08-4.3








その後、しばらく柏田会長と彼女の父親とを交えて軽く話した後、彼女の父親は仕事に戻らなければならず名残惜しそうに退席し、柏田会長は「じゃあ後はお若いお二人で…」とお決まりの文句を言うと、そそくさと部屋を後にした。

彼女と僕は広い部屋に二人っきりになり、シンと静粛が広がる。

僕がなんとなく俯いていた顔を上げると、再び彼女と目が合った。
すると。

「………ぷっ」
「え」
「……ぷっ……ふふふふ……
 ……ウフフフ…アハハハハハハ!」

途端に広い部屋の静粛が破られる。
彼女は先程とは打って変わった態度で、大声で笑い始めた。

「あの……」
「アハハハハハハハハ!!」
「……ひ、日高先輩」
「アハハハハハハハハ!!」



僕が話しかけても、彼女は止まらずに笑い続ける。
しばらくそのまま笑い続けた後、「あー苦しい」と言ってハアハアと息を切らしながらなんとか笑いをおさめた。

「…あー、もう。ゴメンゴメン、塔矢。
 もう、私おかしくってさー。何度も笑いそうになっちゃって大変だったわよー」

昔と変わらぬ口調で日高先輩はそう言うと、またクスクスと笑い始める。

日高先輩とは、僕が中学1年の時に数ヶ月だけ在籍した海王中囲碁部の女子の方の主将だった人だ。
当時の僕は、とにかく進藤と対局することだけに必死で、僕が中学の囲碁部に入るとどういうことになるのか、周りにどんな影響を与えてしまうことになるのか、そんなことを考える余裕はまったくなかった。
考えたところで、「どうでもよい」と思った。
僕と進藤が再び対局さえ出来れば、誰がどうなろうと知ったことではなかったのだ。

当然そんな身勝手な僕は、囲碁部の何人かに目をつけられ、呼び出されて目隠し碁で二面打ち、というある種のいじめのようなものを受けたことがあった。
その時窮地に陥った僕を助けてくれたのが、この日高先輩だったのだ。
当時囲碁部のほぼ全員からやっかまれていた僕を、「アンタは堂々と囲碁部にいればいいのよ!」と言ってくれた唯一の人だったのだ。
それまで自分の目的のことだけを考えて突っ走っていた僕は、その時初めて周囲に少しだけ目を向けることが出来たのだ。
その後に日高先輩と打った指導碁は楽しかったことを今でもよく覚えている。

確かに彼女はとても気が強いところがあって、どちらかというと「女王様」然としたところがあったことも否めない。
囲碁大会の相手チームを強い言葉で攻撃したり、後輩のことも男子であろうと女子であろうと、時折キツい言葉で指導をしていた。
でも、彼女の発言はいつも真っ直ぐで正しく、彼女自身の正義に満ちていた。
だから、彼女がどれだけ尊大に振る舞ったり強い口調をきいたりしても、誰もそれに対して反感を抱く人はいなかった。
僕はとても短い間しか囲碁部にはいなかったけれど、それでも彼女が男女問わず部員から慕われているのがわかったのだ。



……そんな日高先輩が、今日の僕のお見合い相手だったなんて。



「塔矢ってば」
「あ、はい」
「何またボーッとしてんのよ。こんな美人を前にしてさ」
「あ、いや……ホント……
 本当に、大変お綺麗になって。それでなかなか先輩だと気付くことが出来ませんでした。
 すみません」

僕が正直に思ったことを言うと、日高先輩は目を丸くした後にまたアハハと大きな声で豪快に笑った。

「いーわよ、そんなお世辞言わなくても。
 相変わらずそーゆー如才ないとこ、変わってないのねー」
「……いや、そんなお世辞だなんて。
 本当に正直に思ったことですし」
「その割には随分ボーッとしちゃってさ。ホントは早く帰りたいんじゃないのー?」
「……あ、いや、そんな」
「アンタ、相変わらず嘘ヘタね」


そう言って先輩は笑うと、自分の着物の帯元に手を入れて煙草の箱とライターを出した。

「吸っていい?」
「あ、はい」

先輩は白い煙草を赤い口紅のついた小さな口に銜えて火をつけた。
しばらく煙草の煙を吸い込んでから、フーっと大きく白い煙を吐いた。
僕が呆然とその様子を見ていると、煙草を銜えたまま先輩はニカッと笑った。

「煙草吸う女は嫌い?」
「あ、いや。
 でもお見合いの席で吸われる方ってあんまりいないんじゃないかと思って」
「お見合い、ねえ」

日高先輩は遠くを見つめながらポツリとそう言うと、再び白い煙を吐いた。

「お見合いって、アンタまだ19じゃない。
 お見合い結婚なんかする気ないでしょ?」
「……」
「どーせウチのパパと柏田さんの付き合い上、断れなくて義理で来たんでしょ?」
「……先輩は」
「ん?」
「先輩は、どうなんですか? 先輩も義理で?」

僕がそう尋ねると、先輩はうーんと曖昧な返事をして煙草を銜えたまま席を立った。
そのまま大きな窓の側へと移動をし美しい庭園を眺めていた。
なんとなく取り残されたような気がして、僕も席を離れて先輩の隣へと立ち、同じように庭を眺めた。
先程の大きな笑い声が響いていた部屋と打って変わり、静かな空気が流れる。
時折、先輩が吐く白い煙が視界に入った。


「あの……」
「何?」
「先輩は……今は大学に?」
「ええ、来年の春で4年生ね。普通なら卒業なんだけど…
 でも私、医学部だから。だからあと3年間はまだ学生ね」
「医学部……」

先輩は再び帯元に手をやると、小さな携帯用の灰皿を出して短くなった煙草を捨てた。
そして、再び帯の中へと仕舞い込む。
僕がその様子をジッと見つめていることに気が付いた先輩は、「なあに?」と笑いながら尋ねてきた。
僕は、思わずその綺麗な笑顔に視線を逸らしてしまう。

「いや……その、色んなモノが出てくるなって…」
「ドラえもんのポケットみたいでしょ」

先輩は笑いながらそう言うと、背中の方に手をやり、キツく締められた腰元をさすった。

「でもやっぱ、無理して着物なんか着るとダメね。
 腰が痛くて痛くて」

そう言いながら笑う先輩の笑顔につられて、いつの間にか僕も自然に笑っていた。
僕は、あんな形で、本当にごく僅かな間しか囲碁部には在籍していなくて。
中学も3年生になると授業も休みがちになり、卒業式すら出なかった。
当時はそのことに対して「淋しい」だとかそういった感情はいっさい湧いてこなかったし、今思い返してみても自分のその余りにも淡泊だった学生生活に、もちろん後悔はしていない。

そんな僕でも。
先輩の笑顔を見て、なんとなく中学の頃のことをボンヤリと思い出し、少しだけ「懐かしいな」という暖かい気持ちになっていた。


「先輩は、将来はお医者さんに」
「そうねー、一応はそのつもり…だけどね」

先輩はそう言うと、一瞬だけふと淋しそうな顔を見せた。
……どうしたのだろうか?
僕がそんな先輩の表情に違和感を覚えている間に、先輩は2本目の煙草を銜えて再び火をつけた。

「塔矢は、順調そうね」
「え?」
「囲碁。名人、十段と二冠でしょ。
 ま、でもあんたは小さい頃から努力をしてきたんだものね。その賜だわね」
「……先輩は、今は囲碁は続けていらっしゃるんですか?」
「時折パパの相手はするけど…その程度ね。
 私、囲碁部は中学でやめたのよ。高校の部活も今の大学のサークルも囲碁とは関係ないわ」
「……そう…ですか」

もう囲碁はやっていないのか。勿体ないな。
当時の僕が指導碁を打った感覚で言うと、日高先輩はあの海王中の中でも群を抜いたレベルだったのに。
僕がそうしてあからさまに残念そうな顔をしていると、先輩は「あんたにそんな顔されると、なんか悪いことしたみたいじゃない」と言って笑った。

「……いえ、もちろん続ける続けないは個人のことですから。
 ただ、そうとわかっていても勿体ないなって」
「塔矢名人にそう言っていただけるなんて、光栄だわ」
「……あの、他の海王中囲碁部の方たちは、まだ囲碁を続けてらっしゃるんでしょうか?」
「さあ……どうかしらね。
 岸本くんは、高校までは続けてたけど。覚えてる? 岸本」
「ああ、はい。部長だった方」
「彼と私、同じ大学なのよ。
 高校の時はやっぱり囲碁部だったみたいだけど、大学では囲碁サークルには入ってないみたいだし…。
 プライベートでやっているかどうかはわからないわ」
「……」
「彼、法学部なのよ。検事を目指しているんですって。
 来年は大変ね。卒論もあるし、国家試験もあるし……」

プライベートで囲碁をやっていたとしても、それどころじゃないかもしれないわね。
そう言いながら先輩は白い煙を吐くと、静かに笑った。


そうか。もう、誰も囲碁を。



数年前よりは大分メジャーになってきたといえる囲碁ではあるが、一般的な目から見ればやはりまだまだマイナーの部類に入る世界だろう。
大体彼らのように中学生で囲碁をやっていること自体、非常に珍しいのだ。
中学を卒業して、高校、大学へと進学し、就職をして。
僕はそういった道を選ばなかったからよくはわからないけれど、大人になるに従ってどんどんと自分の時間が失われていくのは理解できる。
『やらなければいけないこと』が年を経るに従って増えていくからだ。

だから彼らも。
きっと、いつまでも囲碁を続けていくことなど出来なくなってしまったのだろう。

彼らは、僕と違って囲碁を選ばなかった。
ただそれだけのことなのだ。





「いつまでも」




突然先輩の声がして、思わず振り返る。
すると先輩は白い煙を吐きながら少し目を伏せて庭を見つめていた。
そして煙をすべて吐き出すと誰に言うという訳でもなく、再び呟いた。





「いつまでも同じままじゃいられないもの」