08-4.7





「……ただいま」


僕は大きく息をつきながら靴を脱いで部屋に上がった。
それと同時に首元を締めていたネクタイを少しゆるめ、また大きく息をついた。

「ニャー」

細い鳴き声に目線を下へとやると、猫のアキラが今日も僕を出迎えてくれていた。

「…いつも僕を出迎えてくれるのはお前だな」
「ニャー」

そういって僕はアキラを抱き上げると、明るい居間へと目をやる。
閉ざされたドアの向こうでは、普段では考えられないような大きなテレビの音が聞こえ、同じくらい大きな進藤と社の笑い声も聞こえていた。
ふう、と僕は家に上がって1分足らずだというのに、3度めの溜息をついた。

ホテルから帰る際にこれから帰ると連絡を入れると、進藤の携帯に何故か社が出て
「夕飯は家でとることにしたから、早く帰って来い」と一方的に喋られて切られてしまった。
どうしたのだろうか。
昨日、寝る前に「明日はどのレストランにしよっかなー」なんていいながら楽しそうに店を探していたのに。
まあ、僕としては後かたづけが面倒だが(どうせ僕がやるにきまってるし)外よりも家の方がくつろげるので、有り難いと言えば有り難かったのだが。

そんなことを思いながら居間のドアを開けると、僕は目を覆いたくなるような惨状を目の当たりにした。
「家の方が良い」と言った前言をいますぐ撤回したい。


テレビの前のソファーテーブルを中心にして、円を描くようにしてありとあらゆるものが部屋中に散乱していたのだ。



そのテーブルから最も遠いところ(つまり現在の僕の足下だ)に転がっているのは、進藤の脱ぎ散らかした靴下とスリッパ。
それとアキラ(猫)のキャットフードの箱。牛乳パック。(しかもどちらもわずかに蓋があいていて中身が床に零れている)
そこから少しテーブルに近づいて、スーパーの袋。その中から見える食材(何故冷蔵庫に仕舞わないんだ)と菓子類。
そしてペットボトルやビールなどの飲み物の類。
そこからまた近づいて、空になったペットボトルと無数の缶。
そして鍋(どうやら今日の献立は鍋らしい)に入れたと思われる食材の残り。それが入っていたと思われるボールの数々。
そして、進藤と社のすぐ横にあるのは、ティッシュペーパーの箱とそれをグチャグチャに丸めたゴミの数々。
テレビのリモコン。食材の下敷きにされている週刊碁。月刊囲碁ワールド。少年ジャンプ。碁盤。碁石。
そして。

「あ、塔矢おっかえり〜」
「おう、邪魔してるで。ついでに先始めてるで。お前なかなか帰て来んから」
「あ、社そっち煮えてるよ」
「おう。オイ塔矢、何頭かかえてボーッと突っ立ってんのや。はよ座れって。
 ああ、ついでにそこからビール持ってきてくれへん?」

僕は無言まま社をにらみ返すと、そのまま部屋へ向かいカバンとコートと上着を置いて、そして再び居間へと戻り足下にあったビールの缶をいくつか持って惨状を何とか
踏み越え、テーブルの側へと辿り着いた。
何とか座った僕を見て、社はニコニコしながら話しかけてきた。
その目元はすでにうっすらと赤くなっている。

「久しぶりやな、塔矢」
「……たった1,2時間でよくもまあここまで汚せるものだな」
「まあまあ、そんなん後で片づければええやん。
 ほら、早よグラス持てって」

その片づけをするのは誰だと思ってるんだ!
そう叫び出したい衝動をなんとか抑え、僕は社の言うままにグラスを手に取った。
すると社はビールを並々と注ぐ。

そして僕がそのグラスに口をつけようとした時に社は「待て!」と制止し、自分もグラスを持って「エヘン!」と咳払いをした。
進藤はそんな様子を、鍋の湯気の向こう側でニコニコとしながら見ていた。

「えー、こん度は、久しぶりに旧北斗杯メンバー全員集合っちゅーことを祝し!
 さらに! 我らが団長、塔矢アキラがついに念願の名人を奪取したっつーこと祝して!
 エ〜ンドッ! その塔矢名人、本日19歳のお誕生日という実に目出度い日でございまして!!
 その素晴らしき日を、北斗杯4年連続三将のこの社清春が乾杯の音頭を取らせていただきます!」
「イエーイ!」
「………」
「では! 塔矢名人、オメデトーゴザイマスっ! かんぱーい!!!」
「かんぱーい!!」
「………」
「……………っ、プハー!! やっぱビールは生やのーっ!! 発泡酒なんぞクソくらえや!」
「そう? オレ発泡酒も好きだけど」
「アホか、お前! あんなもんビールやない!
 ……って塔矢! お前もっと威勢良くいかんかい! お前のための祝勝会やで!」
「アハハハ」


…………。
なんなんだ、このハイテンションは。
僕のため(というよりも進藤と社が楽しむためだろう)に祝ってくれるのは大変有り難いのだが、社も進藤も異様にテンションが高い。高すぎる。
もうそんなに飲んだのか?
いきなりそんなハイテンションなペースに付いていける訳ないだろう。
僕はそんなことを思いながら、目の前の鍋に目をやった。

…………。

確かに、匂いは悪くない。
社の好みなのか、どうやら白ダシ……いや、匂いからして鶏ガラか。
でも。
中に何が煮えたぎっているのかまるでわからない。一体何鍋なんだ。
鍋は地獄釜のように泡を発しグラグラと揺れ、あまりの湯気の勢いに、湯気の向こうにいる進藤を時々見失ってしまいそうだった。

「………おい」
「あん?」
「……ちょっと火が強すぎるんじゃないか?」
「そうか?」
「中身がまるで見えないんだが」
「あー、安心してええで。オカシなもん入れてないし。
 進藤がな、鍋料理なら得意やゆうから」
「……進藤が作ったのか」
「あー! お前信用してないのかよー!
 オレ、この前も作ってやったじゃん! 水炊き!
 お前うまいって言ってくれたじゃんかー!」

……どこで覚えてきたのか知らないが、キミの作れる料理は水炊きだけだろう…。
そういえば、以前も突然「今日の晩飯、オレが作る!」とか言い出して、やっぱり水炊きを作ってくれたっけな。
真夏日に。
真夏の夜に、やはり地獄釜のように揺れる鍋を見て些か恐怖を覚えたっけ。
……なんで真夏に水炊きなんだ、と。

でも、進藤が自画自賛する通り、確かに味は悪くはなかったのだ。

「………」
「おいしい?」
「結構イケるやろ? オレも驚いたわ」
「……美味しいよ…」
「やった! ほら、ドンドン食え!」

進藤はそう言うと、食べかけの僕の小鉢を無理矢理ひったくって、それを小鉢に入れる事自体物理的に間違っているだろうと判断されるような量を入れ、再び僕に手渡した。
その横で社は再びビールを煽りながら笑い、進藤は鍋をかき回しがらやはりニコニコと笑っていた。
その二人の妙なテンションにやや押されながらも、こうして三人で顔を合わせるのは本当に久しぶりだったことも手伝って、次第に僕も楽しくなり笑いながら二人の話を聞いたりしていた。


しばらく鍋をつつきながらお互いの近況を話したり、仕事のことを話したりしている間に、ふと話が途切れた。
鍋がグツグツと煮える音だけが響く。
すると社は箸休めと言わんばかりに、キョロキョロと部屋を見渡した。


「結構広いんやなー。2LDKやろ? それでいくら?」
「管理費込みで15万だ」
「都心からこれだけ近くて15万って、ごっついい拾いモンやな」
「……まあ、築年数が結構経ってるからね。でも確かにラッキーだったな」
「ホンマ驚いたで。あの春の、大阪から帰りの足でこの家借りよったんやろ?
 何考えてんのかと思ったわ」
「アハハハ」
「……社の家も、確かマンションだったよね?」
「まあ、でも1Kだしな。東京よりは全然安いで」
「でも結構広かったよなー。オレ泊まった時も、全然ヨユーだったし」
「まあ、そら一人ぐらいならな」
「ふーん。カノジョとかも泊まりに来るの?」
「カノ…」
「………」

進藤のその発言に、社はそれまで威勢良く返していた口を突然止めてしまった。
進藤は変わらぬ表情で、ニコニコとしながら社の返事を待っていた。
彼女、というとやはり社の恋人の女性のことだろう。
社だって年頃なのだ(僕と同い年だが)、恋人くらいいてもおかしくはないだろう。
なのに社は、モゴモゴと口ごもりながら上を見たり横をみたりと突然バツが悪そうな感じになった。
一体何をそんな不審がるのだ。後ろめたいことでもあるのか。

「恋人がいるのか?」
「う」
「いるんだろう。何故そんなソワソワするんだ。
 僕らに知られてはマズイことなのか?」
「おっ、塔矢イイゾー! もっと言ってやれー!」
「進藤、お前な」
「進藤は知っているのか?」
「え〜、どうしようかな〜、言っちゃおうかな〜」

進藤はニヤニヤとしながら社の顔を覗き込んだ。
社は、酒の赤さだけではないくらいに顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。
何だ、こういうことにはもっとサバけているヤツなのかと思っていたのだが、僕の勝手な思いこみだったようだ。
案外ウブじゃないか。
僕も少し酒が入っていたせいか、普段見慣れない社の様子にすっかり面白くなってしまい、俯いている社にさらに質問をぶつけた。

「進藤の今の言葉から推察するに、どうやら進藤はその人物のことを知っているようだな。
 キミの恋人として紹介されて知ったのか、それともそれ以前から知っていたのかはわからないが…。
 進藤がもし以前から知っている人物だとなると、僕も知っている可能性が高くなるな。
 どうだ、僕の推理はハズレているか?」
「もう言っちゃえよ〜社〜」
「どうなんだ? 別にどうしても隠しておきたいのであれば、これ以上追求はしないが」
「……だーっっ!! 
 まったくお前ら、二人して人のことからかいよって!!
 言う! 言ったる!」

社はそう怒鳴るとハーっと深い溜息をつき、進藤が笑いながらグラスに注いだビールを一気飲みして、真っ赤な顔をして再び深い溜息をついた。

「……進藤には、この前大阪来た時に、アイツも…その、相方もたまたま大阪来ててな。
 で、進藤には紹介したんや。まあ、元々知り合いやったから、今更ってな感じやったけど」
「でも、オレ、その人のこと忘れちゃっててさ。悪いことしちゃったなーって」
「…ということは、その人は、大阪の人ではないのか。
 そして進藤は以前から知っていた人だ、と」
「お前も知ってるハズやで。……4年も連続で北斗杯出たんやから。
 少なくとも4回は会うてるっちゅーことや」
「ホラ、北斗杯の時の受付のひといたじゃん。髪の短いおねーさん」
「……」
「スポンサーの北斗通信社に勤めてる相川っちゅー女。受付におったやろ。
 そいつや」
「……」

僕は、記憶を北斗杯にまで戻しそこで会った様々な人の顔を思い浮かべる。
受付にいた、髪の短いお姉さん……。髪の短い……。
………。
「髪が短い」「受付」「女性」
この3つの単語から連想される人物として、何故か市河さんの顔がポカンと頭の中に浮かんできてしまい、それが離れなくなってしまって何も考えられなくなってしまった。
なんて僕の頭は(人物の)語彙が少ないのだろう、と少しだけ密かに途方に暮れる。

「……すまない、全然思い出せない」
「アハハ、やっぱねー」
「そんな存在感ないんかい、オレの相方は……」
「違うって、塔矢は他人に興味ないだけだから」
「それはキミも一緒だろう。
 とにかく、すまない。まるで思い出せない。きっと会ったことはあると思うが」
「それ、アイツ聞いたらショックやなー。お前のファンやったのに」

社はそう言うと、小鉢にたまっていた具を少しだけ口の中に入れた。
相変わらず鍋の中身はグツグツと揺れている。

「…まあそれはともかく、何故その相川さんという女性とキミが付き合うことになったんだ?」
「あ、オレもそれ聞きたい」
「……塔矢、お前案外ツッコミ鋭いな」
「いいから言え」
「しかも命令形かい」

社はブツブツと文句を言いながら、手酌でビールをグラスに注いだ。

「まあ、キッカケも何も……4年連続で顔合わせとったからな。
 あれは…3年目の時の打ち上げの立食パーティーで、たまたま話す機会があって。
 そん時にアイツ、オレの局面の話を延々とし出してな」
「へー、囲碁やる人なんだ」
「第1回の北斗杯を見てから自分なりに勉強してルール覚えたみたいでな。
 その方が見てて楽しめるから、って。
 最近漸く打ち出したけど、まだ全然ヘボ碁やで」
「でも、エライじゃん。独学で覚えるなんて」
「まあ、それでその話の時にな。不思議に思うやんか。
 だって、オレ三将やで。大将が塔矢で副将が進藤や。オレとお前らでは知名度も実績もかけ離れとるし、
 フツーは大将戦見るやろ」
「…そうだろうか。僕は面白いと思った局面を見るが」
「お前の話なんかしとらん。一般人の目の話や。
 それで、アイツが、オレの局の話ばっかりするから『なんで三将戦ばかり見てたんや』って聞いたんや」
「うん」
「そしたら『あなたの囲碁が、一番真っ直ぐでわかりやすかったから』って」
「……」
「へ〜」
「んで、…まあ、その『今度囲碁教えて』みたいな話になって…」
「うん」
「でもオレ大阪やし、つったら『出張でよく行くからその時に』みたいな…」
「へ〜」
「んで、メールとかやり合うようになって…その、そしたらアイツ、ホンマに大阪すぐ来よって…
 それで、まあ…その…」
「行くとこまで行ったわけだな」
「………!!」
「アハハハ! 塔矢いいぞー!」
「塔っ……おまっ…」

社がモゴモゴと口籠もっている間に、僕はビールを飲み干した。
鍋の熱気のせいか、少しぬるくなっていた。
すると、社は人の顔を睨みながら新しい缶を開けて僕のグラスに注いでくれた。

「悪い」
「……お前、案外そーゆーことズバズバ言うんやな」
「そうか?」
「ちょっと意外やで」
「でもさ、大阪と東京つったら遠距離じゃん。大変そうだな」
「そうでもないで。メールも電話もようしとるし。
 アイツもオレも、仕事で幸いしょっちゅう行き来するしな」
「ふーん…。そういえば、年上だよね?」
「そやな。…えーと、6つ上か」
「…なんか、お姉ちゃんと弟みたいだな」
「アホ! そないなことあるかい!
 オレはお前、ごっつい大人の男やで!?」
「まあ、社は確かに顔も少し老けてるからな。
 頭の中身もしっかりしているし、それ程違和感ないのだろう」
「アハハハハハ!!!」
「……塔矢、お前案外毒舌やな。
 お前のツッコミ、ナイフの切れ味やで」
「そうか?」
「アハハハハハ!!!」

ナイフの切れ味だかなんだか知らないが、とにかく進藤は楽しそうに大声で笑い転げていた。
社も人の顔を見てブツブツと文句を言っていたが、満更悪くはない表情だった。
その後も、社がその相川さんという彼女の自慢話(いわゆる惚気というヤツか)を続け、僕と進藤は笑いながら話を聞いていた。
何にせよ、部屋はヒドイものだが楽しい夜を過ごしていたのだ。




あの時までは。










「…あ〜っ、オカシイ」
「まったくお前ら、人のことや思うてメチャクチャ言いよって」
「でもいいじゃん、幸せなんだろ?
 そーゆー人いてさ」
「そら、まあ、な」
「いいなあ。なあ、塔矢は?」
「……は?」
「塔矢は、そういう人いないの?」
「……おい、進藤」








「塔矢は、そういう抱きしめたくなるような人、いないの?」