09-1.9_1






翌日、朝早く永夏から電話がかかってきた。
「今日は久しぶりのオフだから、1日中ヒカルと打つことが出来る」というものだった。
電話の向こう側の永夏の声は、明るく弾んでいた。
永夏は今日という日を本当に楽しみに待っていたようだった。
まるで子供みたいだ、と僕は思った。

あの高永夏が。
本当に、無邪気な子供のように声を弾ませて──。





起きてきた進藤にそう告げると、進藤は少しだけ嬉しそうな顔をしたが、表情は暗いままだった。
目元も少し腫れていた。
僕が昨日、泣かせてしまったから。

僕が昨日言ったことのせいか、進藤は永夏と打てるというのにそれ程嬉しそうではなかった。
元気のない進藤が心配になった僕は「無理して行くことはないよ」と告げた。
すると進藤は首をフルフルと横に振り、「大丈夫」と小さな声で答え、永夏の家へと向かった。

進藤が出ていった後、僕は酷くやるせない気持ちに襲われた。
あれ程永夏と進藤の幸せを願っていたはずなのに、結局そこへ水を差してしまったのは僕自身じゃないか。
理由はどうあれ、多少なりとも永夏に対して向いていた進藤の気持ちを僕は確実に削いでしまったのだ。




永夏。進藤。

ごめんね。





でも進藤。
お前の言うその永夏と打つことによって遂げられる『目的』。
そして『少ない時間』で『神の一手』を打たなければならない、ということ。

僕には、よくわからない。
お前の『目的』が、お前の全てが今もまだよくわかることが出来ないよ。

でも、昨日お前の話を聞いて、一つだけ分かったことがある。
それは、僕が知りたかったお前の気持ちの在処。
お前の『本当の気持ち』の在処。

僕は、お前の『本当の気持ち』は、きっとその『目的』の後ろに隠れているんじゃないかと思っている。
お前自身も気付いていない、お前の『本当の気持ちが』が。

早くお前がそれに気付くといいな。
そうしたら、お前も永夏も傷つかないで済むんじゃないのかな。






ねえ、進藤。






そんな思いを抱えながら、進藤を見送った後に僕も仕事へと出かけた。







そして。
結局その日、進藤は帰っては来なかった。
















その翌日オフだった僕は、帰らぬ進藤を想って眠れぬ夜を過ごし、漸くウトウトとしてきた早朝に、永夏に電話で起こされるのだ。

「秀英! ヒカルが酷い熱なんだ。すぐに来てくれ!!」











永夏。
人を好きになることは、囲碁を打つことは、傷つけあうことではないのにね。












+++++







電話を受けた僕は慌てて永夏の家へと向かい、永夏と二人で進藤を病院へと連れて行った。
永夏の胸に抱かれ、熱く苦しそうな息を吐き続ける進藤は、いつもよりもさらに酷く細く小さく見えた。
僕や永夏が「進藤!」と呼び掛けても返事をせず、まるでこのまま永夏の胸の上で溶けて消えてしまうのではないかと思う程に。


診察室に進藤が運び込まれた後、僕と永夏は病院の廊下で一言も言葉を交わさないまま診察が終わるのを待ち続けていた。
僕は、隣に座る永夏の顔をそっと見上げた。
永夏は、閉められた診察室のドアをジッと見つめるようにして座っていた。



永夏、目が真っ赤だ。
寝てないんだな。




昨日の晩、一体何があったのだろう。

進藤は結局僕の家には帰って来なかった。永夏の家で一晩明かしたのだ。
永夏の家は、両親は共働きでほとんど家にはいない。
お姉さんも今では成人して家を出ていってしまった。
だから、現在の永夏はほとんど一人暮らしの状態だといっていい。
昨日の晩もおそらく二人きりで、だからこそ永夏は進藤を僕の家に帰さなかったのだろう。

そしてそこで、進藤が突然体調を崩してしまう何かがあったのかもしれない。


一体何が──





「目が赤いぞ」
「え」
「寝ていないのか?」

悶々と黙っていた僕の気配を察したのか、永夏はいつもと変わらぬ静かな口調で僕に話しかけた。


「……よ、永夏こそ」
「今日も無駄にいい天気だな」

永夏は眩しそうに、窓の外へ目をやった。
僕もその視線につられるようにして、同じく窓の外を見る。
真夏の明るい太陽が、燦々と外を照りつけていた。
五月蠅い程、ミンミンと蝉が大合唱を毎日繰り返している。
今年の夏は記録的な猛暑だという。病院は暑さに倒れた人が運び込まれていて、いつもより混雑していた。
廊下の奥にあるロビーに設置されているテレビが、連日のアテネオリンピックの速報を興奮気味に流している。

そういえばオリンピック、1日も観ていないな。
すっかり忘れていた。
あれ程楽しみにしていたのに。

だって、それどころじゃなかったんだ。
嵐のようにやってきた進藤のせいで。
いつもアイツはそうだ。嵐のように突然僕の心の中をかき乱しておいて、そしてそのまま去っていってしまう。


そして今も、僕たちの元を去ろうと──




















「進藤さん」





看護士の声で、僕は我に返る。

暑さのせいか? 
僕は今、何を考えていた?

僕は──




「進藤さんのお連れの方、いらっしゃいませんか?」
「あ、僕です」
「彼は日本人ですね。あなたは彼の親類の方?」
「いえ、友人です」
「彼の身分を証明出来る物、お持ちですか?」
「ああ、ええと…」

僕が進藤のパスポートを差し出すと、看護士はそれを確認して僕に診察室に入るように促した。
僕が振り返って永夏の方を見ると、永夏は早く行け、というジェスチャーをした。
パタン、とそのまま診察室の扉が閉められる。ドアの隙間から、今まで見たことのない程の永夏の不安そうな瞳が見えた。


「ええと、進藤さんですね」
「は、はい」

医師の声に、僕は慌てて診察室の中の方へと向き直る。
消毒液の匂いがツンと鼻を突く白い診察室は、ドアの外の世界から完全に切り取られてしまっているように見えた。
白い診察室の中で白い白衣を着た医師は、僕に椅子に座るように促した。
僕は、その白い世界になんとなく落ち着くことが出来なくて、ソワソワとしたまま椅子に浅く腰掛けた。
医師はカルテに何かを書き込んでいる。
僕はとても黙っていることが出来なくて、医師に話しかけた。

「あの…」
「進藤さんなら、今あちらの部屋で休んでますよ。
 点滴を打ちましたので…あと2時間くらいこのまま休んでいただいて。
 そうしたら、帰って結構ですよ」
「あ……」
「じきに熱も下がるでしょう」

医師の淡々とした言葉を聞いた後、僕は酷く深い息が漏れた。
今まで身体中に張りつめていた空気が、一気に抜けていってしまったようだった。




──……良かった。




進藤、本当に良かった……。
きっと慣れない環境で疲れが出たのだろう。本当に良かった。

つい先程、酷く不吉なことを一瞬でも考えてしまったせいか、本当に心の底から安堵の息が漏れた。
そうして僕が再び大きく息を吐いた時、医師が静かな口調で口を開いた。

「彼は何か病歴があるのですか?」
「……は?」
「それか、韓国に来る前に…例えば体調を崩していたとか。
 精神的に何か酷く辛いことがあったとか」

医師は先程と同じく淡々とした口調で、カルテを捲りながら喋り続けた。
そして捲る手を止め、僕の方を静かに見据えてもう一度口を開いた。








「身体が酷く衰弱している。
 出来れば早く日本に帰って、日本の病院で治療を受けたほうがいい」










+++++






診察室を出ると、永夏は立ち上がって僕を見つめた。
その目は、僕が診察室に入る前と同じ、酷く不安に揺れた目だった。
僕がそのままゆっくり永夏の前まで行くと、永夏はたまらずといった感じで僕に声をかけた。

「ヒカルは!?」
「………」
「大丈夫なのか? 秀英!」

口が開かない。声が上手く出ない。
何て答えればいいのだろう。
進藤。進藤は。


「……今、点滴を受けてるって。あと2時間くらいかかるって…」
「大丈夫なのか?」
「熱はじきに下がるでしょう、って」
「……そう、か」

永夏は静かな声でそう言うと、ドカリと音を立てて廊下のソファーに腰を下ろした。
そして、先程の診察室での僕と同じように、酷く深い息を吐いた。
そんな永夏を見ながら、僕は頭の中で先程の医師の言葉を繰り返していた。






『精神的に何か酷く辛いことがあったとか』






進藤が……?

そういえば、進藤はこの前の北斗杯の時にも体調を崩していたようだった。
その時にも何かあったのだろうか。

その時に……







『……その永夏と打ったその日に、オレは永夏と関係を持った』








今度は進藤の言葉を思い出す。
あれは、北斗杯の時のことだ。
永夏とのことが何か関係しているのか?

永夏と何かあったのか?








『オレの目的は、神の一手を極めて、『あの世界』にいるアイツに会いにいくこと』
『だからオレは永夏に近づいたんだ』








進藤の『目的』。
『目的』を果たすために永夏に近づいた進藤。

やはり昨日の晩、永夏の家で永夏と何かあったんじゃないのか──?






「秀英」
「え」

思考と記憶の中に深く潜っていた僕は、永夏に声をかけられて慌てて意識を現在へと取り戻す。
永夏は立ち上がり、病院の廊下をキョロキョロと見渡していた。

「ヒカルの病室はどこだ?」
「……永夏」
「ヒカルに会いたい。ヒカルはどこだ」
「永夏」
「秀英、早く教えてくれ!」
「永夏!」

僕が突然大きな声で永夏の名を呼ぶと、永夏はピタリとその動きを止めた。
病院のシンとした廊下に、窓の外の蝉の声が響き渡る。
強い日差しが窓から入り込んで、僕と永夏の下に濃い影を落としていた。

「……先生が…進藤の身体はすごく衰弱しているって…。
 だから、日本に帰国すべきだと言っていた」
「………」
「……ねえ、永夏」

シンと静まりかえった病院の廊下に、僕の声は必要以上に低く響いた。
キラキラと光る夏の強い日差しの中、永夏は真っ直ぐに僕を見つめていた。


「昨日の晩、進藤と何かあったんじゃないのか?」
「………」
「永夏、答えてくれ」
「………」
「永夏」

僕が今までに呼んだことのないような強くて低い声で永夏の名を呼ぶと、永夏は俯いてフウと溜息をついた。
明るい日差しに、永夏の色素の薄い髪の毛がキラキラと輝いて見えた。
そのまましばらく俯いていた永夏は、顔を上げた。
その表情はこの前と同じくどこかを遠くを見つめていて、そして酷く小さな声で語り出した。


「……昨日、ヒカルは泣いていた」
「え?」
「オレがいつもと同じようにアイツの名前を呼んだ。すると、アイツは何かを言いながら涙を零して泣いた」
「……」
「アイツは泣いていたんだ」
「……」
「なのにオレは」


永夏の表情はいつもと変わらなかった。
いつも進藤を語る時と同じ表情──どこか遠くを見つめて。

そして、蝉の声の木霊する廊下で、静かな声で呟いた。









「オレは、泣いているヒカルを無理矢理抱いたんだ」