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09-1.7
結局進藤は、僕の家に暫く滞在することになった。
永夏が「オレの家に泊まればいいじゃないか」と言って最後まできかなかったが、人一倍対局数が多い上に囲碁以外の仕事も忙しい永夏よりも、まだ時間の取れる僕の家の方がいいのではないか、という結論になった。
これには永夏も(渋々)納得し、僕はフウと安堵の息をついた。
──何故、僕が安心なんてするんだろう。
僕自身もよくはわからない。
ただ、僕の家に暫く厄介になるということを理解した進藤が、僕に酷く申し訳なさそうに「ごめんな」と呟いたのを聞いた時にも、また深い安堵から来る息が漏れた。
永夏は楽しそうだった。
朝から夜まで続くハードなスケジュールをこなし、仕事が終わると真っ直ぐに僕の家にやって来た。
永夏のスケジュールは、韓国の棋士の中の誰よりもハードなものに違いはないのだが、僕の家に来て進藤の顔を見た途端、そんな疲労の色は一切見せずに進藤と毎日遅くま
で碁を打ち続けた。
僕は、こんなにキラキラと輝いていて楽しそうな永夏を今までに見たことがなかった。
どちらかというと永夏は、何をやるにもどこか気怠げで、囲碁の対局にしてもいわゆる「熱戦」というものをしないタイプだった。
いつもどこかで自分から一線を引いて、遙か遠い高いところから見つめて碁を打っているような印象を受けた。
僕が思うに、永夏は優秀すぎるのだと思う。
誰よりも優秀すぎる永夏は、今まで対等に打って話せて、共に楽しめる相手がいなかったのだろう。
つまり「ライバル」といえる人がいなかったのだ。
永夏は、僕のことは認めてくれている方だったけれど、それはあくまでも「年下の幼馴染み」としてのポジションだ。
「ライバル」じゃない。
そんな永夏に初めて現れた対等の相手──「ライバル」が進藤だったのだ。
惹かれない訳がない。
僕には永夏の気持ちがわかる。
わかるよ、永夏。
僕はずっと祈っていたんだ。
いつまでも誰にも興味を持てず、一人孤独になっていく永夏に、素敵な人が現れますようにって。
──まさかその相手が進藤だとは思わなかったけれど。
でもいいじゃないか。
永夏は本当に毎日楽しそうだ。
何事にも興味のなさそうだった永夏が、自分から「碁を打とう」といい、積極的に石を持ち、そしてその対局相手と本当に楽しそうに話して笑っている。
だから、いい。
僕はいいんだ。
そう思わなければ、とてもじゃないがやりきることなど出来なかった。
+++++
進藤が訪韓してから5日程経った日、僕と永夏は同じ囲碁雑誌の取材で、とある出版社の一室で待たされていた。
シンと部屋は静まりかえり、カチカチと時計の針の音のみが響いている。
以前は全く平気だった(むしろ自然だった)永夏との二人きりの時間が、今は少しだけ苦痛に感じた。
何を話したらいいのかわからない。でも何か話さないと、不自然だよな。
僕はそんな相反する気持ちの間を行ったり来たりしていて、妙にソワソワとしながら椅子に腰掛けていた。
そんな僕の変な緊張が永夏にも伝わったのか、僕のその不自然な様子を見て、永夏はフウと溜息をつき僕に話しかけた。
「……何をソワソワしてるんだ。取材なんて初めてじゃないだろう」
「わ、わかってるよ!」
「まったく、この待ち時間というのは本当に無駄な時間だな。こうしてる間にも一局打てるというのに」
「め、目かくし碁でもする?」
「そんな硬くなってるお前とやったって、ツマラナイよ」
「……ゴメン」
再びシンと静粛が広がる。
永夏は組んでいた長い足をほどいて、優雅な仕草で反対側に組み直す。
そしてフウ、ともう一度軽く息をつくと、僕の方をチラリと見て再び声をかけた。
「……ヒカルは、どうしてる?」
進藤の名前を聞いて、僕は思わずビクリと身体を揺らしてしまった。
そんな僕の様子を、永夏は表情を変えぬまま見つめていた。
「どうって…昨日の夜も打ったばかりじゃないか。
元気だよ。今日は家で棋譜並べしてるって」
「ああ、昨日の昼間、一人で市内の碁会所に行って大変だったらしいな」
「そうなんだよ! 進藤と対局したい人が集まっちゃって、僕が行った頃には碁会所は大騒ぎさ。
連れて帰るのに大変だったんだ」
「……アイツには、対局したくなる魅力があるんだ。
それは、少しでも碁が打てる者なら誰にでもわかる。たとえ言葉が通じなくても」
「……」
「何故だろうな。本当に不思議なヤツだよ。
本当にアイツには本因坊秀策が取り憑いているのかもな。ハハ」
「……ね、ねえ、永夏」
僕は恐る恐る永夏に向かって話しかけた。
どうしよう。これは、僕が永夏に聞くべきことなのではないかもしれない。
でも聞かずにはいられない。
聞きたい。聞きたい。
僕は確かめなくちゃいけない。
そうしないと、僕のこのやりきれない気持ちは、おさめることが出来ないんだ。
「あ…あのさ…永夏は……その…し、進藤のことが…好き…なの?」
僕は膝に置いていた手を握りしめる。
手の平に汗が滲み出てくる。
対局中でもめったにないくらいの緊張をしていることが、自分でもわかるくらいだ。
永夏の再び足を組み直す音が聞こえたが、僕はとても永夏の方を見ることが出来なかった。
永夏、永夏。答えてよ。
「『好きなの?』か」
永夏は静かな口調でそう呟いた。
僕はその声に呼ばれるようにして顔を上げ、永夏を見つめた。
永夏は特に表情を変えてはいなかったけれど、どこか遠くを見つめているような目をしていた。
「今まで、アイツに対するこの感情には名を付けていなかったけどな。
でもそうして改めて言われると……そうなのかもしれないな」
「し、進藤は男だよ」
「だから何だ? オレ達棋士にとって重要なのは、『男か女か』じゃないだろう。
『囲碁が打てるか打てないか』だ」
「で、でも…!」
「その点、アイツは誰よりも魅力的な碁を打つ。
アイツとなら、オレは囲碁の一手を極めていけるかもしれないんだ。
想像しただけでワクワクする。…惹かれない訳がないだろう?」
「………」
「お前も棋士ならわかるはずだ」
永夏は淡々とそう語ると、目の前のお茶に手を伸ばして一口飲んだ
時計の針が、不自然な程に大きく僕の耳の中で響いている。
僕は再び膝の上の手を握りしめた。
永夏、永夏。
僕は永夏の気持ちがよくわかるよ。
そう、僕も永夏と同じ棋士だから。
そして僕も永夏と全く同じ気持ちを、進藤に対して抱いていたからだ。
でも僕は永夏のことも、棋士として、そして一番の友達として、本当に尊敬していて本当に大好きだったから。
だから永夏がそんなに進藤のことが好きなら、僕は諦めようと思った。
進藤だって、僕といるよりも永夏といた方が棋士としてずっと楽しいに違いない。
永夏のために。進藤のために。
──でも、そうしたら僕は?
僕の気持ちはどこへ行ってしまうの?
僕は。
僕は僕は僕は僕は。
僕は。
「しっ……進藤は」
「?」
「進藤は……永夏のことを……どう思ってるの…かな?」
ああ、時計の針の音が頭の中で響いている。
五月蠅い。五月蠅い。
手の平の汗が滲む。
時計の針の音と、心臓の音が僕の頭の中で同時に響いていて五月蠅くてたまらない。
その時、永夏の静かな声がすべての音を止めるかのように僕の中に響いた。
「さあな」
「さ、さあなって」
「そんなこと、聞いたことないからな。興味もないし」
「きょ、興味がない!? し…進藤の気持ちに?」
「だって、オレには関係ないだろう? アイツがオレをどう思っているかだなんて。
アイツが何をどう思っていようが、オレはアイツに惹かれている。
アイツが好きだ。それだけだ」
「………」
「……それに、もしかしたら」
僕が永夏のあまりの発言に呆然としていると、永夏は少しだけ声のトーンを落として続けた。
表情はほとんど動いてはおらず、視線は相変わらずどこか遠いところを見つめているままだった。
「もしかしたら、オレはアイツに利用されているだけかもしれないしな」
「え……」
「時折感じるんだ。アイツこそ、オレの気持ちなんてどうだっていいんじゃないかってな」
「……進藤…が?」
「アイツ、何のために韓国まで一人で来たと思う? きっと何か目的があったんだろう。
それは恐らく『オレに会うため』とかじゃない。多分アイツは『オレと打つため』
に来たんだ」
「永夏と…打つために」
永夏は一切表情を変えず、進藤の気持ちを淡々と語った。
僕は、瞬きをするのも忘れて永夏をジッと見つめた。
「……ああ、おまえに聞こうと思っていたことがあるんだ」
「え?」
「オレがアイツの名前を呼ぶと、アイツはいつも『オナジコエ』と言うんだ。
どういう意味なんだ?」
「『オナジコエ』……同じ……声?」
「同じ声?」
「多分……そうだと思う。
永夏の声が、進藤の知り合いの誰かとすごく似てるんじゃないかな」
「知り合い……ナルホドな。ヒカルはオレの中にソイツを見ている訳だ」
「えっ?」
永夏は全ての合点がいったのか、大きく息をつくと組んでいた足を崩した。
そして、フッと笑みを浮かべた。
「恐らく、そのオレと同じ声をしている人間というのは、
ヒカルにとってかなり近しい人間だったのだろう。
いつもアイツは、オレがアイツの名前を呼ぶ声を聞いて涙を流すんだ」
「……それって……つまり…
今は進藤は……その永夏と声の似ている人とは一緒にいないということで…。
それで……永夏を代わりに……?」
「そうかもしれないな。
どのみちヒカルはオレを利用している。そのためにオレに近づいたのかもしれない」
「……っ! そんなのって……!! 進藤はそんなヤツじゃ……!!
大体永夏はそれでいいの!?」
「興奮するな、秀英。まだまだガキだな、お前は」
「なっ…!」
顔を赤らめて興奮する僕を見て、永夏は涼しげな顔をして笑った。
そして立ち上がりかけた僕を制して、再び椅子に座らせる。
永夏は再び足を組み直すと、涼しげな目元のまま続けた。
「言ったろ? オレはアイツの気持ちになんか興味はないって。
アイツはオレを利用している間、オレの傍にいる。
その時のアイツは、心も身体もすべてオレのものだ」
「………」
「もちろん、アイツの『碁』もな。オレはそれでいい」
永夏そう言いながら自嘲気味に笑い、再び茶に口をつけた。
「この茶、まずいな」と永夏が文句をもらしたその時、今回の取材の担当者が部屋に汗を拭きながら入ってきた。
担当者は「待たせてしまって申し訳なかったねえ」と言いながら、先程とと変わらぬ無表情で質問に答える永夏の前で些か縮こまっていた。
僕は、その時何を聞かれて何を答えたのか、何も覚えていない。
ただただ、永夏と進藤のことが頭の中をグルグルと回っているだけだった。
永夏は、『進藤の気持ちになんて興味ない』って言ってたけど、あれは嘘だと思う。
だって、僕はあんなに楽しそうに笑う永夏を初めて見たんだよ?
あんな表情をするのは、本当に好きな人の前だけに決まっているじゃないか。
永夏はきっと、ここまで人を好きなったのが初めてだから、よくわかっていないだけなんだと思う。
永夏。
好きな人の気持ちが気にならない訳ないよ。
だって。
だって永夏は進藤のことを話す時、いつもどこか遠くを見つめている目をしている。
もしかしてその永夏の見つめている先に、進藤はいるのかもしれない。
永夏はきっと、そこにある進藤の気持ちを手に入れたくて、でもどうしたらいいのかわからなくて。
それで、遠くから見つめているだけなのだろう。
永夏。
進藤の気持ちはどこにあるんだろうね。
僕も、知りたい。
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