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09-1.1
僕と高永夏が出会ってから、もう10年近くが経とうとしている。
それなのに、僕は未だに永夏という人間がよく解らないままでいる。
僕の叔父は碁がとても好きで、本業とは別にソウル市内で碁会所を経営していた。
その後本業の仕事の関係で日本に移住してからも、日本でまた碁会所を開く程に碁が好きだったのだ。
僕は小さい頃からその叔父に囲碁を教え込まれて育ってきた。
毎日毎日、学校の帰りには叔父の碁会所へ寄って大人達と囲碁を打っていたのだ。
そんなある日、その碁会所に一人の男の子がやってきた。
僕よりも2歳年上で、背が高くて綺麗な顔をした男の子。
初めは彼を子供だと思ってナメていた大人達は、手を抜いて彼と打った。
すると彼は、その碁会所にいた何人もの大人達をあっという間に一刀両断にしたのだ。
その様はまるで鬼神のようで、とても12歳の少年には見えなかった。
ただ彼の対局を見ていただけの僕でさえ、震えが止まらない程だったのだ。
その少年は、その後叔父の碁会所に通うようになった。
彼と打つ大人達は、もう彼に手を抜いたりすることなどなかった。
それどころか、誰もが彼と打ちたがった。
誰もが彼の持つ才能に驚き、彼に惹かれていったのだ。
彼が叔父の碁会所に通うようになってから2ヶ月程経ち、僕は漸く彼に話しかけることが出来た。
いつも彼のことを大人達が囲んでいたせいもあったけど、なんとなく話しかけにくい雰囲気が彼には漂っていたのだ。
僕よりもずっと背が高くて、顔も男の子とは思えない程にすごく綺麗で、酷く大人っぽく見えた。
そして恐ろしく強い碁で大人達をドンドンと負かしていくのだ。
僕もそれなりに囲碁は強い自信があったけれど、とてもじゃないが彼と渡り合える程ではない。
それが理解出来るくらいに、僕は彼の強さをよく解っていた。
恐い。話しかけにくい。
でも、打ってみたい。
一度でいいから、彼と。
そして、自分の力を試してみたい。
彼はその日、珍しく一人で碁盤に向かっていた。
僕は恐る恐る彼の碁盤の反対側へと腰を下ろした。
碁盤と詰め碁集に向けられていた彼の目が、ふと上がる。
僕と目が合う。
長い睫が印象的な、切れ長の綺麗な目。
心臓がドキドキいっているのがわかる。
ダメだ! 対局する前から負けてどうするんだ!
自分の力を試したいんだろう! 秀英!
「…あっ…あの!」
「?」
「いっ……いま…空いてる…か?」
「……見てわからないのか?」
彼は酷く冷静な声で一言そう言うと、視線を再び碁盤へと戻した。
まるで僕などに興味がない、とでも言わんばかりに。
当時まだ子供だった僕は、彼のそんな態度にあっという間に頭に血がのぼってしまい、思わず声を荒げようとした。
だがその時、彼は綺麗にならべていた碁石をジャラジャラと崩し、碁笥の中に石を片づけ始めたのだ。
その様子を呆然と見ていた僕に、彼は再び視線を戻して口を開いた。
「打つんだろ?」
「え、あ」
「……打たないのか?」
「うっ、打つ! 打つよ!」
僕は慌ててそう返事をすると、黒石の入った碁笥を手元に引き寄せる。
彼はそんな僕の様子を見て、クスリと笑った。
「なんだ、黒石か」
「なんだよ! これくらいのハンデ、いいだろ!」
「……ハンデか。置き石もいるか?」
「いっ、いらないよ!」
僕は彼のからかうような言葉をうち消すかのように大声で「お願いします!」と叫び、力強く黒石を置いた。
その瞬間。
彼の顔つきが変わる。
今まではどこか年下の僕をさも興味がないような、からかうような態度を取っていたくせに、僕が黒石を碁盤の上に置いた音を聞いた途端に彼の瞳は真剣なものへと変化を遂げた。
ただでさえまるで作り物のような端正な顔をしている彼がさらに真剣な顔をすると、ますますその美しさが研ぎ澄まされ凄みが増した。
負けるな。気迫で負けてどうするんだ。
勝負は碁盤の上でするのだ。
僕は自分にそう言い聞かせてなんとか奮い立たせる。
そうでもしなければ、彼の気迫にそのまま押しつぶされてしまいそうだったのだ。
それ程までに彼の気迫は凄まじかった。
手が震える。
まるで僕と彼の碁盤の周りの空気だけが、彼の気迫によって温度を冷たく下げているかのようだった。
そのまま打ち続けて、終局。
僕と彼の初対局は、もちろん僕の中押し負けだった。
やっぱり負けた。
……──負けた、けど。
確かに僕は負けたけど、今までに感じたことのない充実感を味わっていた。
彼と作り上げた棋譜を見つめる。
今まで僕が勝利して作り上げてきた棋譜よりも、ずっとずっと素晴らしい棋譜が僕の目の前に出来上がっていた。
……僕が打ったのか。この棋譜を。
……僕は打てるのか、この棋譜を。
……僕にはこんな力があったんだ。
彼と打って、僕は初めて僕の中に眠っていた新しい力に気が付いたのだ。
嬉しかった。
たった一局なのに、しかも負けたのに、なんだか普通の対局の100回分くらいの成長をしてしまった気がする。
嬉しい。嬉しい。
僕は嬉しくなって、顔を上げた。
すると彼は、静かな顔で僕のことをジっと見つめていた。
……そうか、僕だけだよな。こんな風に喜んでいるのは。
だって彼にとってみれば、全く力足らずの相手と打って、得るものなど何もない対局だったに違いないのだ。
僕は先程までの浮かれていた気持ちから一変、何だか酷く申し訳ない気持ちになってしまった。
でも、せめてお礼だけでも言おうと口を開こうとした時、一瞬早く彼の声が僕の耳に届いた。
「……驚いた」
「…え?」
「まさか、こんなに打てると思わなかった。オレよりも年下なのに。
ここの碁会所に来るどの大人よりも強いじゃないか」
「……え」
「何だ、もっと早くからお前と打っていれば良かったな。
ずっと前からお前のことは知ってたんだけど、なんとなく話しかけづらくて…話しかけられなかったんだ」
今までの酷く冷めた口調とは打って変わり、彼は楽しそうに言葉を続ける。
僕はあまりの彼の変貌ぶりに、声を出すことが出来ず口をポカンと開けたまま彼を見つめていた。
「久しぶりに、すごく楽しい一局だった。ありがとう」
「……え…あ」
「本当に楽しかった。終わるのが勿体ないと思うくらいに。お前は?」
「え?」
「お前は、オレと打っていて楽しかった?」
彼は、僕の瞳をジっと見つめて僕にそう尋ねてきた。
僕は身体中の血液が沸騰していくのを感じた。
「たっ……楽しかった! すごく楽しかったよ!」
「そうか、良かった。また今度も打ってくれるか?」
「もちろん! もちろんだよ!」
僕が興奮気味にそう言うと、彼はニッコリと綺麗に微笑んだ。
その彼の笑顔は、本当に今までみたことがないくらいに綺麗で。
僕は、先程沸騰した血液が今度は顔中に集まっていくのを感じた。
きっと、今僕の顔はみっともないくらい真っ赤に違いない。
彼はそんな僕を見てクスクス笑った後に「あ、そうだ」と何かを思いだしたように僕に尋ねた。
「名前」
「え?」
「お前、名前なんていうんだ?」
「え…あ、そうか。…秀英。洪秀英だよ」
「そうか。僕の名前は高永夏だ」
「……永夏」
「そう。高永夏」
そういって、永夏は再び綺麗に笑った。
それが、僕と永夏の出会いだった。
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