそう言うと、再び小さなその生き物を撫でる。



「………あの…」
「ん?」
「その……実は今までも…その…そうやって呼んでもらえたらって……思ってて…
 まさか今日、急にこんな風に呼んでもらえるなんて思ってなくてちょっと驚いただけでその」
「じゃあ、大丈夫?」



進藤は黒い生き物を撫でながら僕を見上げて尋ねた。
いや大丈夫とか大丈夫じゃないとか。
強いて言えば僕の今の精神状態と理性が大丈夫ではないといったところか。
やはりご褒美だろうか。

こんな、こんな。






「……す、すごく嬉しい……かも」
「そっか」





今日の夜はヤバイ。
事の最中に、あの声で、そして名前で呼ばれたら自分はどうなってしまうのだろうか。

顔にまた体中の血液が集まってくるのを感じた。
またおかしなくらいに血色の良い顔色になってしまっているに違いない。





進藤。







僕は。



僕は。
























「大丈夫だってー! 良かったなー! アキラ!」






うん、良かった!




………。






…………………。














…………………………は?













僕が赤く変色させていた顔を上げ、進藤を思わず見つめると、進藤はそれまで腕の中で優しく抱え込んでいた黒い小さな生き物を、子供にやる「高い高い」の要領で高く抱え上げた。
そして酷く嬉しそうな大きな声で再び彼は言った。



「良かったな! 今日からお前はアキラだ!」
「…………」
「アキラー」
「…………」


僕が呆然と進藤とその黒い猫の様子を見ていることに気が付いた進藤は、不思議そうな顔をして僕を見た。



「塔矢、お前コートくらい脱いだら?」











僕はそれこそ死にものぐるいで名人位を獲得した。
囲碁棋士としてどうしても獲りたかったタイトルの一つだった。

そしてこれを獲ることによって、父の気持ちと。

そして何よりもキミの気持ちに近づくことが、知ることが出来るかもしれないと思ったのだ。








………………やっぱり僕にはまだ当分、キミの気持ちはわかることが出来ないのかもしれない…。











++++++










「アハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」
「………」
「アハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」



進藤はかれこれ15分近く僕の部屋で笑い転げていた。
そんなに笑って、苦しくないのだろうか。
やはり息苦しいのか、漸く笑いが少し収まってきたところでゲホゲホと何度か咳き込んだ。
目尻には今にも流れ落ちそうなくらいに涙がたまっている。

でも当然今の僕は心配する気など毛頭なく、それどころか不機嫌な気持ちで満たされていた。


その笑い転げている進藤の隣には、進藤の腕から離れ、少し居場所を失ってしまったかのようにソワソワとしている黒い子猫が小さな声で「ミャー」と鳴いていた。




よりにもよって、この進藤が拾ってきたという猫に、僕と同じ名前をつけるなんて。
一体、本当にどういうつもりんなんだ進藤。
今度こそ冗談ではなく正座をさせて小一時間問い詰めたい。
小一時間で済むものか。
今すぐ問い詰めたい気持ちで一杯だ。

せっかく名人位まで獲ったのに。この仕打ちはあんまりじゃないか、と。



「アハ……ハハハハ、…は〜〜っ、笑った笑った…」
「……」
「……っあ〜〜、笑うのって疲れるなー。いや〜、でも面白かった」
「……」
「何だよ。そんなおっかねえ目で睨むなって。ホラ、アキラも怖がってる」

進藤は再び僕と同じ名前を呼ぶと、傍の子猫を抱え上げて僕に見せた。
僕と同じ名前(僕はまだ認めていないが)のその猫は、ミャーと再び小さな声で鳴いた。

「なんでその猫に僕の名前を付けるんだ」
「だって、なんかお前と似てるじゃん」
「どこが!」
「んー…、この、毛が黒くて綺麗でツヤツヤしてるところ」

そう言って進藤は子猫の柔らかい綺麗な毛並みを優しく撫でた。
子猫は気持ちいいのか、ミャーと鳴くと目を細めて進藤にすり寄った。

…進藤。
キミの僕のイメージは髪の毛だけなのか。


僕が明らかに肩を落として落胆しているというのに、進藤は構わず子猫を撫でながら続けた。

「でももうダメだかんな。決定しちゃったもん」
「まだ変えられるだろう!」
「ダメ。なー、アキラ」

進藤は子猫を再び腕の中に抱き込むと、小さな顔に唇を寄せた。
……おい。
同じ名前の僕にはキスをしないでソイツに先にするというのは一体全体どういうことなんだ進藤。

そして情けないことに、僕は未だに進藤の唇から僕の名前が飛び出してくると心臓が跳ね上がってしまうのだ。
……例えその名前が、僕ではなく猫に向けられたものだとしても。
このままこの猫の名前が「アキラ」に決定してしまったら僕の心臓はどうなってしまうんだ。

僕は思わず深い溜息をつくと、遠い目をして明日から始まる「同名」生活に、自分の心臓が耐えられるかどうかを心底不安になりつつ考えた。
僕はそうやって思いを自分の心臓に馳せていたせいか、進藤がジッと僕を見つめていることに気が付かなかったのだ。




「なあんだ。お前、オレに名前で呼んでほしかったの?」





…という、進藤の不意の一言に僕はまた吹き飛びそうになる。
そしてたった今心配していた心臓が、再びあり得ないスピードで走り出してしまう。

僕のそういった心臓の様子を知ってか知らないでか、進藤は笑うと、僕のことをからかうような口調で語りかけてきた。

「でももうダメだもんねー。
 その名前はコイツが取っちゃったから。なー、ア・キ・ラ」

進藤のその呼び掛けに、猫はまるで答えるかのように「ミャー」と返事をするとスリスリと進藤の胸元に顔を寄せた。
思わず僕はその仲睦まじい進藤と僕と同名の猫を、睨み付けてしまう。
進藤はまるで僕の嫉妬を誘うかのように、必要以上にその猫を可愛がり、僕と目を合わせいたずらっぽく笑った。



………まったく。



そんな姿すら、可愛らしく感じてしまう僕は、相当重傷なのだろうか。






僕がそんなことを考えていることも露知らず、進藤は笑いながら僕に話しかけた。


「あー、もしかしてお前、オレのことも名前で呼びたかったりしたの?
 アハハハ、案外乙女チックだなお前。
 でもぜーったいムリだぜ、お前。恥ずかしがっちゃって、出来ないって」

進藤はからかうようにそう言うと、アキラ(猫)を抱いたまま僕の部屋を出ようと立ち上がった。
僕は進藤のその挑戦的とも言える言葉にムッと来たことと、出ていこうとする進藤を引き留めようとしたことと。




その2種類の理由から、思わず口走ってしまったのだ。












「ヒッ……」













僕は俯いたまま、悲鳴のような声が喉の奥から出た。
僕のその悲鳴のような声を聞いた進藤は、ドアノブから手を離し、俯いたままの僕を振り返った。

そして。












その悲鳴のような声は、呼び掛けに変わる。
















キミへの。


















































「ヒカル」





















































キミの名前を。


































































































「呼ばないで!!」
























俯いていた僕の頭上から、まるで悲鳴のような声が振ってくる。
思わず僕が顔を上げると、進藤は腕の中で猫をきつく抱きしめたまま、瞳と唇を震わせていた。



瞳と唇だけではない。
身体を震わせて。







まるでその名前で呼ばれることに、怯えるかのように。






















「その名前で呼ばないで!」




















進藤は、再び震える声でそう叫ぶと、ガタガタと震えながら視線を彷徨わせていた。


一体、何故。









僕がキミの名前を呼び掛けることが気に入らないのか?
でもそれだけで、こんな風になるのか?


まるで、怯えているかのように。












……────何故?




































どれくらいの時間だったのだろうか。
時間にしてみたらわずか30秒ほどのことかもしれない。

でも僕と進藤の間では酷く長い間、沈黙が流れていたような気がした。


僕が座ったまま呆然と進藤を見つめていると、進藤はふと我に返ったのか、身体の震えを止めた。
彷徨っていた視線も元に戻り、意識を取り戻したかのようにピタリと止まった。
そして、彼のことを見つめていた僕と視線が合う。


僕の呆然とした顔に、進藤は自分の発言に初めて気が付いたのか、慌てて取り繕うかのようにぎこちなく笑いながら言った。




「……あ、その…。ご、ごめん。
 別に。お前に呼ばれるのがイヤとかじゃなくて…その、なんか…」

「………」

「呼び慣れないっていうか、聞き慣れないし! イヤ、じゃないんだけど…。
 な! だからその…。」

「………」


進藤は視線を再び少しだけ彷徨わせると、くるりと身体を翻して「オヤスミ!」と大きな声で叫んで逃げるかのように僕の部屋を出ていった。
パタパタとリビングを抜け、進藤の部屋のドアが開いて、パタンと閉まる音がした。



部屋に取り残された僕は、ただ呆然と進藤の出ていったドアを見つめていた。


















































……何故?






















僕が呼び掛けたキミの名前に、一体キミは何を見たの?








何を感じたの?






何を聞いたの?










進藤。















本当に僕は、いつかキミの気持ちがわかる日が来るのかな。





いつか。









進藤。















結局僕はそのまま、何をするわけでもなくベッドに収まり、進藤の震える瞳を一晩中グルグルと思い浮かべていた。













































































































そんな状態でいつの間にか眠ってしまったせいだろうか。



























































































とても、不思議な夢を見た。
























白い、白い夢。





その中の進藤は笑っていた。












































そして、彼の傍にいた人も、優しく微笑んでいた。

















































































でも、次の日の朝に起きた時は、すでにどんな夢を見たのか忘れてしまっていた。

進藤はまるで昨日は何もなかったかのように部屋からアキラ(猫)と一緒に眠そうに出てくると、いつのまにかに買っていた猫用の皿にミルクを注いで、アキラ(猫)が美味しそうに飲む様子を愛しそうに眺めていた。


その時の僕は。

進藤が、それで幸せなら。
それでいいか。
十分だ。




そんな気持ちで、朝日の中の進藤と猫の様子を眺めていた。



















































結局。





僕はその昨日の晩の無様な1回と。






















それから、あの日の1回と。


























彼の名を呼んだのは、その2回だけだった。








































































返事のない名前を呼ぶ声が、今も空を静かに漂っている。






そして僕は、待ち続けている。










to be continued