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桜はすぐに散ってしまう。
線香花火の火はすぐに落ちてしまう。
色づいた木の葉はすぐに散ってしまう。
手に落ちた雪はすぐに溶けてしまう。
碁盤だって、打つ度に無数の小さな傷がついていく。
碁石だって、打つ度に少しずつ欠けていく。
棋譜だって、何年、何百年、何千年と打ち続けていけば、その形を変えていく。
あれは、いつだったか。
じいちゃんの家に行った時、「冬になると、腰が痛くてかなわん」とブツブツ文句を言っていたっけ。
その度にじいちゃんは座布団の上に腹這いになって、オレに「腰を揉め」と頼んでいた。
オレはじいちゃんの上に跨って、固く骨張ったじいちゃんの腰をよくマッサージしていたのだ。
アイツは、不思議そうな顔をしてじいちゃんを見ていた。
じいちゃんは腰が痛いのですか。何故?
そりゃ、じいちゃんも歳だからなあ。
歳をとると、腰が痛くなるのですね。可哀想に。
お前はいいよなあ。
え?
ずっと変わらなくてさ。千年も前から、そのまんまなんだろ? いいよなあ。
オレがそう言うと、アイツは縁側の暖かい冬の光の中で、優しく微笑んだ。
ずっとね、同じかたちのままでいられるものなんて、この世にはないのですよ。
桜が散るように。花火の火が落ちるように。木の葉が地に落ちるように。雪が溶けて消えていくように。
かたちを変え、消えていくからこの世は美しいのです。
それは、人の心も同じ。
愛情も、憎悪も、哀しみも、喜びも。
それらはすべて、生まれてかたちを変えて、いつかは消えていく。
だから美しい。そして愛しいんです。
じゃあ、お前はどうなの? 千年も前からずっと同じ姿のままのお前はどうなの?
わたし? ──わたしはね。
その時強い風が音を立てて吹いて、アイツの言葉はオレの耳まで届かなかった。
オレがもう一度聞き直すと、アイツは再び静かに微笑えむだけで、答えてはくれなかった。
その時のアイツの笑顔は、本当に綺麗だった。
千年も前から同じかたちのままでも。
綺麗だった。
お前は綺麗だったよ。
innocent world
act.08
「進藤くん!」
出版部に原稿を無事に届けて、部屋を出ようとした時に突然大声で名前を呼ばれた。
それは、いつもの天野さんの声ではなく。
昔、毎日理科室で聞いていた、あの穏やかな懐かしい声。
「筒井さん!?」
6年前と変わらない黒縁の眼鏡をかけた筒井さんが、満面の笑顔でオレの前に走ってきた。
眼鏡は変わらないけど、背は随分伸びたのかな。
塔矢(175cm)と同じくらいだろうか、170cmはある(はずの)オレが少し見上げてしまう。
昔はどこかヒョロヒョロと細くて、こう言っちゃ何だけどちょっと弱そうで。
いつも加賀にいいように使われて、後輩の三谷にまでちょっとバカにされちゃったりして。
それでもいつもニコニコと笑っていた、穏やかで優しい人。
囲碁は確かにあんまり強くはなかったけど、囲碁が好きな気持ちは誰よりも強かった。
たった一人で囲碁部を始めて、一生懸命部員を集めて。
そして本当に毎日楽しそうに囲碁を打っていたのだ。
囲碁が本当に本当に大好きだった、筒井さん。
筒井さん。
……ていうか、筒井さん。
「……筒井さん、何でここにいるの?」
「あ、そうか。えーとね、ちょっと待ってて」
筒井さんはそう言うと、慌てて机まで走っていって、何か小さな紙を持って再び走ってオレの前まで戻ってくる。
「はい、コレ」
「名刺?」
「うん」
「……日本棋院 出版部編集二課……筒井公宏!?」
「そ、まだ入って2週間なんだけどね」
そう言って昔よりも大分背の高くなった筒井さんは、昔と変わらぬ穏やかな顔で笑った。
+++++++
「友達の紹介?」
「うん。大学の囲碁サークルの先輩の紹介でね。
棋院の出版部で編集助手を募集しているんだけどどうか、って。
古瀬村先輩っていうんだけど、知ってる?
去年、出版部から事務局の方へ異動になっちゃったんだけど…」
「あー…」
オレはなんとなくコセムラさんの顔を思い出しながら、筒井さんの入れてくれたコーヒーに口をつけた。
出版部の出入り口で盛り上がっていたオレと筒井さんを見かねた天野さんが、出版部の応接室をかしてくれたのだ。
天野さんに筒井さんとオレが中学の先輩後輩なのだと話したら、すごく驚いていたっけ。
「今度進藤くんの中学時代のこととかコッソリ聞かせてよ」なんて、筒井さんに冗談めかして言っていた。
……それにしても、何だか変な感じだな。
筒井さんと実際にこうして会って話をするのは、筒井さんの卒業式以来だった。
その後、筒井さんは時々囲碁部に顔を出してくれていたとあかりから聞いたけど、その時オレはすでに院生で、筒井さんと会う機会はなかった。
それが、今何故かこうして棋院の出版部で編集部員となった筒井さんと話をしているのだ。
あの暖かい日の差していた理科室ではない、この場所で。
「どうしたの、進藤くん。ボーッとしちゃって」
「え、あ、ううん。
ところで筒井さん、今はまだ大学生?」
「うん。今3年生でね。ここにはアルバイトで来させてもらってるんだ。
来年は就職活動だよ」
「え…ココに就職するんじゃないの?」
「それはまだわからないよ。
でも、出来れば囲碁に関係のある仕事をしたいとは思ってるけどね」
筒井さんは笑いながらそう言うと、コーヒーに口をつけた。
「筒井さん、今も囲碁は」
「もちろん続けてるよ。高校の時も囲碁部だったし。
入学した大学が、結構有名な囲碁サークルがあってね。そこを卒業してからプロになった人だっているんだよ。
たとえば門脇四段とか」
「ああ! 門脇さんかあ。
じゃ、筒井さんも相当腕上がったんじゃないの?」
「うーん、だといいんだけどね」
筒井さんは照れたように笑った。顔はやっぱり随分大人びた印象があるけど、優しい笑顔は変わっていない。
それにしても、良かった。
筒井さんがまだ、囲碁を好きなままで。
今度時間があったら一局打とうよ、とオレが誘うと、筒井さんは「碁聖に挑戦させてもらえるなんて光栄だな」と言って再び笑った。
変わってない。変わってないな、筒井さん。
この人の周りにはどこか暖かくて穏やかな空気がいつも流れていて、隣にいるだけでホッとする。
だからこそ、中学の時あれだけ突っ張っていた加賀だって何やかんやと言いながらも筒井さんの傍にいたのだろうし、三谷のヤツだって口では悪いことばかり言っていた
けど、本当は筒井さんのことを尊敬していたに違いない。
オレもそんな筒井さんが大好きだった。
そんな中学時代のことを思い出していた時に、ふとこの前偶然再会した顔が頭をよぎった。
「あ、そういえばオレ、この前加賀と会ったんだよ」
「知ってるよ。カード会社のCMだろ? TVで毎日見てるよ」
そう。先月撮影したカード会社のCMは、今は映画俳優として活動している加賀との共演だったのだ。
そのCMは先週あたりから放映され始め、繰り返しTVで流れ続けている。
全部で3パターン程あり(その中には、あの昼飯の時にオレと加賀が砂浜に座って弁当を食べているのをコッソリ撮られていたものも含まれている)、どれもオレと加賀が昔を懐かしむ話をしたり、ブラブラと街を歩いたり海を見たり、自分の仕事のことを語ったり。
相手役がいたのは今回が初めてだったけど、その相手が加賀だということもあって、話は弾み、監督からは「今までのCMの中でも一番リラックスした表情が撮れたよ」なんて言われたりして少し恥ずかしかった。
でもその監督が言うとおりCMはかなり好評で、友達や両親からも喜ばれた。
そんな中で唯一憮然としていたのは塔矢で。
「どこが気に入らないんだよ」と問いただしたら、「あの君の相手が僕じゃないことが悔しいんだ」などとスゴイ返答が返ってきてしまった。
あまりのストレートな惚気っぷりに、聞いたオレの方が恥ずかしくなって真っ赤になってしまい、塔矢に不思議そうな顔をされたのだ。
とにかくオレとしては、加賀と再会出来て、色々なことを話せたこのCMはかなり気に入っていた。
そういえば筒井さんは、加賀が将棋をやめてしまったことを知っているのだろうか。
「あの…加賀さ、今はもう将棋やってないって…」
「ああ、うん。色々あったみたいだけどね。
将棋をやめた、って決めた時は電話くれたし…。
でもまさか僕も、その後加賀が俳優になるとは思わなかったけどね」
あのCMの後映画もヒットしたし、仕事の依頼も殺到しちゃって大変みたいだよ、と言って筒井さんは笑った。
「…そっか。筒井さん、今でも加賀と連絡取り合ってるんだね」
「うーん、取り合ってるって程じゃないけどね。
時々『今度映画が上映になるから観に行かなきゃぶっ飛ばす』なんてメールが来たりするくらいかな」
「じゃあ、今はあんまり会ってないの?」
「うん。高校の卒業式以来会ってない」
「……そう…か」
オレが少し俯いてしまったのを見て、筒井さんはなんで進藤くんがそんな寂しがるのさ、と言って再び笑った。
筒井さんは空になった紙コップを右手で弄びながら、ゆっくりと穏やかな声で話し始めた。
「もちろん今でも加賀のことは大事な友達だと思ってるよ。
でも、僕も加賀ももう、それぞれの道を歩き始めているからね。
進藤くんだってそうだろう?」
「……うん」
「確かに時々はこうやって昔を懐かしむことはあるけど…。
でもいつまでも昔と同じままじゃ、いられないからね」
筒井さんが穏やかな笑顔でそう言った時、応接室の扉がトントンと音を立てて叩かれた。
筒井さんが出ると、編集部員が筒井さんに「編集長が呼んでるぞ」と小声で声をかけて出ていった。
そのやり取りを聞いていたオレがいいよ、と声をかけると筒井さんは申し訳なさそうな顔をして、オレと自分の分の空になった紙コップを持って出ていった。
今度時間が出来たら話を聞かせてよ、なんて棋院の編集部員らしい言葉を残して。
一人応接室に取り残されたオレは、ソファーの背もたれに深く背をあずけてぼんやりと空を見上げた。
ぼんやりとしながら、加賀や筒井さんが言った言葉を思い出す。
『そういう運命だったら受け入れるしかねえだろ。
オレたちは生きているんだから』
『いつまでも昔と同じままじゃ、いられないからね』
時は静かに流れていく。ゆっくりと、でも確実に。
そしてオレたちは変わっていく。
そのかたちも、そして気持ちも。
生きている限り、オレたちはいつまでも同じままではいられないんだ。
+++++++
その頃、出版部の編集長と何人かの編集部員が集まって、話をしていた。
オレはそれを横目で見ながら出版部を後にした。
その時、筒井さんたちが何を話していたのかは、オレは翌日に知ることになる。
「え、それっていつの話なんですか?」
「どうやら急に決まったことらしくてな。向こうの名人戦も終わったことだし。
まあ、当初はお忍びというか、個人的な旅行で来るつもりらしかったんだが。
しかしこの二人が揃って、となると向こうの棋院もウチも黙ってるワケにはいかんからな」
「何かイベントとか行うんですか?」
「それはこれから事務局で検討するだろう。
何でも明日の朝には着くらしいからな」
「しかし、ずいぶん急な話ですね」
「まあったく、この年末進行のクソ忙しい時になあ」
「そうやって文句言いつつも編集長、オイシイと思ってるんでしょ?」
「そりゃそうだ。
あの二人はこっちでも人気があるからな。
これで週刊碁の発行部数が伸びてくれれば、楽しい正月を迎えられるんだが」
「アハハハ」
棋院の外に出ると、随分と冷え込んでいた。
雪が降りそうだ。
そういえば。
棋院からの帰り道、雪の中をアイツとはしゃぎながら帰ったこともあったっけ。
でも、それすらも今となっては、遠い日の綺麗な思い出となっていた。
道路脇の木々には、クリスマスを意識した華やかなイルミネーションが装飾されていた。
オレはマフラーを巻き直し、一人家路への道を急いだ。
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