08-4.5






「同じままじゃ…?」

日高先輩が誰に言うともなく呟いた言葉を、僕は無意識のうちに繰り返していた。
先輩はそんな僕を見て、日だまりの中で静かに笑った。


「塔矢だってそうでしょう?
 だって、中学を卒業してまだたった4年よ?
 でも十段を取って、名人を取って。囲碁界を代表するような存在になって。
 もう、周りは誰もアンタを放っておいてくれないでしょ?」
「………」
「私は……私は、アンタに比べれば全然スケールなんて小さいけど。
 それでも大学に入って医学部に入って。
 一応こんな私だって誰かと付き合ってみたり、別れてみたり、色んなことがあって。
 そのうち周りは就職活動だーってバタバタし始めて。
 まがりなりにも将来とか考え出すワケよ」
「………」
「将来の自分はどうなっているんだろうって。
 例えば、1年後。来年の今頃、自分がどうしているのか全くわからないのよ。
 10年後、20年後なんてもっと分かりはしないわ。
 それどころか、明日の自分の姿すら想像付かない時もあるのよ」
「………」
「いつまでも同じままでなんていられないわ」


先輩は、そこまで一気に言い切ると、ふうっと大きく息をついた。
今まで溜めに溜めていた思いが、一気に爆発したかのようだった。
僕が黙っていると、再び先輩は話し出した。

「そんな時にね、急にこのお見合いの話が舞い込んできたの。
 当然最初は断るつもりだったんだけど、相手がアンタだって聞いて。
 それで受けたのよ。
 アンタに、会ってみたかったの」

先輩は静かな声でそう言うと、暖かい冬の日差しが差す窓辺で、目の前の僕をジッと見つめた。
色が白いせいなのか、光の中で彼女が妙に浮き上がって見える。
彼女の瞳をジッと見つめていると、僕の心の奥底で不思議な感情がジワリと音を立てて漏れだしてくるのを感じた。

進藤に抱く感情と酷く似ていて、それでいて全く違う感情。

僕はその漏れてくる感情に気づかぬフリをするかのように、慌てて先輩の瞳から目を逸らした。
僕がなんとなく俯いていると、クスリと先輩が笑う声が聞こえた。
思わず再び僕は顔を上げてしまう。

「心配しなくていいわよ。別にアンタと結婚したくてこんなこと言ってるワケじゃないから」
「……あ、いや、その」
「純粋にアンタと話がしてみたかったの。
 私なんかよりも、ずっとずっと早くから自分の生きるべき道がハッキリと見えていたアンタと、
 話がしたかったのよ」

先輩はそう言うと、短くなった煙草を再び携帯灰皿の中に入れた。
立ち上っていた白い煙が、空気の中に溶けるようにして消えてゆく。
僕は、先輩に言われたことを頭の中でゆっくりと反芻しながら、溶けてゆく煙を見つめていた。

「……生きるべき道」
「明日の自分もわからない私は、まだ自分の進むべき道が見えないの。
 目の前に何かの道があるのはわかっているんだけど、その道の遠くの方がよく見えないのよ。
 そこに何があるのか。
 もしかしたら何もないかもしれない。この道は間違いかもしれない。
 そう思うと、怖くて前に進めないの」
「………」
「でも、アンタは違った。
 ずっとずっと昔から、アンタは自分の進むべき道、将来あるべき自分の姿が見えていた。
 ずっと聞きたかったの。
 その道は、いつハッキリとアンタの目の前に現れたのか。
 その道を進む時、不安に思わなかったのか」
「………」
「塔矢」



僕の、進むべき道。
今、進んでいる道。
その道の先にあるもの。
そこにあるもの。
僕の求めるもの。



いつから見えていた?







そんなこと、正直な話考えてみたこともなかった。
僕は生まれた時から、物心ついた時から碁石を握っていたのだ。
碁石を持つ。毎日毎日碁盤の前に向かう。石を置く。
考える間もなく、それは当たり前のように僕の前に敷かれた道だった。
僕は、ただただその道を真っ直ぐに進んできただけ。
そしてその道の先にあるものは、父だと思っていた。
このままこの道を進んでいけば、いずれ父のようになれると、そしてそれは正しいことなのだ、と。
ただ純粋に信じていた。
信じていたのだ。





彼に会うまでは。






彼に出会ってから、僕の前に確実に見えていた道の先は、途端に見えなくなってしまった。
その先には必ず何かがある。
でも今は見ることが出来ない。
見ることが出来ない程の、強い光に包まれていたからだ。

その時になって僕は初めて気が付いたのだ。

これが不安か。
これが絶望か。
これが期待か。
これが希望か。

この道には、様々な感情が落ちていることに、僕は初めて気が付いたのだ。
そしてそうなって初めて僕は、この道の先にある光り輝くものを手に入れたいと強く願った。

欲しいと願った。




そして。







その光の中には彼がいる、ということに気が付いたのだ。












光に包まれた世界の中に、彼はいる。














僕は、この道のずっと先にある、彼のいる世界に行きたい。



たとえ、その道が不安と絶望に満ちていようとも。
たとえ傷ついても。
たとえ何かを失ってしまったとしても。

それでも僕はこの道を進みたい。
いや、進まなければならない。
僕は、僕はそのために生まれてきたのだ。









そう気が付いたんだ。





















彼に、恋をしてから。




























「……僕は」
「え?」
「僕もまだ、先輩と同じように、進むべき道の先にあるものが確実に見えている訳ではありません。
 光り輝くものはある。そこに僕の手に入れたいものはある。
 でも、それは正しいことなのかどうか。
 それは僕にも分かりません」
「………」
「不安はあります。絶望もある。恐怖だってある。
 このままこの道を進んで、その光の先に辿り着いた時に、すでに僕の手に入れたいものはなかったらどうする?
 そう思うと、怖くてたまらない。
 それでも僕は進む。進まなくてはならないんです。
 そう決めたから」
「……それって、一人でそう決めたの?
 自分だけの力で、そう決めることが出来たの?」

先輩は、少しつり上がった、綺麗な形をした目で僕のことをジッと見つめた。
その瞳の奥は、不安と希望が入り混ざったような、複雑で美しい色をしていた。

「……もちろん、選んだのは僕自身です。
 僕の道ですから」
「………」
「でも、そこまで僕を導いてくれた人はいます。
 その人が、その道の先にある光の中にいるのだと気が付いたんです。
 その人は光の中で僕を待っていてくれると言ってくれた。
 その人のいる、光り輝くその世界へと僕は行く。
 それが僕の進むべき、生きるべき道だと気が付いたんです」
「………」
「僕だって、明日の自分がどうなっているかだなんて、分かりません。
 でも僕は進みます。
 たとえ、傷ついても。それで、何かを失ったとしても」



僕はそう言うと、ふうと息をついた。
僕が今言った言葉は、先輩に対して言った言葉というよりも、僕が僕自身に言った言葉だった。
再び自分自身に言い聞かせるために。

僕の言葉が、完全に先輩に伝わるとは思えない。

それでも、ほんの少しだけでも僕の考えていることが先輩に伝わったら、と。
彼が僕に道を指し示してくれたように、僕も先輩の道を指し示すことができたら、と。

僕はそう祈りながら、先輩の様子を見ていた。
先輩は少しだけ瞳を伏せて、何かを考えるようにしながら窓の外に広がる庭園を見つめていた。

暫くの間、シンとした静粛が僕らを包んでいた。
そして、先輩は庭園を見つめたまま口を開いた。


「塔矢は」
「はい?」
「塔矢はその人のことが好きなのね。
 塔矢を、『進むべき道』へと導いてくれたその人のことが」
「え……」

先輩の思わぬ答えに、僕は思わず目を丸くして先輩を見つめた。
先輩はそんな僕の様子を見て、クスリと微笑んだ。
そして僕は、その先輩の微笑みが引き金のようになって、全身の血液が顔へと逆流を始めるのがわかった。
先輩はそれを見て、今度は声を立てて笑った。

「ヤダ塔矢、顔真っ赤」
「だっ……せっ……先輩がっ……」
「だって、そうなんでしょ? 照れることないじゃない。
 でもまさか塔矢からそんな話を聞くとは思わなかったわ。
 アンタのことだから、囲碁一直線で突き進んできたのかと思ってたのよ。
 それが、そんなアンタでも不安に思ったりすることがあったなんて。
 でも、そんな好きな人がいるんなら、それも当然よね」
「かっ……からかわないでください!」
「からかってなんかいないわよ。
 誰だって、人を好きになれば当然の感情だわ」
「………」
「素敵なことよ」

先輩はそう言うと微笑んで、再び煙草を取り出して銜えた。
オレンジ色の火が灯った後に、再び白い煙りが日だまりの中をユラユラと立ち上った。

「私ね、医者になるための勉強をしていくうちに、
 将来なりたいなって思う医者の形が少しだけ見えてきたの。
 でもそれがね、両親や友人たちには反対されてさ。
 だから、それが正しいことかどうかわからなくなってたの」
「………」
「でも塔矢が言ったように……
 たとえその道がどこに続いているのか、その先に何があるのかわからなくても。
 進まないと、欲しいものは、自分のなりたいものは手に入らないものね」
「………」
「ありがとう。少しだけ道が見えてきたような気がするわ」
「………」
「おかしな話よね。最初からその道に進みたいのはわかっていたのに、怖がって進めなかったのよ。
 誰かが背中を押してくれるのを待ってたみたい」
「……僕は……
 僕も、今僕が進んでいる道が正しいのかどうなのか、今もわからないんです。
 そんな僕が……」
「でも塔矢はその道を選んだ。私も選んだ。それだけのことよ。
 あとは堂々としてればいいのよ。
 アンタは悪くないんだから」


先輩が言ったその言葉は。



遠い昔、聞いたことのある言葉で。





『アンタは海王の生徒なんだから!
 堂々と囲碁部にいなさい!』






「何よ、何笑ってんのよ」
「……いえ、ちょっと昔のことを思い出して。
 昔先輩に、同じようなことを言われたことがあったなって」
「そうだったかしら?」
「変わってないですね、先輩。
 先輩なら何があっても大丈夫ですよ。先輩は強いから」
「……失礼ね〜。
 こんなか弱い美人をまるで男みたいにさ」
「アハハ」




その後僕と日高先輩は、ドンドンと話が盛り上がり、2時間あまり昔話に花を咲かせた。
とはいっても、僕のあまりにも淡泊な学生生活はそれ程多くを語ることなどもなく、先輩の学生時代の話や、僕のプロ棋士としての生活の話に終始した。
暫くしてから先輩が、「せっかくだから庭園に行ってみましょうよ」というので、話をしながら庭園をブラブラと散策した。


「進藤と一緒に住んでるの?」
「はい。憶えてますか? 葉瀬中の三将で……」
「憶えてるも何も……
 アンタ進藤が目的で囲碁部に入ってきたんじゃない。
 ていうか、今毎日テレビで見てるし」
「ああ、CMの」
「そっか、進藤と……。………ふーん」
「? 何ですか?」
「ううん。何でもないわ。
 でも何か今、色んなものが私の中で線で繋がった感じ」
「は?」
「バラバラに置かれていた石が、連結したってことよ」
「???」

先輩の言うことにいまひとつピンと来ない僕は、首を傾げたまま先輩を見つめた。
先輩はそんな僕を見ながらクスクスと笑った。
僕がその後何度尋ねても、先輩は教えてはくれなかった。


それから、あっという間に時間は過ぎて夕方になり、僕と先輩はタクシーを呼んでホテルを出た。
もう冬のせいなのか日が落ちるのが随分早く、まだ4時過ぎだというのに太陽はほぼ沈みかけていた。


「じゃあね、塔矢。
 今日はありがとう。楽しかったわ」

先輩はそう言って、右手を差し出した。
僕はその先輩の少しだけ冷えた白い細い手を取って、挨拶をした。

「僕の方こそ楽しかったです。ありがとうございました」
「…ねえ、塔矢。
 私、なりたいものがあるって言ったじゃない」
「はい」
「私ね、MSFに入りたいの。『国境なき医師団』」
「国境なき……」
「実務経験も必要だから、今からだと入るまでに最短でも7,8年はかかっちゃいそうだけど。
 でも、その道に進みたいの。たとえ、誰に反対されたとしても。
 今日アンタと話せたおかげで、その道が少しだけ見えた気がする。
 ありがとう」
「……いえ」

僕と先輩は、握手していた手をゆっくりと離した。
先輩は微笑んだまま白い息を吐いて、僕を見つめた。
先輩の横についていたタクシーの扉が開く。

すると先輩は、帯元に手をやると、小さなカードケースを取り出した。
そしてその中に入っていた白い紙を僕へと渡す。

「電話番号とメルアド。
 もし良かったら気が向いた時に連絡ちょうだい。
 相談相手くらいにはなってあげてもいいわよ」
「………」
「塔矢名人も恋愛には指導碁が必要みたいですから」

先輩はそう言うと声を立てて笑う。
その笑顔は、とても無邪気で美しかった。
そしてその笑顔から、突然真剣な顔になって先輩は僕を見つめた。
そして、同じくらい真剣な声で、白い息を吐きながら僕に話しかけた。


「……お節介なことかもしれないけど。
 アンタがどんな道を選んだっていいわ。アンタ自身が選んだのだから。
 堂々としていればいいと思う。
 でも、それでアンタの大切な人を傷つけちゃだめよ」
「………」
「私たちはいつまでも同じままじゃいられないわ。
 私もいつかは決断して道の先へと進まなくてはならない。
 アンタだって。そのアンタの大切な人だって、いつまでも同じままではいられないのよ。
 その人もアンタも、いつか先へ進むための決断の時が来ると思う。
 その時にアンタがすることは、その人を守ること」
「………」
「約束して。
 私は、そうやって堂々としているアンタが好きなの。
 アンタは私の目標なの」
「………」
「塔矢」
「……はい。約束します。必ず……。
 先輩も約束してください。
 先輩のその進む道を決して諦めないって」
「わかったわ。約束する」

そう言って先輩は微笑むと、再び僕の手を取って握手をした。
今度はごく短い握手で、その先輩の少し冷えた手は一瞬で離れていった。
そのまま先輩はあっという間にタクシーに乗り込むと、バタンと扉を閉めて、窓越しに手を振った。
そうして先輩を乗せたタクシーは僕の目の前を去っていった。

僕は、なんとなく暫くの間、先輩のぬくもりを残した自分の手を握りしめたままその場に立っていた。


先輩が残した言葉を、自分の中で繰り返しながら。









『私たちはいつまでも同じままじゃいられないわ』


『その人もアンタも、いつか先へ進むための決断の時が来ると思う』


『その時にアンタがすることは、その人を守ること』










僕は。






僕は、僕の進む道の先の、光の中にいるキミと共にいるために。










僕はキミを守るよ。















約束する。



























































それから。






















先輩と別れたその日から10年程経った日、彼女から一通のハガキが来た。








『お元気ですか? 約束、覚えてますか』










一行だけの短いハガキだった。
その裏には、白衣を着た先輩と外国の子供たちが笑顔で写った写真が印刷されていた。









































先輩。

もちろん約束は覚えていますよ。

でも。





でも。




























僕は、約束を果たせたのかな。