09-1.9_3







「………」


「──それが、昨日の晩にあった事さ。
 ふと朝になって気付いたらヒカルは酷い熱を出していた。
 泣いているヒカルを無理矢理一晩中抱き続けたんだ。無理もない──…」






ガツッと大きな音が、静かな病院の廊下に響いた。
その直後にドサリと人が倒れる音が響く。

その瞬間だけ、五月蠅い程に木霊していた蝉の声がピタリと止んだ。



左手がジンジンと痛む。
腕がブルブルと震える。
訳もなく肩で息をしてしまう。

それはそうだ、16年間生きてきて人を殴ったのなんて初めてだったのだ。



しかも、僕が子供の頃から憧れて、そして一番の友達だと思っていた高永夏を──。







ピタリと鳴き止んでいた蝉の声が、再び廊下に響きだす。
肩で息をしながら廊下に立ち尽くす僕と、座ったまま切れた唇から流れる血を拭う永夏の下には真夏の濃い影が落ちていた。




暑いはずの夏なのに、永夏を殴った左腕がブルブルと震えて止まらない。

初めて人を──永夏を殴ってしまったことに対しての恐れなのか。
それとも、理由はどうあれ進藤を傷つけた永夏に対する怒りなのか。


自分のことのはずなのに、僕にはわからなかった。
あまりに震える左腕をおさえることが出来ず、永夏に喋りかけようとする口元もワナワナと震え、上手く声を発することが出来なかった。
そんな震える僕を余所に、殴られた永夏は何を言う訳でもなく、血の付いた口を拭うといつもと変わらぬ優雅な動きで立ち上がった。
パンパンと音を立てて服についた埃を払い、そして震える僕を静かに見つめ、僕よりも先に口を開いた。


「まさかお前に殴られる日が来るとはな」


永夏は自嘲的にそう言うと、切った口元を触りながらフッと笑った。
永夏のその言葉に、殴った方の僕がビクリと大きく震え、永夏を見つめた。
永夏は、遠い目をして明るい窓の外を見つめながら静かに呟いた。


「人を好きになるというのは──厄介なモンだな」
「………」
「こんなにも大変なことだとは思わなかった」


永夏は肩を竦めながらそう言うと、再び自嘲的に笑った。
そのまま永夏は腕時計を確認すると「そういえば今日は朝から取材とか言ってたな」
とボソリと呟いた。
すでに時計は午前11時を回っていた。

そのまま永夏は、呆然と廊下に立ち尽くす僕を残して、何も言わずにクルリと背を向けて歩き出した。
永夏の去っていく足音に、漸く僕は意識を取り戻して、慌てて永夏の名を呼んだ。

「よ……永夏!!」
「仕事に行く。どうせ遅刻だけど、行かなきゃな」

永夏は僕の方を見ずにそう呟き、再びカツカツと足音を立てて僕との距離をあけていった。











永夏。






永夏。永夏。永夏。永夏。永夏。











僕の一番の友達。
憧れの棋士。
唯一のライバル。


僕は、僕は。


僕は進藤が好きだ。




そして永夏は僕の大切な友達で、僕は永夏のことも大好きなんだ。








永夏。
傷ついたまま、僕の前からいなくならないで。












永夏。



























「永夏!!」








僕は、そのまま──心にも身体にも傷を負ったまま立ち去ろうとする永夏を大声で呼んだ。
すると永夏は漸く足を止め、僕の方へと静かに振り返った。
その永夏の顔を見た時、僕の震えていた口からスルリと言葉がこぼれ落ちた。







「人を好きになるということは、確かに厄介で大変なことだけど。
 でも、決して嫌なものではないよ。
 傷つくものでもない。傷つけることでもない。
 誰かを愛することは、とても楽しくて気持ちのいいことなんだよ!」

「………」

「永夏」






僕の言葉を静かな表情で聞いていた永夏は、10年来付き合ってきた僕でも見たことのない程の優しい笑顔を浮かべた。
そして。





「そうだといいな」







そう一言だけ静かに呟くと、永夏は再び前を向いて歩き出し進藤のいる病院を去っていった。
僕はただ、立ち去る永夏を黙って見送ることしか出来なかった。




永夏。
殴ったりしてごめんね。




永夏は僕の大切な友達だから。


僕の気持ちが少しでも通じているといいな。

























そう祈ることしか、僕には出来なかった。











+++++










「……──」

「進藤? ……気が付いた?」



永夏が病院を去って2時間ほどが経ち、まもなく進藤の点滴が終わろうとしていた頃──昏々と眠り続けていた進藤は、ようやく目を覚ました。
ゆっくりと開かれたその大きな瞳は僕の方を見つめてはいたが、どうやら焦点が合っていないのか、どこかボンヤリとしていた。
僕が「進藤」と再び名を呼んでも、起きたばかりのせいなのか、大分下がったとはいえ熱のせいなのか──進藤から答えは返ってこなかった。

無理もないか。

昨日ほとんど寝ていない上に、永夏とあんなことがあったのだ。
その上高熱まで出してしまった。
軽いショック状態にあっても、おかしくはない。

僕はフーッと大きく息をついた後に、新鮮な空気でも入れれば進藤の意識も戻ってくるかもしれないと思い、病室の窓を開けた。
真夏の蝉の声と共に、僅かだけ爽やかな風がサアッとカーテンを揺らし、病室の中へと入り込んだ。



──永夏、今頃どうしているかな。


きっといつもよりもさらに仏頂面になって、取材を受けているに違いない。
僕はそんな永夏の姿を頭の中で想像して、思わずクスリと笑ってしまった。

そうして、窓の側から進藤の寝ているベッドまで戻ると──横になっていたはずの進藤は起きあがりベッドの上に座っていた。
驚いた僕は、慌てて進藤へと再び声をかけた。

「進藤」
「………」
「大丈夫? まだ横になっていた方が」
「………」

ボンヤリと前を向いて座っていた進藤は、僕の声に今度は反応を示し、ゆっくりと僕の顔を見上げた。
すると、焦点の定まっていなかった瞳がみるみるうちに光を取り戻し、焦点と意識を取り戻していった。
そして、起き抜けと熱のせいでボンヤリとしていた表情は、僕の顔を確認すると同時に驚きの表情を示した。

「……秀英? オレ…?」
「大丈夫かい? ……覚えてないか。
 永夏の家で──その、酷い熱を出して。ビックリした永夏がお前を病院に連れてきたんだよ」

僕が永夏の名前を口に出すと、進藤の表情はやや悲痛を含んだものへと変わる。
そして、病室の中をキョロキョロと見渡した。

「永夏は? 永夏はどこ?」
「──さっきまでいたんだけどね。今日は仕事なんだ。
 とても進藤のことを心配していたよ」
「……そう」

進藤はフウと息をつくと、安心したような、がっかりしたような複雑な表情を見せて俯いた。
窓の外から入ってくる風が、進藤の色素の薄い髪の毛を揺らす。
でも進藤の俯いた暗い表情は、爽やかな風を受けても変わらなかった。

「……進藤」
「……うん?」
「日本に──日本に帰らないか?」

僕は進藤のベッドの横の椅子に腰を下ろし、出来る限り柔らかい声で俯いたままの進藤に話しかけた。
すると進藤はハッとした顔で僕を見上げ、表情を強ばらせた。

「な……なんで?
 オレ……やっぱり迷惑?」
「そうじゃない。……お医者さんに診察してもらってね」

僕がそこまで言うと、進藤はますます表情を硬くして、大きな瞳を震わせて僕を見つめていた。
心なしか顔色が、先程よりも悪くなっている気がする。

「……進藤? 大丈夫か? 顔色が」
「……お医者さん……何かオレのこと言ってた?」

そう僕に尋ねる進藤の声は僅かに震え、大きな瞳は先程よりもさらに大きく揺れていた。
何か不安なことでもあるのだろうか。それとも勝手に病院に連れてきたことを不快に思っているのか。

そう思った時、一瞬頭の中に先程の医師の言葉が蘇った。


『彼は何か病歴があるのですか?』

『それか、韓国に来る前に…例えば体調を崩していたとか』


でも、その時の僕はとにかく進藤の不安を抑えようと、急いで言葉を続けた。


「いや、大丈夫だよ。
 ただ、身体が疲れて弱っているようだ、って。
 一度日本に帰って、日本のお医者さんに診てもらった方がいいと思うんだ」
「………」
「それで、元気になったらまた──」
「……それじゃあ」
「え?」








「それじゃあ駄目なんだよ!!」










先程まで怯えるように震えて俯いていた進藤は、突然大きな声を上げると、今度は怒りに突き動かされるようにワナワナと大きく震えだした。
驚いた僕は、一体どうしたのかと思い、再び進藤を落ち着かせようと声を掛けた。


「進藤、どうしたんだよ。落ち着くんだ」
「だって、だってそれじゃあ駄目なんだよ!!」
「何が? 日本に帰ることか?」
「だって今日本に帰ったら、またずっと永夏と打てなくなる!
 そうしたら、オレの『目的』が果たせない!!」
「何も、もう韓国へ来るなと言っている訳じゃないんだ。
 身体がよくなったらまた永夏と──」
「それじゃあもう駄目なんだよ!! オレにはもう時間がないんだ!!」


進藤は再び大きな声でそう叫ぶと、大きな瞳をより一層震わせて、僕の腕に縋るようにしてしがみついた。
僕は、進藤がそのまま倒れ込まないように必死に支えた。

その身体は、骨張っていて酷く軽かった。


「……進藤」
「オレ……オレ、早くしないと…
 早く『目的』のために『神の一手』を極めて……
 そのためには永夏とたくさんたくさん打たないといけないんだ」
「………」
「それでアイツに会いにいって、やらなくちゃいけないことが……」
「進藤」


僕が声を硬くして進藤の名を呼ぶと、進藤は我に返ったようにハッと表情を変え、ビクリと身体を震わせた。
そして、僕の腕に縋ったまま恐る恐るといった感じで僕の顔を見上げた。
僕は進藤の震える瞳を見つめ、フウと一旦息をつくと進藤の細い肩を暖めるようにゆっくりとさすった。


「……進藤。
 進藤の言う『目的』を果たすために会いに行く『アイツ』って。
 もしかして、永夏と声の似ている人のこと…?」


僕が静かに進藤にそう尋ねると、進藤は俯いてビクリと身体を震わせた。
僕は進藤が萎縮してしまわないように、肩を優しくさすりながら言葉を続けた。


「一昨日も言ったけど……僕にはお前のその『目的』のすべてはわからないし、
 『神の一手』のために永夏に近づいたということも……
 正直、今の僕にはお前のすべてを理解することは出来ない」
「………」
「本当は、すべて教えて欲しいところだけど──
 お前が話したくないのなら無理には聞かないよ」


僕がそう言うと、進藤は俯いていた顔をあげて不安そうな瞳で僕を見つめた。
だが、先程よりは落ち着いてきている。
僕は進藤の不安がこれ以上広がらないように、慎重に言葉を続ける。

「でも、一つだけ聞きたいことがある」
「………?」
「進藤は、永夏のことを──
 永夏を、その『アイツ』という人の代わりにしようとしていたの?」
「………!!」

僕が静かにそう聞くと、進藤は表情を引きつったように強ばらせて、強くブンブンと頭を振った。
そして、その大きな瞳には涙がうっすらと溜まり始める。

「進藤。ごめん、落ち着いて。
 ごめん。酷いことを聞いてごめんね」

僕が静かに、出来るだけ優しくそう言うと、進藤は涙を浮かべたまま今度はゆるやかに頭を振った。

「……いいんだ。……オレ」
「うん?」
「オレ、確かに秀英の言うとおり、永夏をアイツの代わりにしようとしていたのかもしれない。
 それに気が付いた時、オレ、すごく怖くなって……」
「………」
「秀英が言ってた、『『目的』のために永夏を傷つけるのは許さない』って──
 オレは、それよりもさらに酷いことを永夏にしてしまうところだったんだ」
「………」
「そのことに気が付いて、オレ、永夏を突き飛ばして、逃げようとして、それで」
「進藤」
「それで」


昨晩のことを思い出したのか、進藤は自分を抱きしめるようにして小さく身体を丸めると、ガタガタと大きく震えだした。
僕は慌てて、進藤の気持ちが落ち着くように再び優しく身体をさする。
すると、進藤の瞳からポタリと音を立てて雫が零れ、白いシーツに丸い染みを作った。


「……進藤」
「ごめ……ごめんなさ……。……オレ……」
「進藤、永夏は昨日のことを酷く後悔していたよ。
 お前を傷つけてしまった、って」
「……ごめん……なさ……」
「進藤」


僕は座っていた椅子から降りて床に跪き、俯いて涙を零す進藤の顔を下から覗き込んだ。
そして震える小さな手を握って、もう一度優しく語りかけた。

僕の──今の僕のすべての想いが進藤につたわるように──祈りを込めて、ゆっくりと。





「進藤。泣かないで。僕の話を聞いてくれ。
 お前に一つだけ、知っておいて欲しいことがあるんだ」

「………」

「永夏は、今まで誰にも興味を持つことが出来なかったんだ。
 つまり、本気で誰かを好きになることが出来なかった。
 そんな永夏が初めて好きになった人が──お前なんだよ。
 進藤」

「………」

「永夏は、愛し方を知らないんだ。
 自分の気持ちを、どうお前に伝えたらいいのかわからなくて…。
 そして、お前の気持ちや考えをを受け止めることも──受け止め方すら、知らないんだ。
 だから、お前に…その、あんな酷いことをしてしまったんだと思う」

「………」

「永夏のしたことを許してくれとは言わない。
 でも永夏の気持ちだけは知っていて欲しかった」



僕はそこまで話すと、握っていた進藤の手を再び強く握り直した。

そして──僕は、僕の想いをお前に伝える。




「それと……僕の気持ちも……知っていて欲しい」

「………」

「お前がどんな事情があって、どんな『目的』で僕たちに近づいたのか分からない。
 でも、例え裏にどんな目的があったっていい。
 永夏はお前が好きだ。そして僕は……僕も……」

「………」

「──僕は、お前と永夏の作る棋譜が好きだ」

「………」

「それだけは、どうか忘れないでいてくれ」




僕がそこまで言うと、進藤の手を握る僕の手の上に、涙がポツリポツリと雨のように落ちた。
そして、それは止まることなく僕の手の上に降り注いでいく。
僕が「進藤」と声を掛けると、進藤の口から僅かに嗚咽が漏れ始めた。
小さな身体を大きく震わせて、進藤は僕の手の上に泣き崩れた。


進藤。



「進藤」

「……うっ……えっ……」





進藤、泣かないで。







「泣かないで」

「………う……ひっ……うう……」







進藤、僕はお前が好きだよ。









「進藤。……──また」

「ひっ……うええ……」







僕はお前が好きだよ。
















「また元気になったら、遊びにおいで」













「そして、一緒に囲碁を打とう」


















そのまま進藤は泣き崩れながら、「ごめん」と何度も繰り返していた。






僕は、僕の言葉を最後まで進藤が聞いてくれたこと。

そして、僕や永夏の気持ちを知ってくれたこと。




僕は、それだけで十分だった。









進藤、ありがとう。

好きになって、ごめんね。














人を好きになることは、傷つけあうことじゃない。

とても楽しいことなんだよ。







僕は楽しかったよ。





進藤。











ありがとう。































──その2日後。
熱も下がり、大分体調のよくなった進藤は、日本への帰路へとついた。
なんとか仕事を調整して時間を作った僕は、進藤を空港まで見送ることが出来た。

王位戦の挑戦手合いを控えていた永夏は、進藤を見送りには来なかった。
結局あの病院で別れた日以来、永夏は進藤の前に姿を見せようとはしなかった。
進藤はそのことを酷く気にしているようだったが、僕は「タイトル戦だから、色々と大変なんだよ」とだけ伝えた。
すると進藤は「ガンバレって言っておいて」と、少し寂しそうに言うと、久しぶりに笑顔を見せて飛行機に乗っていった。



進藤を乗せた飛行機が、大空へと飛び立っていく──。





進藤。
次に会うときは、もっともっとたくさん打てたらいいね。



そして、お前の抱えている哀しみが、少しでも楽になっているといいな。

僕や永夏が愛したお前には、幸せになって欲しいから──。













進藤。お前も頑張れよ。