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09-1.5
永夏は日本語を話すことが出来ない。
それと同じように、進藤も韓国語を話すことは出来なかった。
進藤のことはよくわからないけど、永夏ほど優秀な人なら少し本気で勉強さえすれば、僕よりもずっと短期間で日本語など覚えられるはずなんだ。
でも、永夏は秀策の棋譜を勉強することはあっても、日本語を勉強することはなかった。
僕は一度、永夏に「進藤と話をしたいなら覚えろよ」と去年の北斗杯が終わった直後に言ったことがあった。
それを聞いた永夏の答えはこうだ。
「オレと話したいのなら向こうが覚えればいいだろう。
何故オレが覚えなければならないんだ。
それにオレには日本語なんて必要ない」
「何故?」
「お前がいるからな」
永夏はそう言って、ニコリと微笑んだ。
……まったく、僕は今までの人生で何度その微笑みに騙されてきたことだろう。
最も、騙されても騙されてもちっとも学習しない僕も僕なのだけれど。
今にして思えば、きっと進藤も僕と同じような理由なんじゃないだろうか。
だって、アイツの傍にはいつも必ず塔矢アキラがいる。
塔矢は韓国語と中国語を話すことが出来る。
つまり進藤は塔矢と一緒にさえいれば、北斗杯ではちっとも困ることなんてないのだ。
だが、今この空間には塔矢はいない。
そして、二人には僕の姿が見えていない。
──つまり、僕もいない。
言葉の通じない永夏と進藤が二人きりで。
会話も出来ないのに、一体何をしようというのだろうか。
僕は、そっと木の影から二人の様子を覗き込んだ。
「あの棋譜はなんだ? あの一手はなんだ?
今までに見たことがない一手だった」
「……? 何言ってるのかわかんねーよ。何?
秀英はいないのか?」
進藤の口から出てきた自分の名に、一瞬身体をビクリと震わせてしまう。
やはり二人は全く言葉が通じず、お互いに自分の言いたいことだけを言っていた。
それにしても、そうか。
やっぱり永夏は、僕との対局で見せた進藤の一手が気になっていたんだ。
そして、言葉も通じないのに直接本人に問い質しに来た訳か。
永夏の言葉がわからない進藤は、大きな目を見開いて永夏のことを睨み付けていた。
去年の一件は、僕が北斗杯の翌日に必死になって誤解を解いた。
その場では進藤は納得していたものの、1年経った今でもやはり永夏への敵対心と警戒心は解けていないようだった。
永夏はそんな進藤を見て、まるでバカにするようにフッと鼻で笑った。
「お前、秀策のファンだったな、確か。
去年オレが秀策をバカにしたら、ムキになって突っかかってきたっけ」
「…シュウサク? 今、秀策って言ったのか?
オイ! また秀策のこと、おまえ……!
誤解だって秀英のヤツは言ってたのに、やっぱり本当は…!」
ああ、もう永夏。
僕の去年の努力を一瞬にして無駄にしないでくれ。
何でそうなるんだ。何でそんな言い方しか出来ないんだ。
正確な意味は伝わらなくても、そんな不遜な態度で言えばニュアンスで言葉は通じてしまうんだぞ。
そうすると、言葉が通じないから弁解が出来ない。だから厄介なことになるんだ。
案の定永夏の言い方と秀策の意味を曲解した進藤は腹を立てて、永夏に掴みかかろうと手を伸ばした。
いけない! 殴り合いになんてなったら最悪だ!
僕が進藤を止めにいこうとした時、永夏は自分に向かって伸びてきた進藤の両腕を意図も容易く掴んで、そのまま中庭の木の幹に進藤の身体ごと押しつけた。
まだどうなるのかはわからないけど、どうやら殴り合いにはなりそうもない。
永夏、頼むから手荒なことはしないでくれ。
動こうにも動けない僕は、もう一度息を潜めながらそんなことを心の中で祈った。
一方、木に押しつけられた進藤は、大きな声を出しながら永夏の手から逃れようとジタバタと暴れた。
だが大きな体格差のある進藤と永夏では、進藤が力で永夏に敵うはずもなかった。
「ちょ、はな…!」
「一体なんなんだ?」
「離せよ!!」
「お前、秀策の一体なんなんだ? 何故秀策に対してそこまで入れ込むんだ?」
「な……! お前また秀策って…!」
「それにあの棋譜…。
……去年、お前との対局の後、オレは韓国に帰っておまえのことを調べた」
「……?」
僕は永夏の予想外の言葉に思わず目を丸くする。
……進藤のことを調べた? いつの間に。
秀策の棋譜を一生懸命勉強していたのは知っていた。
だが進藤のことまで。
永夏は、そこまで進藤のことを意識していたのか……。
僕は驚きながらも、永夏の次の言葉を待った。
「お前の棋風、打ち筋、ヨミ方、石の並べ方。そして、作り上げる棋譜。
秀策に酷似している」
「…何、言って」
「ただの熱心なファンというだけではなさそうだ、と思った」
「……?」
永夏はどうやら本当に進藤のことをよく調べたようだった。
僕も進藤の棋譜はいくつか見ているが、ほぼ永夏が今言ったことと同じような感想を持っていたのだ。
そう、進藤の作る棋譜は秀策のそれと酷くよく似ている。
ただのファンが成し得るレベルのものではない。
それもあって、永夏は1年間秀策の棋譜を勉強し続けていたのだ。
永夏はそのまま静かに言葉を続ける。
その永夏の静かな語り口に進藤は暴れるのを止め、両腕を押さえられたままジッと永夏のことを見つめていた。
「オレも秀策は好きだ。
力強くて、淀みない。それでいて美しい。囲碁の神、と日本で呼ばれるのもわかる気がする。
だからオレは、秀策の棋譜は昔からかなりの量を読んでいたし、暗譜もした。繰り返し打っている」
「……?」
「そんな時にお前に会った。お前と打った。お前の棋譜を見た。
秀策だ、と思った」
「……しゅう、さく?」
「秀策が蘇ったら…というよりも。
そうだな…たとえるなら、秀策が蘇って才能のあるものに囲碁を教えたとしたら。
そうしたら、お前のような者が生まれるのかもしれない」
「……」
「お前を見ていてそう思った」
永夏は静かに、そして優しい口調でそう言うと、掴んでいた進藤の腕を放した。
だが進藤は身動きひとつせず、腕を掴まれていた時と同じ姿勢のまま永夏を見つめていた。
大きな、進藤の瞳。
色素の薄い前髪の下から覗くその大きな瞳は、中庭に差す光が映りこんでキラキラと輝いて見えた。
遠目から見ている僕の目にも、その進藤の瞳は酷く神秘的で、美しく見えた。
ごく近い距離でその瞳を見ている永夏には、一体どのように見えているのだろうか。
やはり美しいと感じているのだろうか。
僕のいる位置からでは永夏は背中しか見えず、表情を読みとることが出来ない。
だが僕は永夏とは10年来の付き合いだ。
その背中を見るだけで、永夏が今何を思っているのかくらいはわかるつもりだ。
今永夏が思っていることは。
永夏は酷くゆっくりとした動作で、進藤の小さな顔の横の幹に、右手をついた。
そうして、進藤との顔の距離を縮める。
まるでその瞳をより間近で覗き込もうとしているかのように。
そして永夏が小さな声で進藤に囁くのが聞こえた。
「どうだ、間違っているか、オレの考えは? また気に障ったか?」
「……」
「突っかかってこないんだな。
それとも単純に言葉が通じてないだけか。ハハ」
「……」
「それでも、まあいいさ」
永夏は今度は空いている左手で、進藤の右頬にそっと触れた。
進藤の目に少しかかっていた前髪を梳くようにして掻き上げ、その下に隠れていた大きな瞳を覗き込む。
「……不思議な色の瞳だな。グレーだ」
「……」
「不思議なヤツだな、お前は」
「……」
「オレが他人にこんなに興味を持ったのは、お前が初めてだ。
何でお前みたいなヤツに、このオレが」
「……」
僕は永夏とは10年来の付き合いだ。
その背中を見るだけで、永夏が今何を思っているのかくらいはわかる。
今永夏が思っていることは。
永夏の顔が、ゆっくりと進藤の顔に重ねられていくのが見えた。
僕の身体は、金縛りにあってしまったかのようにピクリとも動かすことは出来なかった。
でも、鼓動だけは五月蠅い程にバクバクと鳴り続けている。
どうしよう、どうしよう。
止めなきゃ。
でも、でも。
僕はずっと祈っていたじゃないか。
永夏の興味が湧くような、素敵な人が現れますようにって。
それが、進藤だったのか?
僕の頭の中はグチャグチャになってしまい、何がなんだかわからなくなってしまっていた。
まさに今、永夏の顔が進藤の顔に重ねられようとしている。
僕は静かに息を飲む。
視線を逸らすことが出来ない。
そして、その時。
「…お前、わかるのか? ……オレの中の、アイツのこと……お前もわかるのか?」
「……は?」
進藤の突然呟かれた言葉に、永夏は我に返ったように顔を離して進藤を見つめた。
進藤は、永夏の顔を見つめながら呟くように言葉を続けた。
「打ってみれば」
「…は?」
「打ってみればわかるかもしれない。お前のこと」
「…ウッテ?」
「お前が、ホントにオレの中のアイツのこと、見つけられているのか」
「…ウッテ…
囲碁か? 囲碁を打つ、と言ってるのか?」
「もしかしたら、お前かもしれないんだ
オレのことを、『あの世界』につれていってくれるのは」
辛うじて永夏の知っている僅かな日本語が出てきたのか、進藤が「打ちたい」と言っている言葉が永夏には伝わったようだった。
その意味は僕も当然わかっていたけれど、でもその前の進藤の言葉の意味がわからない。
『オレの中のアイツのこと』……?
進藤の中にいる、アイツ……?
『あの世界に連れて行ってくれる』……?
あの世界……?
僕が頭の中に疑問符をたくさん浮かべている間、永夏は進藤の言葉を受けてニヤリと笑い、口を開いた。
「…何を言ってるのかわからんが、打つ、というのはいいアイディアだな。
言葉は通じなくても、オレ達には石がある。オレ達が解り合うには、石があれば十分だ」
「今すぐ打とう、永夏」
先程進藤と永夏の間に流れていた不思議な雰囲気は消え失せ、永夏も進藤もいつもの口調、いつもの雰囲気に戻っていた。
お互い棋士故なのかわからないけれど、「打とう」という意味の言葉は二人の間で奇跡的に通じたようだった。
意気投合した二人がこちらに向かって歩いてくるのが見える。
慌てて僕は、さらに木の影へと身を隠す。
すると永夏は先に歩いていた進藤を呼び止め、その場に立ち止まったまま怪訝な顔をして進藤を見つめた。
「……さっき、お前、オレのことを『永夏』って呼んだのか?」
「え? 間違ってた? 永夏でいいんだろ? 高永夏」
「…フン、馴れ馴れしい。イキナリ名前で呼び捨てにしやがって。
そうだ、お前は何ていうんだ。お前のファーストネーム」
「ネーム? 名前?
進藤、だよ! 覚えてなかったのかよ!」
「違う、ファーストネームって言ってるだろう。進藤、なんて言うんだ」
「ファースト…ああ、下の名前のことか?
ヒカルだよ! ヒ・カ・ル!」
進藤はわかりやすく一文字一文字口を大きく開きながら。『ヒカル』と大きな声で自分の名前を永夏に告げた。
永夏が納得したように頷くのを見て、進藤は「早く打とうぜ!」と言うと再びこちらに向かって歩き始めた。
その時。
永夏は再び進藤に声をかけて呼び止める。
だが今度呼んだ名は、先程とは違う名前で。
「待て」
「ヒカル」
永夏の自分の名を呼ぶその声を聞いた進藤は、歩みを止め、その場に立ちつくした。
まるで永夏の声を聞いて凍ってしまったかのように動かなかった。
どうしたのだろうと思って、僕は見つからないようにそっと木の影から進藤の表情を覗く。
すると、進藤の表情は。
僕はその進藤の表情を見て、思わず息を飲んだ。
進藤の背後を歩いていた永夏は、突然立ち止まった進藤を不思議に思って後ろから進藤の顔を覗き込んだ。
そして、永夏もその進藤の表情を見て息を飲む。
進藤は、大粒の涙をポロポロと音もなく零していたのだ。
そんな進藤を見てさすがの永夏も焦ったのか、進藤の前に回り込んで慌てて声をかけた。
「おい、どうしたんだ?」
「いま……なんて」
「は?」
「いま…オレのこと…」
「なんだ、何を言ってる?」
「いま……お前……声…」
「おい」
進藤は震える声で涙を流しながら永夏の腕にしがみつく。
訳のわからない永夏は、そんな進藤の様子を見ながらもう一度静かな声で、その名を呼んだ。
「ヒカル」
再び永夏の、自分の名を呼ぶ声を聞いた進藤は、先程よりもさらに大粒の涙を零し始めた。
そうして立っていられなくなったのか、糸の切れた人形のようにその場にペタンと座り込んでしまった。
そんな進藤の様子に焦った永夏は、進藤と同じようにしゃがみ込んでその表情を覗こうとした。
すると、進藤は涙を零したまま永夏の顔を見つめ、震える声で喋り出す。
「……同じ……声」
「は?」
「お前、アイツと同じ声……。声、似て…同じ……」
「???」
「同じ声で、同じように、オレのことを呼んで……」
「コエ…?」
進藤はそこまで言い切ると、目の前の永夏の胸に飛び込むようにして抱きついた。
突然の進藤の行動に驚いた永夏は、少し後ずさりながらもしっかりと倒れないように進藤の細い身体を受け止めていた。
僕は進藤のあまりの突然過ぎる行動に全く頭が追いついていかず、ただただ自分の目の前にある現実だけを静かに受け入れるしかなかった。
進藤は泣きながら永夏に抱きついている。
最初は驚いていた永夏だが、自分の胸で静かに震えながら泣く進藤の細い背中に、壊れてしまわないようにゆっくりと腕を回していく。
二人は、光の差す中庭の中心で、静かに抱き合っている。
僕は日本語を理解することは出来る。
だが、今進藤が永夏に言ったことのほとんどを理解することが出来なかった。
『進藤の中にいるアイツ』
『あの世界に連れて行ってくれるのは永夏かもしれない』
『アイツと似た声、同じ声で名を呼ぶ永夏』
一体、どういうことなのだろう。
アイツ、とは?
僕はもっともっとお前のことを知りたいんだ。
そのために日本語だって覚えたのに。
なのに何故僕はお前の言葉を聞いても、お前の考えていることがわからないんだろう。
僕は、お前のことを知るために日本語を覚え、ここに──日本に来たのに。
僕は。
僕はお前が。
それなのに。
それなのに結局お前は、僕よりも、日本語の出来ない永夏の胸の中に飛び込んでいくんだな。
その後、二人は進藤の部屋に消えていった。
僕は最後まで声をかけることが出来なかった。
安先生には正直に「永夏は進藤の部屋にいます」と伝えた。
ただ、「明日の中国戦に備え、どうやら二人で検討をしたいようです」と少しだけ嘘をついて。
安先生は「進藤くんに迷惑がかかってしまうのは申し訳ないが、今の永夏にはちょうどいい相手かもしれないな」と言って喜び、特に永夏を連れ戻そうとはしなかった。
その後、二人が囲碁を打ったのかどうなのか。それは僕にはわからない。
ただ、永夏は朝まで部屋に戻っては来なかった。
翌日、僕たちは中国戦にストレート勝ちをし、今年も優勝を納めることが出来た。
無事「優勝」という任務を果たした安先生はホっとしていた。
進藤は塔矢たちと会場に来て僕らの対局を見ていたが、進藤も永夏も特に変わった様子はなく、二人は最後まで口をきくどころか目を合わすこともないまま北斗杯を終えた。
その時二人のことをまだよくわかっていなかった僕は、「二人はきっと碁を朝まで打ち合って、何かを分かり合うことが出来たに違いない」と思った。
──いや、思うようにしていたのか。
僕自身にも、よくわからない。
そして、それから3ヶ月後の夏の日のこと。
突然進藤が「今から行くから空港まで迎えにきて!」と意味不明の国際電話をしてきたかと思うと、本当にその日の夕方に韓国へとやってきたのだ。
たった一人で。
理由は、きっと。
きっと、永夏に会うために。
今思えば、あの2年前に過ごしたあの夏の日が──。
あれが、すべての始まりだったのかもしれない。
僕が知る限りの、永夏と進藤の。
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