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09-1.8_1
永夏より一足先に仕事の終わった僕は、家へと戻った。
今日は早く終わった方だが、時計はすでに夜の22時を指していた。
永夏はまだこの後、来週行われるイベントの打ち合わせがあるとか言っていた。
さすがに今日は僕の家──進藤に会いには来られないかもしれない。
そう思った時、また安堵の息が無意識に漏れた。
その息に気が付いた時、ふと昼間の永夏の言葉が頭に蘇る。
『アイツが何をどう思っていようが、オレはアイツに惹かれている。
アイツが好きだ。それだけだ』
階段を上っている途中で思わず立ち止まり、勢いよく頭を振った。
永夏の言葉を追い出すように。僕のこの気持ちを追い出すように。
こんなモヤモヤとした気持ちはすべて出ていってしまえばいい。
こんな気持ちは。
僕は進藤が好きだ。
──それはおそらく「恋」の対象として。
僕は、永夏のことも好きだ。
──それはあくまでも「友達」として。大切な「ライバル」として。
そして永夏は進藤が好きだ。
僕が好きな永夏は、僕の好きな進藤のことが好きなのだ。
──それは「恋」の対象として。
僕はずっと祈っていた。永夏に素敵な人が現れますようにって。
そして永夏が、本気で誰かを愛することが出来るようになりますようにって。
その相手が僕の好きになった人だった。
それだけのことだ。
言葉にすればこんなに簡単なことなのに、気持ちはそうはいかない。
階段を上りきって、二階に辿り着く。僕の部屋の前に立つ。
ここを開ければ、進藤がいる。
僕の好きな進藤がいる。
それはとても嬉しいこと。
永夏の好きな進藤がいる。
それはとても苦しいこと。
「人を好きなる気持ち」というのは、どうしてこうも厄介なのだろう。
棋譜よりもずっと複雑で厄介だ。
永夏、そう思わない?
また前みたいに、永夏にそう聞けたらいいのにね。
ねえ、永夏。
そんなことを考えながらドアノブに手を伸ばそうとした時、僕の頭の中で巡り巡っていた「気持ちの回路」がある一点に再び辿り着く。
昼間永夏に尋ねた時には「さあな」「興味がない」とかわされてしまった、あのことに。
僕は進藤が好き。
永夏は進藤が好き。
では。
「進藤は誰のことが好きなの?」
+++++
部屋に入ると、進藤は朝と変わらず棋譜並べを続けていた。
そして、彼の周りを取り囲むようにして何枚もの白い紙が並べられている。
僕はその中の一枚を手にとる。
日本語で殴り書きのように書かれたそれは、棋譜。
今朝からずっと、進藤が書き続けている棋譜。
今も進藤は部屋の中央で、碁盤の前に座り一心に棋譜を書き続けていた。
僕や永夏は、日中は仕事でほとんど家にいることはない。
せっかく進藤が訪ねてきているというのに、時間を取ることは難しかった。
進藤を韓国棋院に連れて行ってしまえば、彼のプライベートなはずの旅行が公になってしまう。
だから僕らがいない間は、進藤は街の碁会所へ行くか、僕の家でジッと棋譜並べをしているか──それぐらいしかすることがなかった。
わざわざ韓国まで来てくれたのに申し訳ないなと思った僕は、なるべく進藤が退屈しないようにと、選りすぐりの韓国の棋譜を何枚か進藤に渡した。
すると進藤は、初めて見る韓国の棋士の棋譜が酷く興味深かったのか、韓国に来てからの進藤のほとんどの時間はこの棋譜並べと検討に費やされていた。
進藤の棋譜並べと検討は、ただ並べるだけではない。
並べ終えた後に、そこから新たな一手を、より良い一手を見つけるまで、その棋譜の検討は続く。
そして、何枚も何枚も棋譜を書き続けるのだ。
今も、僕がノックをして部屋の中に入っても進藤はまるで気づかずに石を並べ、棋譜を書き続けている。
「……進藤」
「あ……お帰り。ごめん、気付かなかった」
「この前の棋聖戦か」
進藤の書いた棋譜を見て僕はそう呟くと、進藤は嬉しそうな顔をして頷いた。
僕は先程辿り着いた考えが気になって仕方がなく、とてもじゃないが進藤の顔を見ることは出来なかった。
進藤はそんな僕には気付かず、盤の対面側に座った僕に嬉しそうに「この棋譜はこの一手が凄くて…」と話し出した。
進藤の高くて柔らかい声が、頭の中を通過していく。
かわりに昼間の永夏の言葉が脳裏に蘇ってゆく。
『もしかしたら、オレはアイツに利用されているだけかもしれないしな』
『アイツ、何のために韓国まで一人で来たと思う? きっと何か目的があったんだろう』
『言ったろ? オレはアイツの気持ちになんか興味はないって』
興味がないだなんて。
そんなの嘘だよ、永夏。
永夏は今まで誰かを真剣に好きになったことがないから、だから自分の本当の気持ちに気が付いていないだけだ。
僕は、僕は知りたい。
僕は進藤を知りたい。
再び先程の、ドアの前で浮かんだ考えに思考が飛んでいく。
『僕は進藤が好き』
『永夏は進藤が好き』
『では、進藤は誰のことが好きなの?』
僕は進藤が知りたい。
「それでね、この131手目の右上の連絡が……」
「ねえ、進藤」
「うん?」
僕の隣に座っていた進藤は、僕の声に引っ張られるようにして、盤面から顔を上げる。
大きな瞳で、小首を傾げて僕の次の言葉を待っていた。
進藤。進藤。進藤。
僕はお前のことが知りたいんだよ。
僕は。
「……この棋聖戦…黒は現・棋聖の崔哲瀚六段のものだ。白は誰か……わかる?」
「白?」
「うん」
僕がそう尋ねると、進藤は盤面をもう一度見て、酷く優しい笑顔をニコリと浮かべてその名を呟いた。
「白、これ、永夏だろ」
「………」
「これは、すぐわかるよ。ココの左下の鋭い切り込みとか。
すごく冷静で、刀で斬ったみたいな、鋭い一手。
……でも届かなかった。黒が少しだけ厚かったね。でもいい碁だ。すごく永夏らしいよ」
進藤はとても楽しそうにそう語ると、盤面の最後の一手となった永夏の白石を愛おしそうに細い指で撫でた。
僕がジッと進藤の表情を見つめていることに気が付いたのか、進藤はふと盤面から顔を上げて、再び小首を傾げて僕を見つめた。
「? なに?」
「進藤は、永夏のことが好き?」
「え?」
「今の、この永夏の一手を話す時……進藤は、とても楽しそうだった。
そうだな、まるで好きな人のことを話すような表情だった。
だからそう思ったんだ。進藤は永夏のことが好きなのかなって」
「………」
「今日、永夏にも同じことを聞いた」
僕がそう言うと、今までキョトンとした表情だった進藤は、目を大きく見開いて僕を見つめた。
僕は、酷く静かに冷静に話しているようで、本当は心の中で自分自身にとても驚いていた。
こんなにも唐突に、しかもいきなり核心をつくような質問をするつもりなどなかったのだ。
棋譜の会話から、徐々に永夏の話に持っていこうとしていたのに。でも口を開いて出てきた言葉はあまりにも直線的すぎる言葉だった。
……どうやら僕の気持ちは、今にも破裂しそうな風船のようになっていたらしい。
そして今、進藤の前でみっともなく破裂してしまったのだ。
もう僕に、そうなってしまった僕自身を止めることは出来なかった。
「永夏は、すぐに答えたよ。『進藤のことが好きだ』って。
だから進藤はどう思っているのかなって」
「………」
「だって仕事でもないのに、わざわざ韓国まで来るなんて。
きっと進藤も永夏のことがすごく好きなのか」
「………」
「それとも、何か目的があったのか」
僕が酷く静かな声でそう言うと、進藤はビクリと大きく体を揺らした。
そして今までジッと僕を見つめていた瞳を反らし、暗い表情で俯いている。
そんな。
そんな、そんな、進藤。
永夏の言うことは本当だったの? 進藤。
『どのみちヒカルはオレを利用している。そのためにオレに近づいたのかもしれない』
永夏の声が、頭に響いていく。
進藤、お願いだ。嘘だと言ってくれ。
進藤。
そうじゃないと、必死になって諦めようとしている僕のお前へのこの気持ちは、どこへ行ってしまう?
進藤。
「オレの」
俯いていた進藤から、酷く掠れた低い声が漏れた。
その表情は、長い前髪に隠されてよく見ることが出来なかった。
「オレの目的は……
オレの目的は、神の一手を極めて、『あの世界』にいるアイツに会いにいくこと」
「……神の一手…? 『あの世界』……?」
「そして、アイツに会って、やらなければならないことがあるんだ」
「………」
「でも、『あの世界』に行くには…神の一手を極めなければならなくて……
今のままじゃ、絶対に極められない。
強いヤツと打たなければ神の一手は極められない」
「………」
「そんな時、永夏と会った。──永夏は強い。永夏と打てば、神の一手を打てるかもしれない。
だからオレは」
俯いていた進藤は、静かに顔を上げた。
その表情は今まで見たどの進藤よりも、静かで。そして酷く美しかった。
まるで、神が降りてきて進藤に取り憑いてしまったかのように──
進藤は、静かな表情のまま言葉を続けた。
「だからオレは永夏に近づいたんだ」
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