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08-1.3
「お断りします」
僕は後援会長が差し出した色紙の中身を見るまでもなく、一礼をして席を立った。
まったく、馬鹿馬鹿しい。
何事かと思って慌てて来てみたら。
「アキラさん!」
その僕を呼んだ張本人が、慌てて玄関でコートを羽織っていた僕の元に走ってくる。
「帰ります」
「アキラさん、待ってちょうだい」
「その件で僕から話すことは何もないから」
「アキラさん、待ちなさい」
玄関に手をかけようとした僕は、母の強い口調に動きを止める。
振り返ると、玄関先に立った母が昔と変わらぬ良い姿勢で怖い顔をして立っていた。
「お受けする、しないは後ででいいのよ。
お話を聞くくらい、いいでしょう。
柏田さんのお立場も考えなさい」
「でも」
「昔から柏田さんにはお世話になっているでしょう。
あなたもお父さんも。
あなたの気持ちはわかるけど、周りの方たちのことも考えてあげて、アキラさん」
「……」
「あなたは名人なのよ。もう自分だけの『塔矢アキラ』じゃないの」
母は再び強い口調でそう言った。
玄関先で俯いていた僕は、思わず顔を上げてしまう。
長い間、『名人・塔矢行洋』の妻を務めて来た人の、何よりも誰よりも説得力のある重たい言葉だった。
事の発端を話すと。
昨日の夜、僕が家で一人で詰め碁を並べている時に僕の部屋の電話が鳴った。
FAXの送受信機と化しているこの電話機が通話目的で鳴るのは珍しい。
何事かと思い、僕は受話器を取った。
「はい、塔矢です」
『ああ、アキラさん。私です』
「お母さん。どうしたの? こんな時間に電話なんて」
電話口に出たのは、母だった。
いつもの明朗快活なトーンを少し下げて、小さな声で話し出した。
『……それがね、困ったことがあって』
「困ったこと? もしかして、お父さんに何かあったの?」
『ああ、違うのよ。お父さんは元気よ。
今日も晴美ちゃんの碁会所に行ってたし』
「じゃあ、何?」
『……あのね、電話では言いにくいのよ。
明日、あなたに会いたいとおっしゃる方が家にいらっしゃるから、
あなたも家に来てくれないかしら』
「僕に? 誰?」
『後援会長の柏田さん。あなたにご相談したいことがあるんですって。
お願い、明日のお昼に一度家に帰って来てちょうだい。頼んだわよ』
母は慌てたようにそう言うと、一方的に電話を切ってしまった。
……後援会長が僕に相談? 一体何だろうか。
ちなみにこの後援会長の柏田さんというのは、父の代から塔矢門下の後援会の会長を務めてくださっている方で、僕も父も昔から何かとお世話になっていた。
昔はどこかの企業の社長だったらしく、相当なやり手の実業家だったらしいのだが、今はそれも引退して人の好い囲碁好きなおじいちゃんとして、僕も時折指導碁を打ったりしていた。
その人が僕に頼みを。指導碁か?
……それはおかしい。それだったら、母があんな慌てた風に電話をしてくるはずがない。
父には言えないような、本当に何か困ったことがあったのかもしれない。
僕はそう思うと途端に心配になって来て、昼に来いと言われていたところを2時間早い10時には実家に帰ったのだ。
それを。
「いやいやいや、すまないねえ、アキラくん」
「すみませんねえ、本当にこの子ときたら短気で」
「いやいやいや、無理なお願いをしているのはこっちなんだから。
本当に悪いねえ、アキラくん。本当に話を聞くだけでいいから」
「………」
そう言って柏田さんは、再び薄い桃色の綺麗な折り畳み式の色紙を僕の前に差し出した。
僕はどうしてもそれを開く気になれず、色紙を目の前に置いたまま、さながら対局中のごとく柏田さんをジッと見つめた。
柏田さんは真冬だというのに汗が止まらないらしく、綺麗に光っている頭髪の薄くなったおでこを何度もハンカチで拭った。
「えーと、ね。
そのー…、こちらのお嬢さんは、毎朝新聞の代表取締役のお嬢さんで…」
「アキラさん、お写真くらい拝見したら」
「結構です」
僕は厳しい口調でそう言うと、フーッと深い溜息をついた。
お見合いか。
はっきり言って、この手の話は何もこれが初めてではない。
むしろ「またか」という感じだ。
僕が18歳になった頃からポツポツとそのような話が出始め、十段を獲った時から爆発的に増えた。
やれどこの会社のお嬢さんだの、誰々の政治家の娘さんだの。
そして、名人を獲ったことが決定的となった。
三日おきくらいのペースで家にそういった類の電話がかかってくるのだ。まるで何かの勧誘のようだ。
母も「しょうがないわよね」と口では言っていたが、ほとほと困っているのはわかっていた。
今度はそれを、僕や父の後援会の会長までもが持ってきたのだ。
頭が痛くなる。
大体僕はまだ19歳(正確に言うと明日から)だ。
結婚だなんて早すぎるのではないか。
というか、そもそも結婚する気など今現在もそしてこの先将来的にもサラサラないのだ。
だって、僕にはすでに大切な人がいるのだから!!
……と大声で叫ぶことが出来たらどんなにいいか。
この僕のお見合い相手として候補に上がるお嬢さんたちには、もちろん罪はない。
むしろ可哀想だとさえ思う。
こんな僕なんかのお見合い相手として名前を上げさせられるなんて。
僕が腹が立つのは、この何の罪もないお嬢さんたちを使って、僕のこの「名人」という地位を利用しようとしている周りの人間達だ。
ああ、そう考えただけでも本当に腹が立つ。
またもや席から立ち上がりたい衝動に駆られるが、なんとか押さえ込む。
横で母が今までに見たこともないような厳しい目つきで僕を睨んでいるからだ。
……まったく、本当に。
本当に僕は。
「……あの」
「はい!?」
「なあに、アキラさん」
僕が小さく声をかけると、柏田さんと母はほぼ同時に返事を返した。
「……どうして、柏田さんがこの…こちらの女性と僕を」
「ああ、ええとね。その、僕が昔会社をやっていた時にね、この新聞社の社長さんと友達になってね。
囲碁友達なんだよ。今でも時々互いの家で打ってるんだ」
「ああ、そういえばウチの…その、行洋も指導碁を打ったことがあったかしら」
「そうそう、奥さん! そうなんですよ。
その節は、本当に塔矢先生にはお世話になって」
柏田さんは広い額に流れる汗を拭き拭き、母に頭を下げた。
「それでね、その。
もちろんアキラくんがまだ19歳だということはわかっているし。
僕もまだ、結婚だとか、そういったものは早いということもわかっているんだけど」
「はい」
「この新聞社の社長がね、キミの大層なファンでね。
名人を獲ったろう? それを本当に喜んで。それで」
「それで、自分のお嬢さんをダシにして『名人』を手に入れようと」
「アキラさん! 言葉が過ぎますよ」
母が強い口調で僕を叱ったが、その時の僕は本当に頭に来ていてそれどころではなかった。
結局、そうじゃないか。
ただ『名人』の地位を手に入れたいだけ。利用したいだけ。
だったらそこにある、僕やそのお嬢さんの気持ちはどうなってしまうんだ。
だって、僕には。
「いやいやいや、そんな利用しようだなんて、そんなこと。
本当にソイツはアキラくんの碁が好きなんだよ。それだけなんだ」
「……」
「だから、キミのより近くでキミの囲碁を見たいと思ったんだろうね」
「……」
「それとね……その。
この毎朝新聞って……もう気が付いているかもしれないけど、名人戦の主催スポンサーでね。
名人戦のスポンサーが、その『名人』にお願いしたいことがあるって…。
そう言われちゃうとねえ。……僕も本当に、断りようがなくて」
本当に申し訳ない。
柏田さんはそう言うと、畳にその広い額が擦れてしまうのではないか、と思うほど深々と頭をさげた。
先程の母の言葉が脳裏を過ぎる。
『あなたの気持ちはわかるけど、周りの方たちのことも考えてあげて』
『あなたは名人なのよ。もう自分だけの『塔矢アキラ』じゃないの』
僕は。
僕はもう一度フーッと深い溜息をつくと、静かに答えた。
「……わかりました。会うだけなら」
「本当に!? 本当かい、アキラくん!!」
柏田さんはまるでガバッと音が付きそうな勢いで顔を上げると、目を見開いて僕を見た。
「柏田さんのお気持ちや立場などは、
僕も小さい頃からああいった父を見てきているので…わかりますから」
「本当に、本当かい!? ありがとうアキラくん!!」
「ただし」
僕は喜ぶ柏田さんに向かって、強い口調で条件を付けた。
「本当に会うだけですから。
僕はまだその女性とも…誰とも結婚する気も、お付き合いをする気もありません。
どんな方であろうと、お断りをさせていただきます。
よろしいですね」
++++++
「まったくもう」
「……」
柏田さんが帰った後、僕と母は居間でお茶を飲んでいた。
母は蜜柑の皮を剥きながら、深い溜息をついた。
「アキラさんたら、本当に強情なんだから。
あんな言い方しなくたっていいじゃないの」
「……強情なのは、お父さん譲りだよ」
僕がそう言って返すと、母は「そうかもしれないわね」と言って笑った。
父は、矢部先生のお宅に出かけているらしかった。
……逃げたな。
父が矢部先生とあの炬燵のある居間で囲碁を打っている様を頭の中で思い描き、少しだけ腹が立ってフーッと溜息をついた。
そんな僕の様子を見ながら、母は笑いながら僕の半分空いた湯飲みに暖かいお茶をつぎ足した。
お茶を二人で静かに飲んでいると、母は小さくフフっと笑った。
「何?」
「ちょっとね、色々思い出してたのよ。アキラさんが小さかった頃とか」
「……」
「ついこの前まで子供だったアキラさんが、お見合いだなんてねえ」
そう言って母はまた楽しそうに笑った。
「……冗談じゃないよ」
「そうねえ」
「どうせ会ったところで断るんだから。
相手のお嬢さんが可哀想だ」
僕はまた少し腹が立ってきて、少し乱暴に湯飲みを置いた。
母はそんな僕の様子を見て再び笑った。
「確かにね、まだ結婚なんて早いでしょうけど」
「当たり前だよ」
「でも、もしいい方がいたら、お付き合いくらいしてみてもいいんじゃないかしらね」
母のその言葉を聞いて、何を言い出すんだこの人は、と僕は母を凝視した。
すると母は「そんなに睨まないでちょうだいよ」と言って再び笑う。
「でも、あんなに強い口調で柏田さんに反対するなんて……」
「……それは、ちょっと大人げなかったと思ってるよ。でも」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ」
「え?」
母は僕を見ながら、いたずらっぽく笑って言った。
「アキラさん、あなた、もう好きな方がいるんじゃないの?」
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