オレの名前は、「進藤ヒカル」。



「ヒカル」という名前は、別に珍しくもなんともない。
男でも女でもどちらでも通用する名前のせいか、オレは今までの短い人生の中で2人程の「ヒカル」と会ったことがある。
小学校の3,4年生で同じクラスだった……名字は忘れてしまったが『光』という名前の女の子がいたし、5年生の時に入った町内のサッカークラブに、やっぱり『光』って名前の男がいた。確か、オレより2つ下だったか。
あとは、ホラ……歌手のあの人とか。有名人にも、結構いたりする。

この名前の特徴は、あだ名がそのまま『ヒカル』になってしまうところにある。
オレも、あかりを筆頭に小学校の1,2年くらいまでは男子にも女子にも『ヒカル』って呼ばれていたっけ。
それが、3,4年生のクラス替えの時に、件のオレと同じ名前の女の子と同じクラスになってしまったワケで。
紛らわしいのと、3年生にもなって女子から名前で呼ばれるのがなんとなく悔しいという男のプライドってヤツもあって、オレの『ヒカル』という名はその女子に譲ることにした。

それからというものの、オレを下の名前で呼ぶヤツはごく限られた人間だけとなった。

じいちゃん、ばあちゃん。それからもちろん両親と、幼馴染みのあかり。それから昔から住んでる裏のお婆ちゃんと。






それから、それから。

















『ヒカル』




















ああ、思い出した。
オレと同じ名前の女の子。

せっかくオレが名前を譲ってやったのに、夏休み前には転校しちまいやがったんだ。
ヒカル。



確か名字は、藤原──






















































意識が遠のく。




ここは真っ白な、『あの世界』。





オレの名を呼ぶ、あの人がいる。









































ねえ、お願い。
















その声で、もう一度オレの名前を呼んで。




























































innocent world


act.09


































外は雨が降っている。
真冬の、真夜中の冷たい雨。
このまま降り続けたら、雪になってしまいそうだな。

今日は何日だったか──12月14日。

雪になってもおかしくない、寒い寒い冬の日。




塔矢の、誕生日。






「……冷めないうちに」

そう言って秀英は、暖かいココアをオレの前に差し出してくれた。
甘い匂いと共に、柔らかい白い湯気がゆらゆらと揺れている。
広いリビングの真ん中に置かれたソファーの上で、オレは毛布にくるまって小さくなって座っていた。

秀英とばったり路地で会ったオレは、秀英に連れられて彼の叔父さんの家に来ていた。
秀英と外で会った時には晴れていたのだが、そこから家に着くまでの間に冷たい雨に降られてしまい、オレも秀英も少しだけ濡れてしまったのだ。
上着も着ていなかったオレは、秀英の家に着くなりあまりの寒さに震え上がってしまい、秀英は慌ててオレを毛布に包み、こうして暖かいココアまでいれてくれた。

……相変わらずしっかりしていて優しいよな、秀英。

初めて秀英に会ったのは、オレがプロ試験を受ける直前の夏休みのこと。
大人と打つことに慣れていなかったオレのために、和谷と伊角さんがオレを連れて碁会所巡りをしてくれたのだ。
その時に訪れた碁会所が、秀英の叔父さんが経営している碁会所だった。
出会いはどちらかというと最悪で、言葉が通じないことがさらに誤解の和を広げ、オレたちはケンカ腰のまま碁盤を囲んだ。
当時のオレと秀英の立場は非常によく似ていて、オレが日本の院生、秀英が韓国の研究生という共にプロになる卵だったのだ。
結果は僅かながらにオレが勝利し、秀英は泣きじゃくりながらオレの名前を尋ねてきた。

『……オマエの名前!! your name!』

『オレの名前は進藤ヒカル!』

『進藤ヒカル…』




そう、オレの名前は──






「進藤」
「え」


秀英に名前を呼ばれて、オレは弾かれたように顔をあげた。
秀英は酷く心配そうな顔をして、オレのことを覗き込んでいた。

「……大丈夫か? まだ寒い? もっと暖房を強くしようか」
「ううん、平気」
「そう? でもまだ顔色が悪い」
「……フフ」
「…! な、なんだよ! 人が心配して…っ」

オレがクスクスと笑うと、秀英を顔を真っ赤にさせて怒り出した。
昔から真面目なんだよな、秀英って。

「ごめん、昔のことちょっと思い出してた」
「昔?」
「秀英と出会ったばかりのこと。そういえば、オレたちさっきのコンビニで初めて会ったんだよな」
「さっき……ああ、十字路のところの。そういえばそうだな。
 もう何年前かな」
「オレがプロになる前だから…5年くらい前かなあ?」
「そうか、そんなになるのか」
「だってさ、あの後一局打って。秀英、オレに負けてすっげー泣いてたじゃん」

オレが茶化したようにそう言って笑うと、秀英はますます顔を赤くさせて怒った。

「あっ…あれは! まだ僕も子供で…っ」
「アハハ、わかってるよ。いーじゃん、今はこんなにカッコ良くなってるんだし?」

オレがそう言って笑うと、秀英はますます顔を赤くさせて俯いてしまった。
耳まで赤くなって、なんだか俯いてゴニョゴニョ言ってる。
韓国語で文句言われても、オレはわからないのにな。
秀英はオレとは違って本当に真面目なヤツだから、オレがあんまりからかったから怒ってるのかな。

その5年前の対局の後──。
その後、秀英もオレも無事プロとなって3年前の第一回北斗杯で再会した。
その時驚いたのは、秀英がすっかり日本語が喋れるようになっていたのだ。
後から聞いた話だけど、オレとの対局の後にすぐに韓国へ帰国して、猛勉強をしてわずか1年程で日本語を覚えたらしかった。
その秀英の努力の結晶にオレは随分と助けられた。
第一回の北斗杯でアイツとオレが揉めた時に誤解を解いてくれたのも秀英だった。
その後第二回、三回と続いた北斗杯でオレたちは毎年のように再会し、オレが2年前に韓国に訪ねていった時も世話を焼いてくれたのだ。

いつもいい加減でだらしないオレを、構って面倒をみて逐一世話を焼いてくれて──。
まるで塔矢みたいだな。韓国版の塔矢。

しっかりしていて、真面目なところも少し似てる。
キリっとした顔と黒い綺麗な髪も少しだけ似てるかも。


秀英と話していると、本当に塔矢といるみたいで──。




「進藤?」
「…あ、ごめん。何?」
「……いや。大丈夫ならいいんだ」
「……。…そういえばさ、秀英、なんで日本にいるの?」


そう。あまりの思いがけない再会に思わず秀英との思い出に浸っていたけれど、最大の疑問点はコレなんだ。
今更そんなことを尋ねるオレに、秀英はバツが悪そうに頭を掻き、酷く言いにくそうにしながら話し始めた。

「ああ。……えーと。ちょっと日本に行かなくてはならない事情…というか。
 その、ある人の付き添いで来たんだ。
 …で、どうせ日本に来るなら叔父さんにも会いたかったし…
 それに、この機会を逃すと当分日本には来られなくなるから」
「日本に来られなくなる……って、何で?」
「来年からしばらくの間、囲碁も打てなくなるし」
「え…」

秀英の言葉にオレは驚いて顔を上げ、秀英を見つめた。
秀英は膝の上で組んでいた手を離したり握ったりする動作を繰り返しながら、 再び言い辛そうに口を開いた。

「来年の春、19歳になる。そうしたら、軍に行こうと思ってる」
「ぐ、ん?」

……ぐん?
秀英の言う言葉の意味がわからないオレは、秀英をジッと見つめたまま動けないでいた。
秀英はそんなオレの固まった表情をチラリと見て、困ったな、と言いながら微笑んだ。

「ああ、わからないよな。
 韓国には兵役義務というのがあってね。19歳以上になったら、2年ちょっと軍隊に入らないといけないんだ。
 …僕は、今はちょうどタイトルにも絡んでないし」
「……」
「あ、もちろんこれからはタイトル戦にも絡んでいくつもりだよ!! 今はたまたまさ!
 で、その時に2年も時間をロスしたくないんだ。だから、早いうちにって思って…」
「……」

秀英はそう言って、少し冷めて膜のはってしまったココアを口に含んだ。
その久しぶりに見る横顔は、以前とは少し違うように思えた。
たった半年会わなかった間に、随分と大人びてしまったように感じたのだ。
オレがそんなことを考えながら秀英を見つめていると、秀英はオレの視線を再び感じたのか、先程よりもさらに困ったような笑顔を浮かべた。


「あ、その、ごめん。こんな話したって、進藤には関係ないんだし。つまらないよね。
 そうだ、せっかくだから打とうか?」

秀英は慌ててそう言うと、ソファーテーブルの端の方に折り畳んで置いてあった碁盤を手元に引き寄せた。
オレはそんな秀英を黙ったまま見つめ、無意識のうちに言葉が口から零れていた。


「……えらいな」
「え?」
「秀英は偉いな。
 ずっとずっと先の、将来のことも色々考えて。囲碁のことも。それ以外のことも。
 オレとは全然違う」
「な、何だよ急に」


オレの言葉に秀英は少し驚いたのか、碁盤を広げようとしていた手を止めて、オレの方を見つめた。
オレは俯いたまま、口から自然に流れ出る言葉に身を任せる。
秀英なら、オレの言うどんなバカなことでも聞いてくれそうな気がしたのだ。


「3年前の時だって、これからの韓国と日本の囲碁のことを考えて、真っ先に日本語覚えてさ」
「いや、あ、あれはその…お前と話がしたくて…」
「オレより年下のくせにさ。ホントすげえや」
「とっ、年下は関係ないだろ!! だ、大体僕がエライんじゃなくて、進藤が頼りなさ過ぎるんだよ!
 北斗杯の時だってさ、勝手に怒って勝手にケンカしたりさ! 
 勝手に遅刻したり、勝手に…その…ア、アイツとさ」
「そーだな。オレってダメなヤツだよなー」
「え…」

オレが自嘲的にそう言うと、それまで少し腰を浮かせて興奮気味に大声で反論していた秀英は、オレを見つめながら再びストンとソファーの上に腰を下ろした。
少しだけ静かになった広いリビングに、パラパラと窓にぶつかる雨の音だけが響く。
もう深夜なこともあって、秀英の叔父さん夫婦はとっくに寝てしまっていた。
その深夜の静粛を破るように、オレの情けない声がリビングに響く。


「だから塔矢だってオレのこと、もうイヤになるよな」
「…塔矢?」
「さっきだって、オレは自分のことばかり考えてさ。
 お前の言うとおり勝手なことばかり言って、家を出て来ちゃったんだ。
 愛想つかしてるよなあ、さすがに」
「……ケンカしたのか? 塔矢と? だから、こんな時間にあんなところで…」

秀英は納得がいったかのようにそう呟くと、オレの次の言葉をジッと待った。
オレはなんとなく秀英の顔を見ることができず、俯いたまま目の前のココアが入ったカップを見つめた。
先程まで揺れていた湯気はおさまり、薄い膜が茶色いココアの上をプカプカと浮いていた。


パラパラッと雨の窓を叩く音が、静かな部屋に再び響く。
真夜中の冷たい雨。

結局オレは、自分の言いたい事だけを何も知らない塔矢にぶつけてそのまま家を飛び出してきてしまった。
塔矢はきっと今頃、訳がわからなくなっているだろう。
もしかしたら社に色々聞いているかもしれない。
もしもそうだとしたら、塔矢は多分ますます混乱しているはずだ。




『何で急にそんなこと言うんだ』

『何故僕たちはずっと一緒にいられない?』

『進藤』











『何故……?』
















塔矢。

何も言わなくてごめん。
何も言わないまま、いなくなってごめん。

オレは、また塔矢を裏切ったんだ。
塔矢の気持ちを知っていて、オレは自分のことも、これからオレが、オレ達がどうなるかもすべて知っていて、それでいて塔矢を裏切った。


そう。オレはこうなることを、ずっと前から知っていたんだ。

オレと塔矢が、遅かれ早かれ必ず別れなくてはならないということ。
それによってオレのことを好きだと言ってくれた塔矢が酷く傷つくだろうということ。

それをすべて知っていたのに、オレはオレの『目的』のためだけに塔矢に近づいたのだ。




そんなオレを塔矢がいつまでも許してくれているはずがない。
今頃社から色々聞いて怒っているだろう。

それならそれでいい。
オレのことなんか愛想をつかして嫌いになってくれればいい。

そうしたら、塔矢は──傷つかないかもしれない。







そう。それでいいんだ。

そうしたらオレは。




オレは『目的』を果たすことだけを考えればいいのだから。



















「うん。──そう、塔矢とケンカしたんだ。オレがまた勝手なことばかり言って出て来ちゃったんだ」
「……そうか塔矢、と…。
 だったら早く連絡しよう。塔矢のことだから、きっと今頃心配しているよ」
「ううん。さすがに塔矢もさあ、もうオレに愛想つきたと思うんだ。
 本当にオレは……勝手なことばかりしてきたから」
「……勝手なこと?」



オレは秀英の顔を見ずに俯いたまま話した。
秀英の心配そうな視線を感じたが、とても顔を上げることは出来なかった。
今少しでも顔を動かしたら、目に溜まってしまった水分が零れてしまうのがわかっていたから。




「うん。オレ、塔矢が傷つくのをわかってて、ずっと酷いことをしてきた。
 一番しちゃいけないことをしたんだ。こうなることがわかってたのに」
「……してはいけないこと?」
「塔矢、今頃社からいろいろ聞いて、すべてを知って──多分もうオレを許すことはないと思う」
「そんな、何故…? 塔矢がお前を許さないなんて、そんな」
「でもいいんだ、コレで。
 塔矢はオレのことを嫌いになって…碁を打つだけの存在になって…。
 そうしたらオレは、『目的』を果たすことだけを考えればいいのだから」
「『目的』…?」


秀英が怪訝な視線を向けているのがわかる。
それはそうだろう。恐らくオレが何を言っているのか全くわからないはずだ。
でもオレは高まっていく感情とともに勝手に動く口を止めることができなかった。
目も、オレの中に収まり切らなくなった感情が水分となって溢れ出そうになっているのがわかる。
視界がぼやけていく。
でも、オレはそれを阻止することが出来ない。




「オレはオレの『目的』を果たして…
 それで塔矢は、今日お見合いをした女のひとと幸せになって…」
「進…」
「塔矢はその人を抱きしめて、抱きしめてもらって」
「おい」
「幸せに」
「……」
「そうしたら、オレも幸せに」



「進藤」



秀英の硬い、強い声に引っ張られるようにして、オレは俯いていた顔を上げた。
するとその拍子に、必死になって堰き止めようとしていた感情が目からポロポロと零れ落ちてゆくのがわかった。








「じゃあ、なんで泣いてるんだよ」








秀英はそう言うと、グレーのハンカチをオレの前にそっと差し出した。
オレはすっかり溢れてしまった感情をとても制御することなど出来ず、震える手で秀英からハンカチを受け取った。
でも、そのハンカチを顔まで持っていくことが出来ない。
手が震えてしまって上手く動かないのだ。
オレの目からは、ボロボロと涙が次から次へと零れ落ちる。

変だな。
何でだろう。何で止まらないんだろう。
何で身体が上手く動かないんだろう。

何でこんな悲しい気持ちになるんだろう。



「変だよ」
「え?」
「オレはオレの『目的』のために塔矢に近づいたのに」
「……進藤、『目的』って?」
「こんな、こんな気持ちは変なんだよ」


身体が震える。
声が震える。
呼吸が荒くなる。
上手く喋ることが出来ない。
それなのに、涙だけが止まらずに流れ続けている。
まるで、オレの目が壊れてしまったかのようだ。

黙って見ていた秀英は、オレがあまりにもみっともなく震え続けているのを心配してオレの背中を優しくさすってくれた。
秀英の暖かい手の温もりが伝わってくる。
それでもオレは震えを止めることが出来なかった。


「進藤、落ち着いて。ゆっくり呼吸をするんだ。
 大丈夫だから」
「だって…だってオレ…
 オレ、塔矢のこと、好きになっちゃいけなかったのに。
 塔矢のこと好きになるの、一番しちゃいけないことだったんだ。
 オレはもう、誰のことも好きになっちゃいけなかったんだ。
 それなのに、なんで、なんで」
「進藤」
「オレがもう、今から誰かを好きになっても、誰も幸せになれないのに。
 こんなつもりなかったのに。
 どうして」
「進藤」
「どうして」
「進藤」
「どうして」
「進…」








──オレが一番してはいけなかったこと。
それは、塔矢のことを本当に好きになってしまうこと。








オレは確かに塔矢が好きだった。
でも、それはまだ制御できる「好き」だった。

オレはオレの『目的』を果たすために塔矢に近づいて、一緒に暮らし始めた。
塔矢の気持ちはずっとずっと前から知っていた。
でもオレは決してそれを本気で受け入れることはしなかった。出来なかった。
緒方さんに「お前は残酷だ」と言われても、受け入れることはしなかった。
その時はまだ、オレはオレの感情を制御出来ていたのだ。

そのうち、塔矢とオレは身体の関係を持つようになった。
それでも最初の頃は良かった。塔矢の手がオレの身体に触れることはあっても、オレの心の奥底までは届くことはない。
オレはまだ自分の感情を制御できていると思っていた。

でもその後すぐに、塔矢はオレに声に出して正直に「好きだ」と伝えてきたのだ。
オレを「好きだ」と言ったのだ。

それから塔矢は変わった。
今まで塔矢自身が気が付いていなかった、もしくは気が付かない振りをしていたオレに対する愛情をハッキリと見せてくるようになった。
その塔矢の愛情は、酷く素直で純粋で、触れていて気持ちのいいものだった。

……──今思えばそこからか。
そこから、オレはオレ自身の塔矢に対する感情を制御出来なくなってきていた。
『目的』のためだけに受け入れていた「塔矢を好き」という感情が、塔矢の素直な愛情とともにオレの心の垣根を飛び越えて、オレの心の深い深いところに直接触れてきたのだ。

この深い深いところは──アイツが消えてしまった時から、オレが心の奥底に沈めてきたもの。






それに気が付いた時──もうとっくにオレは自分の塔矢への気持ちを制御出来なくなっていたのだ。





塔矢。
オレの、唯一で生涯のライバル。
大切な大切な、人。


大好きな人。本当に大好きな人。





でも決して好きになってはいけなかった人。

好きだからこそ、大切だからこそ、好きになってはいけなかった人。

オレが好きになればなる程、塔矢を傷つけてしまうのがわかっていたから。








塔矢、塔矢。
オレはね。



オレの『目的』は。













































「進藤、大丈夫か?」



秀英のオレを気遣う優しい声で、オレは深い深い意識の奥底から現実へと戻ってくる。
涙は止まらずに流れ続けていたが、知らぬ間に身体の震えは止まっていた。

今までグチャグチャだった頭の中がスッと冷えて、霞んでいた視界が開けた。




涙は止まらない。でも前が見える。






今なら見える。








オレの『目的』の地。



















そう。それは、『あの世界』。

















塔矢だけがオレを連れて行ってくれる、『あの世界』。






























「オレの」
「え?」












「オレの目的は」

















「アイツにもう一度オレの名前を呼んでもらって。
 そしてオレは、アイツのいるところに行くんだ」
















「だからオレは塔矢を」















































































「……ヒカル!!」





































































懐かしい、声。











高くもなく、低くもなく。
柔らかい、優しい声色。

オレの名前を呼ぶ声。

























もう一度、オレの名前を──。




















































オレはその懐かしい声のする方へ振り向く。
そこにいたのは。
オレの名前を呼んだのは。




秀英が驚いてソファーから立ち上がり、その人の名前を大声で呼ぶ。
オレは声を出すことが出来ないまま、涙を流しながらその人の姿を見つめた。




懐かしい声。
アイツと同じ声で、オレの名前を呼ぶたった一人の人。
















































「……永夏!!」























秀英が大きな声でその人の名前を呼ぶ。
永夏は外を駆けてきたのか、濡れた姿で息を切らしながらリビングの入り口に立っていた。
呆然と見つめているオレに、永夏は今までに見たことのない程の優しい美しい笑顔で微笑んだ。

そして、もう一度オレの名前を呼ぶ。

アイツと同じ、優しい声色で。


































































「ヒカル」














































ああ、この声だ。

オレを呼ぶ声。





































意識が遠のく。





脳裏に蘇ってゆく。

あの遠い、キラキラとした素晴らしい日。









アイツといた日々──。