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09-1.4
僕は広いホテルの中をあてもなくウロウロと探し回った。
休憩室、喫煙室(永夏は煙草は吸わないけど)、対局ホール、レストラン、僕たちの泊まっている部屋、他の選手の部屋。
どこにも永夏の姿は見当たらなかった。
どこに行ってしまったのだろうか。まさかホテルの外とか?
日本は治安は安全な国だから心配はないけど、永夏は日本語が出来ない。地理もわからない。
日本では僕らの持ってる携帯電話も通じないから、連絡も取れない。
確かに、あんな事があった後だ。
永夏がこのまま戻ってこなかったら──。
さすがに僕も不安になり、やや小走りになってホテルの中を歩き回った。
──あんな事。
そう、日本戦でのこと。
今年の対局の組み合わせは、三将戦が社×今年初めて代表になった朴(パク)。
副将戦が進藤×僕で、大将戦が塔矢×永夏だった。
対局の始まる時間になって、僕たち韓国チームは一斉に会場に入り席についた。
盤の向こう側には、すでに日本チームが着席している。
僕から見て、左から塔矢アキラ、進藤、そして社。
塔矢アキラは去年同様、静かな目をしながらもその身体に収まりきれないのだろう闘志と気迫が、盤の向こう側から嫌という程伝わってきていた。
社は中国戦での初勝利で自信を付けたのか、去年よりもずっと力強い目で対戦相手の朴と睨み合っていた。
そして、僕の前に座る進藤は──。
相変わらず顔色が悪く、会場の運営委員に「大丈夫ですか」と声をかけられている程だった。
それにはさすがに塔矢や社も心配らしく、対戦相手と睨み合いながらも時折進藤の方へ目をやったりもしていた。
僕は、横に座る永夏の方にチラリと目線を送る。
永夏は憮然とした表情で、時折睨み付けてくる塔矢の方へ目線をやりながらも、何も言わずに静かに座っていた。
韓国にいた時あれほど再戦を願っていた進藤には、興味が失せたかのように目もくれなかった。
「では始めてください」
運営委員の掛け声で、僕たちは一斉に石を持つ。
先番は僕。
進藤は、まだどこか暗い表情で碁盤を見つめている。
何があったのかは知らないが、進藤。
僕はお前と対局する時はたとえお前がどんな状態であろうとも、決して手を抜くつもりはない。
今日僕は、今までの僕の人生の中でも最高の戦いにするためにここにやって来たのだ。
進藤。
もしもお前の中に何か、モヤモヤとしたものがあるのならば。
僕のこの一手でそれを吹き飛ばしてやる。
僕はそんな思いも込めて、力強く黒石を盤の上に置いた。
その時。
俯いていた進藤の表情が変わる。
その瞬間を言葉にして例えるならば──そう、まるで囲碁の神が進藤の中に舞い降りてきて、進藤に白石を持たせたのではないだろうか。
そう思う程に、顔を上げた進藤の表情は酷く美しく、そして今までに感じたことのない気迫を感じた。
それはまるで、青い炎──。
塔矢が灼熱の紅蓮の炎なら、進藤の気迫は温度ない冷えた青い炎だ。
でも、しずかに身を燃やしながら揺れている──そんな炎のような気迫。
パチリ、と静かな音を立てて進藤の白石が置かれる。
僕は、背中がぶるりと震えるのを感じた。
+++++
しばらくして、まず三将の朴が終局を迎えた。
社との対局は、中国戦に続き取ったり取られたりの大熱戦になったようだが、それを制したのは朴だった。
三目半、白石の勝ち。
まずは僕たちの一勝──。
その次に終局したのは大将戦の塔矢×永夏。
こちらは力で押し合う碁から、終盤に向かうに連れてお互いに先の一手を読みあう深い思考の中での戦いとなった。
永夏もさることながら、塔矢の読みも深くて鋭い。
お互いに鋭い刃物で斬り合うような戦いは、最後の最後で塔矢が僅かに届かず、永夏の半目勝ちで終局した。
この時点で僕たち韓国チームの勝利が決まり、日本の今年の北斗杯は1勝1敗という結果が出ていた。
そして、進藤と僕は──。
「……これは」
「何だ、この棋譜は」
「今までに見たこともないぞ、こんな一手は」
会場がザワザワと揺れているのがわかる。
「……なんだ、コレ……」
僕より早く終局をした朴が、僕の背後でそう呟くが聞こえた。
その隣に永夏の気配も感じる。
盤の向こう側では、塔矢と社がやはり強ばった表情で僕と進藤の盤を見つめていた。
僕と進藤は、一番最後に終局した。
結果は、僕の一目半負け。
負けた対局であったけど、僕の中には悔しさよりも今までにない程の充実感と達成感に充ち満ちていた。
そう、それこそ子供の頃初めて永夏と打った時のような。
そんな充実感が僕の中を満たしていた。
目の前に出来上がった棋譜は、酷く美しかった。
流れるような石。
その流れは淀みなく澄んでいて、美しい。
その白石に引っ張られるようにして、僕の黒石も共に美しい棋譜を描いていた。
それはまるで、今までに見たことのない程の美しい棋譜。
僕がこんな棋譜を打つことが出来たなんて。
すごい。
すごいすごいすごい、すごい。
やっぱり進藤はすごい。
「進藤、僕──」
僕が進藤に声を掛けようと盤から顔を上げると、進藤は酷く静かな表情で僕らの盤を見つめていた。
そして、進藤の口が小さく一言だけ動くのが見えた。
その時進藤が呟いたのは。
「──……った」
「え」
『これで本日のプログラムは終了いたします。
この会場は後片づけに入りますので、選手の皆さんは速やかに移動してください。
隣の鳳凰の間にて、立食パーティーのの準備が出来ております』
マイクのスピーカーの大きな音で僕と進藤の声は遮られた。
僕がもう一度進藤に声を掛けようと立ち上がると、安先生が「秀英!」と大きな声で呼ぶのが聞こえた。
進藤も倉田さんに連れられて、席を離れていってしまった。
会場の後片づけが始まった後でも、先程の進藤の棋譜でどことなく会場がざわついているのを感じていた。
僕はその後、目でずっと進藤を追いかけていた。
進藤は先程の対局前や対局中とは違って、いつもの「明るい進藤」の表情に戻っていた。
塔矢や倉田さん、それから中国の楊海さんらと楽しそうに何かを話しているのが見えた。
進藤、あの棋譜は一体?
そして終局の後に呟いたあの言葉の意味は?
知りたい。
僕はもっとお前のことが知りたい。
知りたいよ、進藤。
「永夏!」
僕がそんなことを考えながら進藤を見つめていると、背後で安先生が大声で永夏を呼ぶのが聞こえた。
僕がその声のした方を振り向くと、永夏が立食パーティーの会場から立ち去っていくのが見えた。
安先生が慌てて後を追いかけてゆく。
ああ怒ってるな、永夏。
ダテに10年近く付き合ってきた訳じゃない。
その後ろ姿や歩き方だけで、永夏の状態くらいわかるつもりだ。
進藤のことも気になるけど、永夏も心配になった僕は、安先生の後を追うようにして部屋へと戻った。
+++++
部屋へと戻ると、永夏は憮然とした表情で窓辺の椅子に腰を下ろしていた。
その対面側の椅子に安先生が座り、永夏を諭そうと必死に声をかけていた。
「永夏、パーティー会場へ戻ろう。
お前がああいう席をあまり好きではないのは知っているが、仕方ないだろう。
僕たちはただ、日本で試合をするためだけに来てる訳じゃない。
この北斗杯は日本や中国との親善や交流の意味も含まれているんだ。
お前ならそれくらいわかるだろう? これも仕事だ」
「………」
安先生の必死の呼び掛けも空しく、永夏は黙ったままぼんやりと外を見つめていた。
聞いているのか聞いていないのかわからない永夏の様子に、安先生は盛大な溜息をついた。
「一体、何をそんなに不機嫌になっているんだ。
塔矢に辛勝だったことか? それとも進藤と秀英の対局のことか?」
安先生がそう言うと、永夏は今まで切れていたスイッチが入ったかのような勢いでこちらに振り向き、珍しく大きな声で喋りだした。
「ああ、そうですよ! 安先生の言う通りだ。
あれ程進藤との再戦を願って来てみれば、今年の相手は塔矢アキラ。
日本のNO.1とはいえ、オレが戦いたかったのはコイツじゃない。
だから簡単に勝てると思っていた。
それが終わってみればどうだ、たった半目の──ギリギリの勝利だ。
強かった、塔矢は。進藤とは質が違う強さを感じた。
『もしかして負けるかもしれない』と対局中に感じたのはアイツが初めてだ」
「………」
「そんなに強かったのか、塔矢は」
「ところが終わってみて、横を見てみたらどうだ。
進藤が秀英とあり得ない棋譜を作り上げていた。
なんだ? あの棋譜は。あんな一手、オレは見たことがない!!
……あんな、あんな美しい一手は」
永夏はそこまで一気に喋ると立ち上がって、上着を脱いでベッドの上に投げ捨てた。
僕は驚いていた。
こんなに興奮して喋る永夏を、僕は初めて見たのだ。
呆然としている僕や安先生をよそに、永夏の思いの丈はまだ止まらなかった。
そして永夏はキッと強い表情で横に立っていた僕を睨んだ。
「どうしてお前なんだ!?」
「え?」
「どうして進藤の対面に座っていたのがお前なんだ!
どうしてオレじゃない!
オレが打ちたかった。オレが作りたかった、あの棋譜を。
お前と進藤があの棋譜を作り上げている間、オレはその横で塔矢に追い詰められていた。
こんな馬鹿げた話があるか。オレはこんなことのために日本に来たんじゃないんだ!
オレは」
「永夏!!」
安先生の怒鳴り声で、永夏の動きがピタリと止まった。
いつも穏やかな安先生のこんなに怒りを含んだ大きな声を聞いたのは初めてで、僕も永夏も驚いて安先生を見つめた。
「いい加減にしないか、永夏。
お前の相手は進藤じゃない。大将の塔矢だ。
そしてお前は勝利した。それのどこが不服なんだ」
「………」
「お前の気持ちはわからなくはない。
だが進藤の相手は秀英だった。あの棋譜は秀英がいてこそ出来上がったものなんだ。
そうだろう?」
「………」
「それにお前は韓国チームの大将なんだ。チームを盛り上げて引っ張っていくのもお前の仕事だ。
試合は今日で終わりじゃない。明日は中国戦だ。
お前がそんなイライラとした状態でどうする。
北斗杯は個人戦じゃない、団体戦だ。少しは周りのことも考えろ」
安先生がそう言うと、永夏はしばらく俯いてその場に立ちつくしていた。
僕は、こんな風に永夏が大人から怒られているのを見るのは初めてで、どうしたらいいのかわからずに、同じようにその場に呆然と立ちつくしていた。
そのまましばらくして永夏はフーっと大きな溜息をつくと、先程ベッドの上に放り投げた上着を拾って何も言わぬまま部屋を出ていこうとした。
安先生が慌てて「永夏!」と声をかけると、永夏はドアに手をかけたままこちらを振り向いた。
「パーティー会場に戻りますよ。これも仕事なんでしょ?」
永夏そう言い捨てると、そのままパタンとドアを閉めて部屋を出ていった。
安先生はその様子を見て、「アイツは大人なんだか子供なんだかサッパリわからん」
と言いながら再び大きな溜息をついた。
『どうしてお前なんだ!?』
僕には、永夏の気持ちはよくわかっていた。
去年の北斗杯が終わった後、永夏は韓国に帰って以前よりもさらに秀策の棋譜を徹底的に調べて打ち続けた。
そして「来年の北斗杯で、進藤に『秀策なんかよりも上の人間がココにいる』って教えてやる」と息巻いていたのだ。
だがそれは叶わぬまま終わり、そんな自分の横で僕を相手に進藤はまさに永夏が目指していたような棋譜を作り上げていたのだ。
それは頭に来て当然だろう。
でも永夏。
あの棋譜を作り上げたのは、僕だ。
最初に進藤と出会ったのも、僕だ。
僕はいくら永夏が相手でも、進藤を譲る気はないよ。
僕はそんなことを考えながら、永夏の後を追うようにしてパーティー会場へと向かった。
+++++
立食パーティーは、永夏があんな状態で一時はどうなることかと思ったが、特に何事もなく時間は過ぎていった。
永夏は朴や金さんと話しながら食事を進めていた。
僕はなんとか隙をついて進藤を捕まえて、先程の終局の後に進藤が言った言葉について聞きたかったのだが、その対局せいか、進藤の周りには代わる代わる様々な人が訪れて話しかけ、とても僕が話しかけることの出来る余裕などなさそうだった。
そんな中でも――塔矢アキラは、進藤から少し離れた背後にピタリと付いて、進藤の様子を常に目で追っているようだった。
そんな様々な人々の様々な思いの交錯する中、立食パーティーは終わり、ふと気が付くと永夏が姿を消していたのだ。
そして、僕はこうして永夏を探し回り――現在に至るのである。
ホテルの廊下を歩きながら、再び大きな溜息が出る。
僕は永夏にとって一番の友達で、誰よりも永夏のことを理解しているつもりだ。
でも、時折こうして酷く子供っぽい、見当のつかない行動を取って僕を驚かせる。
その度に僕は、本当はまだ彼のことをよくわかっていないんじゃないか、と思ってし
まうのだ。
「だから、何だよ!」
そんなことを考えていた僕の耳に、どこかで聞いた声が耳に飛び込んでくる。
その声は、先程までパーティー会場で聞いていた声。
男にしては、少しだけ高い声。
……――進藤? 何でこんなところに…
僕は、その進藤の声のした方へ足を向ける。
すると、ふと広い空間に出て、そこには外の明るい光が射し込んでいるのが見えた。
このホテルの端の方の1階から3階までは大きな吹抜けになっており、その1階部分には小さな中庭があった。
中庭というのにはあまりに小さく、本当にこぢんまりとした空間ではあったが、吹抜けのせいなのか窓から差し込んでくる光のせいなのか――
何だかその空間だけ、現実世界から切り取られたかのような神秘的な雰囲気を醸し出していた。
その庭の中から確かに進藤の声が聞こえたのだ。
僕は足を進めて、声のしたと思われる方へと向かう。
「何て言ってるのか、わかんないってば」
再び進藤の高い声が響いた。
さらに足を進めると、進藤の姿が見える。
そして、そこに一緒にいたのは。
「だから、あの棋譜は何だと聞いているんだ」
――永夏。
その小さな光の射す中庭の中に、進藤と永夏が二人きりで何かを話していたのだ。
僕は思わず息を飲む。
そして、無意識に側にあった木の影に隠れ、二人の様子を見つめた。
永夏のヤツ、いつの間に。
そして進藤も。
――何故。
僕は、息を殺して二人の様子を窺った。
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