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09-1.6
2004年、8月1日。
その年の夏は酷い猛暑で、毎日照りつける太陽にうんざりとした日々を送っていた。
だがもうすぐオリンピックが開催されることもあって、ソウル市内はなんとなくザワザワとしており、人々の話題も専らオリンピックに集中していた。
僕自身、ちょうどジムに通い初めて間もない頃で、運動をして身体を鍛えることが少しずつ楽しくなり始めている時期であり、僕はもうすぐ始まるオリンピックをとても楽しみにしていた。
そんな穏やかな日々を送っていたあの夏の日。
ある日突然、嵐はやって来る。
「すっげー!! でっかい家だなー!
塔矢んちよりもデカイかも。お前、もしかしておぼっちゃまなの?」
「………」
「でも韓国もあっち〜な。今日本、すっげえ暑くてさ。
韓国はちょっとは涼しいかと思ったんだけど。変わらないのな」
「……何で」
「え?」
「………お前みたいなヤツがよくもまあ一人で…」
「ああ、すげえだろ? 大変だったんだぜ〜!
パスポート作ってさ! 飛行機の手配もして! 海外行くのなんて初めてだし」
「………」
「飛行機ってさ、電車と違ってキップ買ってすぐ乗れるってワケじゃないんだな!
出国だか入国だかナントカ審査とかさ〜。めんどくせーっての」
「………それで………飛行機の手配で精一杯で、ホテルの手配を忘れたという訳か……」
「あー、うん。韓国着いてから気が付いた。
そーいえばオレ、今日どこで寝るのかなーって。エヘヘ」
「…………………」
「秀英?」
「この……っ……バカ!!!!」
「バッ…バカって何だよ!」
「バカだお前は!! それが気にくわないなら言い直してやる!
お前は大バカだ!!」
何だよそれー!! と、項垂れる僕の耳元で進藤は大きな声で抗議を続けていた。
この項垂れているのは、決して猛暑のせいなんかではない。
突然日本から飛行機に乗ってやってきたこの嵐のせいなのだ。
……………頭が痛い。
僕はズキズキと痛むこめかみを抑えながら、つい今朝のことを思い浮かべる。
今日偶然オフだった僕は、いつもより少しだけ寝坊をして朝の10時に目覚めた。
朝食とも昼食ともつかぬ食事を取りながら、新聞のオリンピック特集の記事を読み耽る。
そんなゆったりとした時間を過ごしていた時、奥の部屋から母の僕を呼ぶ声が聞こえた。
「なんだか国際電話みたいなんだけど…」と戸惑いながら母は僕に受話器を渡す。
僕が日本語で言うところの「もしもし」といった言葉を発する前に、受話器の向こう側から隣の国の彼の人の声が聞こえた。
「あ、秀英? オレオレ! 進藤。
今からさあ、オレそっちに行くから。2時くらいには着くと思うんだよね。
この……ニカワ空港っていうのかな? 悪いけど迎えに来てよ!
じゃ、またあとでな!」
ガチャン。ツー。ツー。
僕は受話器を持ったまま、突然の嵐の襲来に電話を切ることも忘れてその場に立ち尽くす。
………進藤?
………今からこっちに来る?
母に「どなただったの?」と声を掛けられて、漸く意識を取り戻した僕は、慌てて受話器を置くと2階の自分の部屋へと駆け上がった。
僕の家から仁川までは1時間半はかかるから、早く支度をしなければ。
進藤、僕が今日仕事で家にいなかったらどうするつもりだったのだろうか。
でもアイツ、そんなこと考えてもいないだろうな。偶然とはいえオフだったのだから、まあいいんだけど。
というか進藤、「仁川」は「ニカワ」じゃない。「ジンセン」と読むんだぞ、ととりあえず会ったらまず一番に教えておくか。
そんなことを脳裏に浮かべつつ、「今の電話は夢じゃないよな?」なんて半信半疑のまま支度をして急いで仁川新国際空港へと向かうと、本当に嵐……もとい進藤ヒカルは韓国に来ていたのだった。
──そうして現在に至るのである。
項垂れている僕の横で、進藤は未だに何かブーブーと文句を言っている。
……もしかして、まだ夢を見ているのかも……などと思った僕は、顔を上げて隣の進藤をまじまじと見つめた。
突然僕に見つめられた(睨まれたと誤解している可能性もあるが)進藤は、キョトンとして小首を傾げた。
小さな顔に、大きな瞳。
春の北斗杯で会った時よりも少し髪の毛が伸びたのか、色素の薄い長い前髪が小さな顔を囲むようにして流れていた。
……本当にこれが夢でないのなら。幻でないのなら。
今こうして僕の目の前にいる進藤に、僕は触れることが出来るはずで。
キョトンとした顔で目の前に座っている進藤に、僕は恐る恐る手を伸ばす。
まるで、触れたら壊れてしまう繊細なガラス細工を触るかのような手つきで、僕はゆっくりと進藤の右頬に触れた。
柔らかい髪の毛と、思ったよりもずっとしっとりとした肌──。
進藤の温かい温もりが、手の平を通して僕の身体へと伝わる。
背筋がザワザワと粟立つのが分かる。
なんとか呼び掛けようと口を開いても、上手く声を出すことが出来ない。
進藤の大きな瞳に映る僕自身と目が合う。
何か、何か言わなくちゃ。
今ここにいる進藤は夢でもない。幻でもないんだ。
僕は。
僕は。
「進藤、僕──」
「……ヒカル!!」
バタン! と大きな音を響かせて僕の部屋の扉が勢いよく開かれた。
その大きな音で我に返った僕は、弾かれるようにして進藤の傍から離れて立ち上がり、その大きな音のした方を見る。
心臓が口から飛び出してしまいそうなくらいにドキドキとしている。
今、今僕は何をした?
今、今僕は何を言おうとした?
今、僕は進藤に──。
僕のそんな動揺を余所に、進藤はソファーに座ったまま先程と同じようにキョトンとした表情で、その大きな音を立ててまるで自分の部屋のようにズカズカと僕の部屋へと入ってきた人物の名前を呼んだ。
「永夏」
「ヒカル!」
永夏は進藤の傍まで来ると、満面の笑みを浮かべて何の躊躇もなく先程まで僕が座っていた位置(進藤の隣だ)に腰を下ろした。
僕はそんな永夏の態度と表情に些か驚きを隠せないまま、その場で立ち尽くしていた。
だって、こんなにも素直な永夏の表情を僕は初めて見たのだ。
永夏は、その恐ろしい程整いすぎている顔立ちのせいか、よく「無表情だ」とか「目が笑ってない」だとか人から言われることがある。
あまりにも綺麗すぎる人形のような顔は、対局相手を目の前にした時の不敵な笑みも、バラエティー番組を見て面白くて笑っている表情も、正直同じに見える節があるのは確かだった。
10年近い付き合いのある僕だからこそ、その表情の微妙な変化や態度などで永夏の考えや気分などをわかることが出来ていたのだ。
だがそんな僕でさえ、初めて見る永夏の表情──。
それは、心の底から進藤との再会を喜んでいる、そしてそれは今までどの人間にも見せたことのない程の綺麗な優しい笑顔だったのだ。
永夏は僕などまるで眼中に入らないかのように、進藤に向かって話しかけた。
当然韓国語のわからない進藤は永夏の言葉に首を傾げ、僕に向かって救いの目線を投げかけてくる。
そうか、そうだよな。
二人は。
僕は二人には聞こえないように小さく溜息をつくと、二人の向かい側のソファーにゆっくりと腰を下ろした。
その間にも永夏の進藤への呼びかけは続く。
「どうしたんだ、突然。お前が韓国に来るだなんて。
秀英から電話をもらった時、夢なのかと思った」
「……僕も夢かと思ったよ…」
「ああ、次にお前に会える日はいつになるのだろう、と思っていたんだ。
そんな時にお前が突然こうしてオレの目の前に現れるなんて」
「何? 何て言ってるの?」
「……進藤に会えて嬉しいって」
「ホント? オレも嬉しいよ」
進藤がそう言って永夏に向かってニッコリと微笑むと、永夏はそのまま進藤を抱き込んだ。
突然の永夏の行動に、お茶を口に含もうとしていた僕はそのまま吹き出してしまい、ワケのわからない進藤は永夏の腕の中でモガモガと暴れ出した。
「な、なな何? 秀英、コイツ何て言ってるんだよ?」
「ああ……本当にここに……韓国にいるんだな。幻じゃなくて良かった」
「オ、オイ永夏。何? 何?」
進藤は自分を抱きしめている永夏と、横で吹き出したお茶をそのままに呆然としている僕を交互に見つめてオドオドとしていた。
それはそうだろう。韓国語のわからない進藤には、永夏がこれだけ興奮して喋っていても、全く意味が通じてないのだ。
……本当は雰囲気で相手が怒っているのか喜んでいるのかわかるものなのだけど、進藤ニブそうだしな……。
僕がそんなことを思っている間にも、永夏の進藤への語りかけは続いていた。
「日本でのお前とのあの一夜は夢だったんじゃないかって。
韓国に帰ってきてから……お前と離れてからずっとそう思っていた。
それどころか、もしかしてお前自体が幻だったんじゃないかって」
「何? ねえ、何て言ってるんだよ」
「…………」
「秀英! 黙ってないで訳してくれよ〜!」
「不思議だな。
1年前は、お前のことを考えると苛々として、早く再戦してこんな気持ちは吹き飛ばしてやろうと考えていた。
だが今は、お前のことを考えると胸が苦しくなる。こんな気持ちは初めてだ。
……本当にお前は不思議なヤツだ」
「え? 何?」
進藤を抱き込んでいた永夏は、一瞬進藤を解放すると、今度はそのまま顔を進藤へと近づけた。
あまりの永夏の変貌ぶりに、通訳も忘れて呆然としていた僕は、永夏のとんでもない行動に慌てて我に返る。
その時すでに、キョトンとしたままの進藤の顔と永夏の顔は、完全に接触してしまう数ミリ手前という段階で。
「わーっ!! 永夏! 永夏!! 永夏ってば!!」
僕が慌てて大声で永夏を呼ぶと、永夏は動きを止めて僕の方へと振り向き、僕の家に来て初めて僕を視界に入れた。
「何だ、秀英いたのか」
「僕の家の僕の部屋だよ!! ココは!!」
「何? 何?
なあ秀英、コイツさっきから何て言ってるんだ? 早く訳してくれよ」
「やっ……訳せるか!! あんな事!!」
「何? もしかしてオレの悪口とか言ってたの?」
「違うよ!! お前も雰囲気で分かれ!! バカ!」
僕が顔を真っ赤にさせて進藤にそう怒鳴ると、進藤は「またバカって言ったな!」と怒り出した。
ズキズキズキ。
またこめかみが痛み出す。ああもう。
僕は。僕は。
「何だ? 秀英、ヒカルは何て言ってるんだ?」
「……永夏が言ったことを訳せって」
「ああ、そうか。訳してくれ。
そうか、今こうしてお前がいて言葉が通じるうちに、もっとオレの気持ちのすべてをヒカルに伝えておくか」
「やめてくれ!! そんなの、訳せないよ!!」
「アハハハハ」
「???」
顔中に?マークを浮かべている進藤を余所に、永夏は本当に楽しそうに大きな声で笑った。
永夏は確かに綺麗すぎるその顔のせいで、「無表情」と思われがちだけど、本当はそんなことはないんだ。
実際の永夏はよく怒るし、よく笑う。
僕だからわかる表情の微妙な変化の中にも、本当に様々な表情があった。
今までそういった永夏の様々な表情は、僕にしかわからないものだったのだ。
でも今、進藤に見せている永夏のあんな優しい表情を、僕は知らない。
あんな風に大きな声で、誰が見ても分かる程の笑顔で笑う永夏を、僕は知らない。
あんなに情熱的に囲碁以外のことを喋る永夏を、僕は知らない。
僕は、あんな永夏は知らない。
もう永夏は、僕と一緒にいた時の永夏ではなかった。
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