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09-1.9_2
「どうした、入れよ」
「え? あ、うん」
初めてオレの家にやって来たヒカルは、しばらく玄関で立ち尽くし、どこか落ち着かずにキョロキョロとしていた。
オレのかけた声で漸く家に上がり、そのまま居間の入り口まで来るとやはりキョロキョロと部屋の中を見渡していた。
「なんだ、韓国の家が珍しいのか?
普通のマンションだ、日本と変わらないだろう」
「………?」
「最も、秀英の家と比べられたら元も子もないがな。ハハ」
「え? 秀英?」
ヒカルは見当はずれな返事をすると、小首を傾げてオレを見つめた。
そうか。今オレが喋った言葉で聞き取れたのは、秀英の名前だけだということだな。
ヒカルとは何度か二人きりになったことはあったが、こんな風に長い間二人きりになったことはほとんどない。
何故なら、オレ達は言葉が通じないからだ。
だからオレ達の間にはいつも秀英がいて、アイツがオレとヒカルの間の会話を成立させてくれていたのだ。
とはいえ、だからといって秀英を年がら年中傍に置いておくわけにはいかない。
そもそも今日だって、秀英には悪いがヒカルと二人になるためにオレの家に呼んだのだ。
今日は久しぶりのオフだ。学校も夏休み中で、今はない。
ヒカルや秀英には決して言えないが、オレが今日という日をどれだけ心待ちにしていたか。
心ゆくまでヒカルと打てるんだ。胸が躍らない訳がない。
「ねえ、永夏の家は誰もいないの?
お父さんやお母さんは?」
部屋の中をキョロキョロとしていたヒカルが、何やら日本語で話しかけてきた。
だが、オレは日本語がわからない。ヒカルが何を言っているのか全くわからなかった。
オレが「わからない」という仕草をすると、ヒカルは困った顔をして「えーと」と言いながらオレのわかる言葉を必死に探そうとしていた。
見かねたオレは、オレも進藤の分かりそうな言葉を探す。
「えーと、なんて言えばいいのかなあ…」
「お前、英語は分からないのか? English」
「イ、イングリッシュ〜!?
え、えーと…お父さんとお母さんだから……
パパとママって言うのかなあ…」
「パパとママ? ……ああ、両親のことか?
ああ、それでさっきからキョロキョロしていたのか。
安心しろ。今日は誰もいないし、帰ってこない」
「?? ……通じたのかよくわかんねーけど、とにかく留守みたいだな」
ヒカルはまた日本語で何やらを喋ると、「オーケー」と言って笑った。
……やはり言葉がわからないというのは不便なものだな。
秀英の言うとおり少しは日本語を勉強しておくべきだったろうか。
だがオレ達はお喋りをするためにここにいるのではないだろう? ヒカル。
オレが碁盤と碁石を持ってくると、どこか落ち着かなかったヒカルの顔はパアっと明るくなった。
そう。オレ達が解り合うには、言葉なんて必要ない。
この黒と白の石さえあれば十分なのだ。
お互い盤を挟んで座り、オレが白、ヒカルが黒を持つ。
いつもどこか幼い顔が、途端に研ぎ澄まされた美しい顔になる。
ヒカル。
オレはお前のその石を持つ姿の美しさに、心惹かれたのかもしれないな。
そのままオレ達は何局か続けて打った。
二人で打ち続けていると時間が過ぎるのはあっという間で、いつの間にか日が暮れて、窓の外には夜の闇が広がっていた。
途中でそれに気が付いたヒカルが、慌てて「帰る」というような仕草をしたが、オレは通じない言葉を駆使してなんとかヒカルを止まらせた。
帰してたまるか。元々今日はそのつもりで呼んだのだ。
ヒカルは少し落ち着かないような仕草を見せていたが、出前で頼んだ夕飯を食べさせると落ち着いたようだった。
それからさらに時間が過ぎ──あれは、何局目だったろうか。
ふと、ヒカルが手を止めて部屋の奥を見るような仕草をした。
「? どうした」
「……今気が付いた。何か、曲が流れてる」
「?」
ヒカルは盤の前から立ち上がると、部屋の奥へと進み寝室にあるオーディオのスピーカーを指さした。
ああ、今流れている曲のことを聞いているのだろうか。
「バッハだな。『G線上のアリア』」
「……バッハ?」
「『Air』だ。オレの一番好きな曲だ」
「エアー…」
そう言って呟いたヒカルに、オレはCDケースを渡した。
そして、今流れている曲の部分を指さして教える。英語表記だから読めるはずだ。
「……いい曲」
「気に入ったなら貸してやろうか」
オーディオからCDを出してヒカルに渡すと、ヒカルはフワリと微笑んで「ありがとう」と言った。
そのヒカルの、今にも消えてしまいそうな笑顔を見た時に。
オレは自分の奥にある何かが、音を立てて切れてしまうのを感じた。
居間へ戻ろうとしたヒカルの腕を後ろから強く引いて、オレの後ろにあったベッドへと引き倒す。
小さなヒカルの身体は、あまりにも簡単にベッドの上へと倒れ込んだ。
突然のことに驚いたらしいヒカルは、声も出さずに目をパチパチとさせて下からオレを見上げた。
オレは出来る限り優しく、そっとヒカルの頬に触れた。
白くて柔らかいヒカルの頬は、確かな温もりを持ってそこにあった。
その温もりを確認したオレは、ホウッと安堵の息をついた。
「……良かった」
「? なに?」
「さっきのお前の笑顔を見た時……何故だかお前がそのまま消えてしまうような気がしたんだ。
まるで、幻のように。だからお前の温もりを確認したかった」
「……?」
「そう……まるでこの曲の……『Air』のように。
空気のように溶けて消えてしまうのではないかと思った」
そう言ってオレが再びヒカルの頬に触れると、ヒカルは気持ちよさそうに目を閉じた。
長い睫が、ヒカルの白い頬に影を落とす。
その影を追ってヒカルの瞼にそっと触れた時、オレはあることに気が付いた。
「……腫れてるな。泣いたのか?」
「え?」
オレの声に、ヒカルは再び目を開ける。
そして目の下をそっと撫でるオレの仕草に察したのか、「ああ」という表情をした。
「あ、腫れてる? もう大分引いたと思ったんだけど…」
「……秀英とケンカでもしたか。そういえば、今朝電話した時も少し不機嫌そうだったな」
「……秀英? ……」
秀英の名を口にした後、ヒカルは目線を落とした。どうやら落ち込んでいるようだ。
図星か。
ウチに来た時からどこか元気がなかったのは、そのせいか。
秀英のヤツめ。一体何を言ったのだろうか。
……もしかしたら。
「もしかして、秀英に迫られてフッたとか? ハハハ。
アイツ、お前のことを好きだからな」
「???」
オレがからかうような口調でヒカルに話しかけると、ヒカルは小首を傾げてオレを見上げた。
ヒカルが分からないと知りながら、オレは言葉を続ける。
「アイツの初恋はお前なんだぜ。多分アイツ自身にも自覚はないと思うけどな。
お前のためだけに日本語を覚えるなんて並大抵のことじゃない。
よっぽど初めて会った時のお前が印象的だったのかな」
「???」
「秀英だけじゃない。いつの間にか、このオレですらこのザマだ。
誰にも興味なんて湧かなかったこのオレが」
──そう、誰にも興味を持てなかったこのオレが。
いつの間にか、いつもお前のことを考えてお前の動向や気持ちばかりを気にしている。
秀英には「ヒカルの気持ちになんて興味がない」と言ったけど、どうやらそれは嘘だったらしい。
今日こうして改めてお前に触れてみて、オレは初めて自分の気持ちを自覚したのだ。
このオレが、他人に対してこんな気持ちを抱くなんて──。
何もかもが初めてで、どうしたらいいのかわからない。
ただ一つ分かるのは、オレはお前が好きで、お前の気持ちも何もかも手に入れたいということ。
お前の何もかもを。
「……──本当に不思議なヤツだな。お前は」
オレが静かな声でそう呟いて顔を近づけると、ヒカルは再び静かに瞼を閉じた。
オレはそのまま顔を下ろし、ヒカルに口づける。
柔らかい唇。
確かにここある、温もり。
お前の何もかもを手に入れたい。
お前の気持ちも、身体も、温もりも。そしてお前の打つ囲碁も。
何もかも。
誰にも渡したくない。
渡してたまるか。
そのままオレは、深く激しく唇を重ねた。
ヒカルは最初は僅かに抵抗したが、すぐにおとなしくなった。
お互いの息の漏れる音が部屋に響く。
そのうち、息と共に湿った音が同じように響きだした。
ヒカル。ヒカル。
オレはお前の全てを欲しいんだ。
ヒカル……──お前は?
お前もオレを見てくれ。
ヒカル。
そのままオレはヒカルの服を脱がし、その細い身体を探った。
ガリガリの、子供のような小さな身体。
この細い身体のどこにあんな囲碁の力を秘めているのだろうか。
やはり本当にコイツの身体の中には本因坊秀策が取り憑いているのかもしれない。
……ハハハ。オレも相当キてるな。
そのままオレは深く深くヒカルの身体を探った。
そのまま中へと入り込む。
白い細い身体は反らされ、小さな口からは艶めいた声が響きだした。
再び瞼が閉じられて、長い睫が堪えきれなかったかのように震えて涙を零す。
一度零れてしまった涙は、とめどもなく流れ続けた。
ヒカル。ヒカル。
オレは、その零れる涙でさえ欲しいと思う。
お前の全てが欲しいんだ。
どうか瞼を開けて、オレを見てくれ。
オレと『同じ声』のヤツではない、オレ自身を──。
「永夏……オレ……」
掠れた小さな声で、ヒカルがオレの名を呼ぶ。
どうか。
どうかお前の名を呼ぶオレの声に答えてくれ。
オレはそんな願いを込めて、耳元でそっとその愛しい名前を呼んだ。
「ヒカル」
『ヒカル』
『ヒカル』
『ずっと一緒にいましょうね』
「うわああああああっ!!」
オレの腕の下にいたヒカルは、突然空気を裂くような大声で叫ぶと、オレを渾身の力で突き飛ばしベッドの端まで這うように逃げた。
そして裸のまま、自分の身体を抱きしめるようにしてガタガタと大きく震えだした。
あまりの突然のヒカルの豹変に何が起こったのか分からないオレは、そっとヒカルの後ろまで行き、落ち着かせようと静かにその名を呼んだ。
「ヒカ……」
「呼ばないで!!」
オレがその名を呼びきる前に、再びヒカルは大声で叫ぶと一層大きくその小さな身体を震わせた。
ヒカルがなんという意味の言葉を言ったのかわからないが、おそらく何かしらの拒絶の意味が含まれているのだろう。
──……何故?
突然ヒカルの身に何が起きたのかオレにはさっぱりわからなかった。
何故だ。
つい先程までオレの腕の下に抱かれて涙を零していたというのに。一体何がいけなかったというのだ。
一体何が──
…………………名前?
そうだ。
オレが「ヒカル」と名前を呼んだ瞬間に、突然表情を変えて大声で叫んだ。
そして先程も、オレが名前を呼ぼうとした時にオレの声を遮り、拒絶と思われる言葉を叫んだ。
オレが「ヒカル」と名前を呼ぶことがいけないのか?
この名前の呼び方の何がいけないのだ。今までだってそう呼んできたじゃないか。
それが何故突然──……
そう思った瞬間、オレの頭の中にこの前の秀英とのやり取りがフラッシュバックのように蘇った。
『オレがアイツの名前を呼ぶと、アイツはいつも『オナジコエ』と言うんだ。
どういう意味なんだ?』
『『オナジコエ』……同じ……声?』
『同じ声?』
『多分……そうだと思う。
永夏の声が、進藤の知り合いの誰かとすごく似てるんじゃないかな』
『知り合い……ナルホドな。ヒカルはオレの中にソイツを見ている訳だ』
──もしかして、オレがお前の名前を呼んだ時に、その『同じ声』のヤツを見たのか?
オレではなく、ソイツを。
お前の目の前にいるオレではなく、お前の心の中に棲むソイツの姿を見たというのか。
そこまで考えが辿り着いた瞬間に、目の前が真っ赤に燃えたような気がした。
──そこからその後は、自分がどうしたのかあまりよく覚えていない。
だって、初めてのことだったのだ。
奥底から沸き上がる怒りのみで身体が突き動かされて、何も考えずに動いてしまうだなんてことは。
オレは、震えるヒカルの身体を力まかせに自分の下に再び引き倒した。
真っ青な顔のまま、ガタガタと震え続けているヒカルは大声を上げて再びオレの下から逃げ出そうとした。
逃がしてたまるものか。
そのまま力ずくでヒカルを押さえつけ、顔をこちらに向けさせる。
真っ青な小さな顔に、大きな瞳はボロボロと涙を零していた。
「何故泣く?」
「……永……」
「何故突然逃げ出した?」
「……永夏……ダメ……」
「何故だ」
「オレ……オレ……」
ヒカルは震えながら、細い喉の奥から声を絞り出すようにして何かを話し出した。
「オレ……オレ……
さっき、お前の姿が……アイツに見え……て……。遠い昔の……綺麗なままの……アイツの姿に。
綺麗な綺麗なアイツが……き…汚いオレの上に乗って……オ、オレのことを…突き上げて…。
……お前の声を聞いて…お前の姿を見て……お前の上にアイツを……重ねていたんだ」
「………」
「オレは……オレは『目的』を果たすために…お前に近づいたはずだった…
お前と……ひたすら打って……『神の一手』を極めるために……
なのに、いつのまにかオレは流されるようにして、こんな……
こんな風にお前と関係を持って……」
「………」
「それで……そんなお前の上にアイツを重ねて……」
「………」
「もしかして……もしかしてオレは、
お前のことをアイツの代わりにしようとしていたんじゃないかって」
「………」
「オレ…オレ…
秀英が……『目的のためにお前を傷つけるのは許さない』って……
なのに、オレ、オレ………オレ………
オレ、このままじゃお前を傷つけて……オレ……」
震えながら話すヒカルの瞳からは、とめどもなく涙が流れ続けていた。
あまりに泣きすぎたせいか、酷く呼吸が乱れ、時折ひきつけのようにビクビクと身体を震わせた。
オレは、日本語がわからない。
だから、今ヒカルが震えながら必死に訴えた言葉の全てをオレには理解することができなかった。
でも、いつだか秀英が言っていたか──
「言葉というのは、その場の雰囲気や言い方、相手の表情でおおよその意味は分かるものだ」と。
だから、オレには分かる。
今ヒカルが何を必死に訴えていたかも。
「ヒカル」
オレは出来る限り優しい声でヒカルの名を呼び、そっと頬を撫で涙を拭った。
「お前が、オレのお前を呼ぶ声に誰かを重ねて──
そしてオレの打つ碁に誰かを重ねていたことも、オレはとっくに知っているさ」
「……永…夏?」
「お前が何かしらの目的を持ってオレに近づき、オレを利用しようとしていることも」
「………」
「だから……」
「だから何だと言うんだ!?」
オレは大声でヒカルに向かってそう叫ぶと、先程まで頬を優しく撫でていた手で、ヒカルの細い手首を取りギリギリと力任せに握りしめた。
ヒカルは痛みで顔を歪め、再びオレの下で暴れ出す。
「永夏……! い、痛っ…離し……っ」
「何故今頃になってそんなことを言う?
オレは知っていたんだ。お前の気持ちがここにはないこと。
オレのことなど見ていないことに」
「永夏……!!」
「そうと分かっていても、オレはお前を好きになってしまうことを止めることは出来なかった。
そしてそれを自覚した途端、どうしてもお前自身を手に入れたくなった」
「永……っ!」
「お前の心も。身体も。気持ちも。──そして囲碁も。何もかも」
「離して……!!」
「でもお前はオレを見ようとはしない。オレの声の影に隠れているヤツだけを見続けている。
だったらオレはどうすればいい?
──オレは今まで他人にこんな気持ちを抱いたことなんてなかった。どうすればいいのかわからないんだ」
「………」
「わからないから、力ずくで手に入れるしかないんだ。
お前を」
「………」
「ヒカル」
涙を流したままのヒカルにオレは再び唇を深く重ねた。
決して逃れることなど出来ないような、深い深いキス。
そしてオレは再びヒカルの身体を探り、中へと入っていく。
ヒカルは先程の抵抗が嘘のように静かにオレを見つめ、受け止めていた。
ただ、その大きな瞳からは変わらず涙が流れ続けていた。
ヒカル。
オレはお前が好きなんだ。
でもオレは、今まで本気で人を好きになったことなどなかったから。
どうすればいいのかわからないんだ。
だからこうして、力にまかせてお前を手に入れようとしている。
そんなことをしても、決してお前の心は手に入らないと分かっているのに。
──滑稽だな。
囲碁では「隙のない計算されたスマートな碁」などとよく評されるオレが、人の気持ちを手に入れるために力ずくで何とかしようとしている。
愚の骨頂もいいところだ。
おかしな話だ。
囲碁も人を好きになることも。
決して傷つけあうことではないはずなのに。
どうしてオレは、お前を好きになればなる程お前を泣かせてばかりいるのだろう。
どうしてオレは、お前をこうして抱いていて傷ついているのだろう。
ヒカル。
頼む。泣かないでくれ。
お願いだから、泣かないで──
そのままオレは朝まで強引にヒカルを抱き続けた。
そんなオレの願いは届くはずもなく、ヒカルは意識を失うまで涙を流し続けていた。
ヒカル。
お前がただオレと打ちたかっただけだ、というのと同じように。
オレもただ、お前の涙を止めたいだけなのに。
どうして上手くいかないんだろうな。
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