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09-2.1
──2005年、春。
今から1年半程前のこと。
ヒカルが突然韓国に訪れ、そして突然去っていったあの夏から半年以上もの時が流れ、再び春が訪れていた。
春──日本で北斗杯が行われる季節。
今年も例年通り3回目となる北斗杯が開催されることになり、当然オレは韓国代表の大将に選出された。
そして、オレと同様に3年連続で代表に選ばれた洪秀英が副将。
三将は、まだ14歳になったばかりの若手、李(イ)が選ばれた。
──正直、オレは北斗杯のことなどどうだっていいのだ。
韓国が負けようが勝とうがオレの知ったことではない。(もちろんオレは勝つが)
オレの目的はただ一つ──ヒカルに会うことだった。
2004年の夏、あのソウル市内の病院で別れて以来、ヒカルとは会っていなかった。
会うどころか、電話やメールの連絡すら取っていない。
何故なら、オレはヒカルの連絡先など知らなかったからだ。
秀英なら知っているかもしれない。いや、知っているに違いない。
でも秀英に聞く気にはなれなかった。
悔しかったから。
あのヒカルが突然訪れてきた夏、オレはヒカルに酷いことをしてしまった。
ヒカルの想いをロクに聞かず、ただただ張りつめて弾けてしまったオレの想いを、あの小さな身体にぶつけてしまったのだ。
ヒカルが傷つくのを知っていて。
傷つけばいい、とすら思った。
だってそうすれば、ヒカルはオレのことを忘れられなくなるだろうから。
──今思い返してみても、醜悪だな。
その時、オレは生まれて初めて人から、それも秀英から拳で殴られた。
殴られて当然だ。むしろ、殴るだけでおさめた秀英は偉いと思う。オレが秀英の立場だったら、相手を殺していたかもしれない。
それ程までに、その時のオレは最悪だった。
余裕がなかったのだ。
生まれて初めて知る、「人を好きになるということ」。
自分の気持ちをどう扱ったらいいのか、全くわからなかったのだ。
オレは、その初めての気持ちをよく知り、よく考える必要があった。
今再び強引にヒカルに近づけば、同じ過ちを繰り返してしまうのは一目瞭然だった。
だからといって、秀英にその「人を好きになること」や「ヒカルの連絡先」などを聞くのもイヤだった。
秀英は、オレよりもずっとずっと大人だったから、悔しかったのだ。
秀英がヒカルを好きなことは、ずっと前から知っていた。
最初はそれをからかいつつも、いつか秀英の想いが成就すればいいと思っていた。
秀英はオレの初めての友達で、大切な大切な親友だったから。
だがオレは、その親友の想い人を好きになってしまった。
なんとかブレーキをかけようとしたが、止めることは出来なかった。
強い棋士を見つけたら、どうしてもソイツと打ちたくて堪らなくなる──。
たとえて言うのであれば、オレの中でのヒカルはそんな感情だった。
想いが暴走するのを止めることが出来ない。まるで麻薬のようだ。
このままではいけない。
オレは大切なヒカルも、そして秀英も傷つけてしまう。
それを分かっているのに止めることが出来なかった。
──それが、2004年の夏のオレ。
そこから時間をおき、ヒカルとも距離をおき、オレはじっくりと考えてみることにした。
ヒカルのこと。
秀英のこと。
そして、自分自身の気持ちのこと。
いくら考えても、秀英もオレもヒカルも幸せになれるであろう「最良の答え」は出てはこなかった。
秀英が言っていたこと──『人を愛することは、とても楽しくて気持ちのいいこと』。
オレは、どうしても自分の気持ちをそんな風に思うことは出来なかった。
ヒカルを想うことは、確かに楽しいことかもしれない。
だが、その想いを深くすればする程、秀英もヒカルも、そしてオレも傷つくのは目に見えていた。
『人を愛することは、とても楽しくて気持ちのいいこと』。
でもそれは、『決して消し去ることの出来ない痛みを伴うもの』──。
これがじっくりと考えたオレの結論だった。
バカだな、オレは。
そんなことを考えているうちに、季節はあっという間に春になっていた。
日本で北斗杯がある。
堂々とヒカルに会える唯一の機会だった。
だが、北斗杯でのオレの行動は酷く限られている。
大会中は会場のホテルを出ることは出来ないし、ましてや相手国と話すことも難しい状況だった。
特にオレは大将だなんて面倒なポジションにいる。
ヒカルに会えたところで、大して会話も出来ないであろうことは容易に想像がついた。
念願のヒカルとの対局も実現されるとは限らない。
塔矢が同じ日本代表である限り、ヒカルが大将になる可能性は限りなく低いだろう。
第1回の時のような奇跡は、2度は起こらない。
ヒカルに会う機会は、自分から作らなければ起こらない。
ならば、オレが出来ることはただ一つ。
オレは、団長である安先生に「日本でどうしても調べたい秀策の棋譜があるんだ」と偽って、他の選手よりも2日早く一人で韓国を発った。
──偽りでは、ないか。
調べたい秀策の棋譜──秀策に酷似した、ヒカルの棋譜。
もう自分の気持ちをこれ以上考え込むのは懲り懲りだ。
オレは、お前が知りたい。
+++++
第3回北斗杯の2日前。
ギャアギャアと五月蠅かった韓国棋院や安先生、それから秀英(どうにもはずせない対局が入っていて、オレを止めることは出来なかったらしい)を振り切って一足先に日本に着いたオレは、密かに途方に暮れていた。
ヒカルに会う一心で日本まで一人で来たものの、肝心のヒカルがどこに住んでいるのかわからない。
電話番号すら知らなかった。
……意地を張ってないで、秀英に聞けばよかったな。
いつまでも空港にいても仕方がなかったので、とりあえず地図を片手に電車に乗って、東京駅まで辿り着いた。
日本に来るのは都合3度目になるが、一人で来るのは初めてだった。
しかも、今までの来日もすべて北斗杯のために来ただけ。一人で日本の街を歩いたことなどなかった。
──さて、どうしたものか。
この大都市・東京からどうやって進藤ヒカルを探し出そうか。
警察に聞きに行くべきか?
……バカな。韓国人がフラリと日本の警察署に尋ねて行って、そんな個人情報を教えてもらえるはずがない。逆に尋問されるのがオチだ。
北斗杯の会場になるホテルに行ってみようか。
……まだ大会まで2日もある。来ている訳がない。
困ったな。
そう考えている時、ふと駅の売店で売られている新聞が目に入った。
──『碁』?
たくさんある新聞の中で、『碁』という漢字が大きく書かれている新聞があった。
売店まで行って、その新聞を手にとってみる。
どうやら碁の新聞のようだ。
「270円」
声のした方を見下ろすと、売店の年老いた女が低い声でオレを睨みながら手を差し出した。
ああ、金を払えと言っているのか。
仕方なくオレは、日本円をいくらか渡してその新聞を購入した。
碁の新聞──どこかにヒカルのことが載っていないだろうか。
そんな淡い期待を込めて捲っていくと、ふと見覚えのある顔が飛び込んできた。
『塔矢アキラ、富士通杯2回戦圧勝』
……富士通杯。
確か国際トーナメント棋戦だな。韓国棋院からも誰かが代表で行っていたはずだ。
……フン。塔矢アキラか。
塔矢アキラ。
父親である塔矢行洋が言っていた通り、オレと互角の強さを持つ日本の棋士。
去年の北斗杯でも、危うく負けるところだった。
──今年はどうか。
勝てる保証はない。だが負ける気もしない。
コイツにだけは、絶対に、完膚無きままに勝っておかなければ。
何故だかオレは心の中で、塔矢アキラに対して異常なまでの対抗心を抱いていた。
ヒカルとも違う、何か──。
まあ、いい。
オレはもともと誰にも負ける気はないのだ。
ヒカルでさえも。
そんなことを、日本の碁の新聞を手にしながら考えていた時、ふと頭の中にあることが浮かんだ。
……韓国にも、似たような碁の新聞がある。
その発行元は、オレたち韓国のプロ棋士が所属している韓国棋院だ。
ということは、日本のこの新聞も──。
オレは慌てて新聞を捲り続け、発行元の記載を探す。
すると、新聞の隅の方に小さく書かれている文字があった。
『日本棋院 東京都千代田区×─×─×』
──あった。
この住所を地図で調べれば行けるはずだ。
ヒカルもプロ棋士だ。絶対にここに所属しているはずだ。
行ったからといって、会えるとは限らない。
日本棋院に直接問い合わせればいいのだろうが、オレの顔くらい知っているはずだ。
騒がれてしまっては、わざわざ北斗杯よりも前に日本に来た意味がない。
大丈夫。絶対に会える。
根拠はなかったが、意味もなく自信があった。
オレは昔からそうだ。
根拠もなく「勝てる」と思って打って、負けたことは一度もない。
ヒカル、見てろよ。
+++++
東京駅から日本棋院のある市ヶ谷という駅は思ったよりも近く、あっという間についた。
その市ヶ谷という駅から日本棋院までは、歩いて5分足らずのところで、これも特に迷わずにあっという間についてしまった。
中に入って探そうか。
そうはいかない。中はおそらくプロ棋士やその関係者だらけだ。
特にこの時期、北斗杯も話題になっているはずだ。
……オレは目立ちすぎる。
──仕方がない。ここで待つか。
幸い暑くも寒くもない春だ。外で待つのはそれ程苦ではない。
しょうがなく、オレはヒカルが棋院から出てくるのを祈りながら、棋院の前で待つことにした。
様々な人間が出てくる。
年老いた男や女、時折若い人間もいる。
子供が走って出てきたりする。
棋士か? それとも韓国で言うところの研究生みたいなものか。
──きっとヒカルも、幼い頃からここに通っていたに違いない。
オレは、オレの知らないヒカルの幼い頃を頭の中で想像しながら、ヒカルが出てくるのを待っていた。
1時間も経った頃だろうか。
棋院のドアの向こうから、若い男たちの声が聞こえた。
片方は知らない声──もう片方はオレのよく知る、少し高めの柔らかい声。
ドアがキィと音を立てて開き、中から出てきたのはオレの予想通りの人物だった。
片方は背が高くて茶色いツンツンとした髪の毛の若い男。
もう一人は、相変わらずの色素の薄い前髪と、その下の大きなグレーの瞳が印象的な──オレの待ち人、進藤ヒカルだった。
「ハー、疲れたなー。進藤、メシでも食ってくか?」
「ううん。オレ、これから塔矢ん家行かないといけないんだよ」
「塔矢? ……ああ、北斗杯の合宿か」
「うん。早く行かないと、塔矢スッゲー怒るし。社も夕方には大阪から来るって言ってたし」
「がんばれよ、北斗杯。
……それにしても、3年連続同じメンツかあ。結局オレも越智も1回も出られなかったなー」
「和谷や越智の分もガンバルって……」
「ヒカル!!」
オレの呼び声に、ヒカルはハッとした顔で振り返った。
そして、オレの顔を確認するなり大きな瞳を零れんばかりにさらに大きくさせて、大きな声で叫んだ。
「ヨっ……永夏!?」
「ヒカル」
「なっ……なんでお前…こんなトコに…」
驚いた表情のまま、ヒカルはオレの方へと駆け寄ってきた。
そして、再びオレの姿を確認するように上から下までオレの姿を見つめる。
そんなヒカルをさらに驚かしてやろうと、オレは覚え立ての言葉で口を開いた。
「ヒサシブリ、ヒカル」
「え、ああ…久しぶり…」
「ゲンキ、だったか?」
「元気……って、あれ? お前、言葉…」
ヒカルが漸くオレの言葉に気が付いて、ポカンとした顔でオレのことを見上げた。
その顔を見て、思わずオレはしてやったり、と笑みが零れてしまう。
「言葉、オボエタ。まだ、秀英ミタイは、話せない。
でもお前の言葉、大体ワカル」
「……覚えたのか? 日本語……。半年前は全然話せなかったのに…」
「お前と話したい。打ちたい。
お前を知りタイ。もっと。ダカラ日本語覚えた」
「?…」
「お前に会うため、日本、ハヤク来た。会いたかった」
そのままオレは、目の前で呆然としているヒカルを抱きしめようとした。
するとヒカルは我に返ったのか、慌ててオレを押し返す。
その直後、ヒカルの背後の方からヒカルの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「……進藤……」
「あ、わ、和谷…ごめ…」
「…それって、高永夏じゃねえのか…?」
「え、あ、うん」
「なんで高永夏がココにいるんだ…?」
「え、えーと…その…」
ヒカルがしどろもどろといった感じで、先程まで一緒にいた若い男と何やら話していた。
すると、いつの間にか日本棋院の入り口には多くの人間が集まり始めていた。
そして、オレやヒカルの顔を見て何やら話してるのが聞こえる。
……マズイな。長い時間ここにいすぎたか。
そんなことを思っていると、再び棋院のドアが開き、中から大急ぎといった感じで年配の男達が走ってきた。
「進藤くん!! これは一体何事かね!?
なんで韓国の高永夏がこんなところにいるんだ!?
我々は何の連絡も受けてないぞ!?」
「さ、坂巻さん……ヤバ…」
「説明したまえ! 進藤くん!!」
「……! 永夏、逃げよう!!」
そのままヒカルはオレの腕を掴んで、猛然としたスピードで棋院から走り去った。
オレ達の背後から、ヒカルの友達らしき若い男や恐らく棋院の職員だと思われる男たちが何やら大声で叫んでいたが、ヒカルは振り返ることなく駅まで走り続け、そのままの勢いで電車に飛び乗ってしまった。
オレ達が乗り込んだ途端、電車はプシューッと音を立てて動き出す。
だが、猛ダッシュをしてきたオレ達は、なかなか呼吸を整えることが出来ず、しばらく二人でゼエゼエと息を切らしていた。
──そして呼吸も落ち着いた頃。
ヒカルが下から見上げるようにオレを睨み付けてきた。
恐らく色々文句を言いたいのだろうが、電車の中では大声を出すことも出来ずに、口をムズムズとさせながらオレのことを睨んでいる。
そんなヒカルの様子を見ていたら、オレは突然腹の底から可笑しさが込み上げてきた。
当然それは抑えることは出来ず、そのままブハッとオレの口から吹き出された。
そしてそのままそれは笑い声に変換されて、オレは大声で笑い続ける。
突然笑い出したオレに、ヒカルは驚いて止めようとしたが、オレがヒカルの制止の声も聞かずに笑い続けていると、そのうちヒカルも釣られるようにプッと吹き出し始めた。
そしてそのまま目的地の駅に着くまで、オレたちは他人の目も構わずに2人でゲラゲラと笑い続けた。
今にして思えば、初めてだった。
こんなにも楽しく、心の底からヒカルと笑い合ったのは。
笑いながら、ふと秀英の言葉が頭を過ぎった。
『誰かを愛することは、とても楽しくて気持ちのいいことなんだよ!』
そうかもしれないな、秀英。
オレは、楽しかった。
+++++
棋院から逃げ出してきたヒカルは、オレを自分の家に連れて行った。
閑静な住宅街にあるヒカルの家には、ヒカルの母親がいた。
「ただいまー」と声をかけて家に上がるヒカルに、奥の方から「おかえりなさい」という母親の声が聞こえ、玄関まで出てくる。
そして、オレの姿を見て目を丸くした。
「あ、ら……ヒカル、お客様?」
「うん。韓国の友達。
オレ、去年韓国に行ったろ? その時に世話になったんだ」
「あらあら、まあまあ、韓国の方」
「ハジメマシテ、こんにちは」
「あら、どうも、こんにちは。日本語お分かりになるのねえ」
「いつもオセワにナッテオリマス。オジャマシマス」
「まあ、ウフフフ。どうぞ、お上がりください」
「永夏、早く来いよ!!」
オレがもう一度日本人らしく頭をさげてお辞儀をし、家に上がると、ヒカルの母親は再び微笑ましそうに笑った。
何故だかヒカルは顔を真っ赤にさせて、階段の中程でオレが早く上がるのを苛々と待っている。
……似てるな。ヒカルは母親似か。
そんなことを思いながらヒカルを見つめてフッとオレが笑うと、ますますヒカルは顔を赤くさせて急ぎ足で部屋に駆け込んでいった。
オレもヒカルの後を追って2階の一室に入る。
ドアを開けると、窓からサアッと春の優しい空気が流れ込んできた。
小さな部屋に、ベッドと机。本棚やテレビ。冷蔵庫らしきものもある。
──そして、碁盤。
どうやらヒカルの部屋らしかった。
「適当に座れよ」というヒカルの言葉で、オレはそのまま腰を下ろす。
窓際にいたヒカルは、オレが座るのを見て、オレから少し離れたところへ同じように腰を下ろした。
そのまま二人で春の風を感じながら、暫しの沈黙が流れる。
暫くそのままボンヤリとしていたが、少ししてヒカルがオレに声をかけた。
「……いいのかよ、こんなトコに来て。敵チームだぞ」
「コンナトコ?」
「日本。団長さんや秀英は何も言わなかったのか?」
「言ったサ。振り切るのにタイヘンダッタ。
デモ、オレは北斗杯よりもお前に会いたかった」
オレがヒカルを見つめながらそう言うと、ヒカルは少しだけ頬を赤らめて、俯いてしまった。
そしてまた沈黙が訪れる。
そう。
ヒカル。
オレはお前に会いたかった。
そして、お前に伝えなければならないことがあったのだ。
「ヒカル」
「うん?」
「……スマナカッタ。去年の夏のコト」
「え……ああ…」
「お前を傷つけてシマッタ」
「……いいよ、もう。それに、アレはオレも悪かったんだ。
オレがお前のことを、その……」
「……代わりにシテイタ? オレと『同じ声』のヤツの」
オレがそう言うと、ヒカルはハッとした表情をし、そしてそれはそのまま酷く悲しそうな表情へと変わってしまった。
ヒカル。
オレはお前のそんな顔を見たいために、こんなことを言ったんじゃないんだ。
お前がオレをその『同じ声』のヤツに代わりにしようとしていたとしても、今はそれでもいい。
オレと打って、オレと一緒にいて、そしていつの日か──『オレ自身』のことを見つめてくれれば。
オレはそれでいい。
オレはお前と打ちたいんだ。
ヒカル。
そして、本当のお前を知りたいんだ。
オレは黙ったまま俯いてるヒカルの前に、部屋の隅に置かれていた足つきの碁盤を置いた。
その碁盤を見て、ヒカルはハッと顔を上げる。
そしてオレをジッと見つめた。
オレのことを。
「……永夏…」
「ヒカル、打とう。
オレとお前は言葉じゃない。打たなければワカラナイ。
打てば、何局も何局も打っていけば、オレ達はいつかワカリアエルはずだ」
「何局も打てば…」
「ヒカル。打とう」
そのままオレは、ヒカルの前に黒石を置いた。
パチリ、という碁盤の音を聞いた瞬間、ヒカルの身体がピクリと震えた。
そのままオレの置いた黒石を見つめて何かを考えているようだったが、しばらくしてフウと息をつき、白石を碁盤の上に置いた。
そうだ、ヒカル。
オレ達は打たなければ分からない。
たとえ言葉が通じるようになっても、それは気持ちが通じたことにはならない。
でも、オレ達には石がある。これでオレ達は通じ合えるはずだ。
さあ打とう、ヒカル。
そして再び美しい棋譜を──オレ達にしか作れない棋譜を作ろう。
ヒカル──。
+++++
そのまま3時間ほどが過ぎ、オレとヒカルの一局は終局した。
非常に細かい戦いとなった。
右上のスミで最後までシノギを削り合い、取ったり取られたりの展開が続いた。
そして終局──。
終わってみれば、オレの半目勝ちだった。
オレは大きく息をつき、ふと窓の外に目をやる。
明るかった日はいつのまにか落ちようとしていて、空を真っ赤に燃やしていた。
綺麗だな。日本の空も綺麗だ。
ヒカルの部屋から見る、日本の空──。
オレは、碁盤へと目を戻す。
僅かに黒が競り勝った、緊張の糸が張り巡らされた碁。
それは細い細い糸の上を絶妙なバランスで歩いているかのような、酷く研ぎ澄まされた美しい碁だった。
やっぱり綺麗だ。
ヒカルと作る棋譜は美しい。
他の誰と打っても、オレはこんな石の流れが美しい棋譜は作ることが出来ない。
ヒカルとだから作れたのだ。
オレはこれからもこんな棋譜を作り続けていきたいんだ。
これからもずっと。
お前と二人で──。
「ヒカル」
オレがそんな思いを込めて目の前のヒカルを呼ぶと、ヒカルは俯いて碁盤をジッと見つめていた。
オレの呼び掛けにも反応しようとしない。
もう一度オレが「ヒカル」と声をかけると、ヒカルはピクリと身体を震わせ、ゆっくりと顔を上げてオレを見つめた。
ヒカルは、涙を流していた。
酷く静かに、大きな瞳から一筋の涙が流れていた。
窓の外の夕暮れの光が当たって、キラキラと輝いている。
美しい──。
オレは心の底からそう思った。
ヒカルのあまりの美しさに目が離せなくなったオレは呆然とヒカルを見つめていたのだが、暫くして我に返り、慌ててもう一度ヒカルの名を呼んだ。
「ヒカル」
「──……」
ヒカルの頬を伝っていた涙が、ポタリと音を立てて碁盤の上に落ちる。
オレは、もう一度ヒカルの名を呼ぶ。
「ヒカル」
「……永夏…」
「ヒカル、何故泣く? こんな美しい棋譜が出来たというのに」
「……永夏…オレ…」
ヒカルの瞳からは、涙が止まらずに流れ続けている。
ヒカルはそれを拭いもせずに、静かに碁盤を見つめ続けていた。
そして、静かに口を開いた。
「……オレ、お前とこうして打ち続けて行けば…『神の一手』がいつか打てるって…
オレの『目的』を果たすことが出来るかもしれないって……
お前と打ち続けていれば、いつか『あの世界』に行けるかもしれないんだ」
「……?
ヒカル、ワカラナイ。秀英ミタイは、日本語ワカラナイ。もう少し、ワカル言葉で…」
「でも、お前と打つと……お前とこの碁盤で打つと……お前の声を聞くと……
オレは、アイツを思い出さずにはいられないんだ」
「………?」
「……ハハ。おかしいよな。
アイツに会いに『あの世界』に行こうとしているのに、
アイツのことを思い出すのが辛いだなんて」
「………」
「こんなにも辛いだなんて……」
ヒカルの細い肩が震え、涙がポタポタと零れ続ける。
オレは、ヒカルが今言った言葉の大半が理解出来ず、なんと声をかけたらいいのかわからないままヒカルを見つめていた。
そんなオレをおいて、ヒカルはさらに言葉を続ける。
「どうしよう、永夏。
オレ、秀英に言われたんだよ。
オレとお前が作る棋譜が好きだ、って」
「……秀英が?」
「だからオレ、こうしてお前とまた打てるのが嬉しかったのに。
もう、『目的』とかのためではなくて……
ただ、お前と打てるのが嬉しかったのに」
「………」
「でも、お前と打つの、辛すぎるよ」
「………」
「どうしよう。辛すぎるよ」
ヒカルは静かな声でそう言うと、再び涙をポタポタと碁盤の上に零し続けていた。
オレとヒカルで作り上げた美しい棋譜が、ヒカルの涙で濡れていく。
だがその時のオレには、ただその光景を見ていることしか出来なかった。
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