09-2.2







日本に来て、1日目の夜──。


オレは、北斗杯会場のホテルに程なく近いところに、北斗杯当日まで滞在するための部屋を取っていた。
オレは一人で寝るには無駄に大きいベッドにゴロンと横になり、味気ない白い天井をボンヤリと見ていた。
ベッドの脇に置かれた時計を見る。
10時か。
こんなに暇な夜を過ごすのは久し振りだ。
……このところ、忙しすぎたからな。いい休息かもしれない。
オレは大きく息をつき、再びボンヤリと天井を眺めた。

今日の昼間の出来事が、白い天井をスクリーンにして鮮やかに蘇っていく──。






結局オレはヒカルの家には夜の7時近くまでいて、ヒカルの母親が「ご飯を食べていったら?」「泊まっていけばいいのに」と言ってくれたのだが、肝心のヒカルが「これから出かける」というので丁重にお断りをした。
何でも塔矢アキラの家に行く、とのことだった。
北斗杯に備えて、毎年塔矢アキラの家に集まって合宿をすることが恒例となっているようだった。

──塔矢アキラか。
あの秀麗な顔を思い出す度に、心の奥がチリチリと焦げ付く感じがした。
今年もオレはアイツと対局する可能性が大だ。
勝つのは当然として、去年のような辛勝ではなく今年は圧勝──。
歴然とした力の差を見せつけてやるのだ。


そこまで考えが及んだ時、オレはハッとした。

『力の差を見せつけてやる』──誰に?

オレは一体、誰に見せつけようとしていたのだろうか。
塔矢アキラにか? それともオレ自身か? ──もちろんそれもあるだろう。
だが、オレが本当に見せつけたかった相手は。
『塔矢アキラよりも高永夏の方が強い』という事実を見せつければ、アイツは再びオレの元にやって来るかもしれない。
去年の夏と同じように。


アイツ。──それは。











コンコン。







その時、ドアをノックする音が部屋に響いた。

誰だろうか。特にルームサービスも頼んでないし、日本に知り合いもいない。
そもそも、オレが今日本に来ていることを知っているのは──


オレは急いでドアまで走っていき、覗き窓からドアの向こう側に立つ人間の姿を確認する。
そこにいたのは、どこか所在なさそうに落ち着きなく立っている頼りない姿。
オレは慌てて鎖を外しドアを勢いよく開け、その名を呼んだ。



「ヒカル!!」



ドアの向こう側に立っていた人──ヒカルは、気まずそうにオレの顔を下から見上げ、「よう」と小さく返事をした。











++++++











「ドウシタ、突然」


オレがそう声をかけると、ヒカルは小さい声で「えーと…」と言いながら再び俯いてしまった。



確かにオレはヒカルと別れる前に、このホテルの名前と場所を記した紙を渡しておいた。
別に何か期待をしていた訳じゃない。ただ純粋に連絡先として、伝えておいたのだ。

それが突然、こうしてヒカルがオレの部屋に訪ねてくるなんて。

とりあえずオレはヒカルを部屋の中に入れ、先程までオレが横になっていたベッドの上に座らせた。
オレはそれと向き合うようにして、窓際に置かれていた大きな足つきの椅子に座る。
そしてヒカルを真正面から見据え、「何故来た?」ともう一度尋ねた。


「………」
「塔矢の家に行くトカ言ってナカッタか。北斗杯の合宿で」
「……うん」
「じゃあ何故ココに、オレの部屋に来た?」
「………」

またヒカルは黙りこくってしまった。
俯いてはいるものの、その顔は酷く何かを言いたげだった。
昼間ヒカルが泣きながら言っていたことの続きだろうか。

ヒカルが言っていたこと。



まだ日本語が完璧ではないオレは、昼間にヒカルが言っていたことをすべて理解することは出来なかった。
そんなオレが理解出来た言葉だけを並べると──



オレと打つこと。それは何か『目的』があるのだということ。
オレと打つこと。それは『アイツ』という人間を思い出すということ。
オレと打つこと。それは──辛いのだということ。




そう言ってヒカルは泣いた。
オレと打つのが辛いと言って。


何故だ? ヒカル。
オレとお前が打てば、あんな美しい棋譜を作ることが出来るというのに。
オレは、今日お前と打ったあの棋譜を今でも頭の中に鮮やかに思い出すことが出来る。
本当に本当に綺麗な棋譜だった。
オレは楽しかったんだ。お前と打つことが。
なのにお前は「辛い」と言う。

何故だ。分からない。


オレにもっと日本語が分かったらいいのに。
日本語でなくてもいい。もっとお前の気持ちを分かることが出来たらいいのに。

──皮肉だな、ヒカル。
オレがもっとお前を理解するには、お前が「辛い」という囲碁を打たなければならないんだ。
そうしなければオレ達は、きっと分かり合うことなんて出来ない。


何故ならオレ達は、棋士だから。




オレは、韓国から持ってきた折り畳み式の碁盤をベッドに座るヒカルの前に広げた。
突然のことに驚いたヒカルは、目をパチパチとさせながらオレの顔を見上げた。

「打とう、ヒカル。もう一度」
「………」
「お前がたとえオレと打つのが『辛い』と言っても、オレ達は打たなければナラナイ」
「………」
「さあ、ヒカル」

そしてオレは、昼間と同じようにヒカルの前に再び黒石を置いた。
しばらくヒカルは黙っていたが、やはり昼間と同じようにオズオズと白石を取り、碁盤へと置こうと──はしなかった。

そのまま白石を、盤の外にポトリと置いてしまったのだ。

そんなヒカルに驚いて、オレは盤に向いていた顔を上げてヒカルを見つめた。
ヒカルはフウと息をつき、俯いていた顔を上げてオレを見つめた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。

「……今は打てないよ。
 こんな気持ちのままお前と打ったら、またオレはお前を傷つけてしまうから」
「………」
「去年の夏の時も言ったけど、オレ……
 オレ、お前と打つことを『神の一手』を極めるためじゃなくて……
 いつの間にかお前のことを『アイツ』の代わりにしようとしていただけなんじゃないかって…」


ヒカルがそこまで言った時、オレは何かがブツリと切れる音を感じた。
そして目の前に座っていたヒカルを、そのままベッドの上に力任せに押し倒した。
そのはずみで、オレとヒカルの間に置かれていた折り畳み式の碁盤は、ガシャンと大きな音を立てて床に転げ落ちていった。マグネット式の碁石がバラバラとこぼれ落ちる音が聞こえる。
だがオレはそんなことも構わずにヒカルを自分の下に押し倒し、ヒカルが着ていた服を破るように脱がそうとした。
オレの突然の豹変に、驚いて声を失っていたヒカルは、オレが服を脱がしにかかると我に返ったのか、バタバタと暴れ出した。


──去年の夏と一緒じないか。
なんのためにオレは、半年以上もヒカルに会わずに時間を空けたのだ。
オレの知らなかった『人を好きになること』をじっくりと考えるためじゃなかったか。
同じ過ちを犯さないように。二度とヒカルを傷つけないように。
なのに、今オレは同じことをしようとしている。
なんの成長もしていないじゃないか。

バカだ。オレは。

オレは。


オレは。






オレは。










「………」
「永夏……っ!! やめ……っ!」
「………」
「………? 永夏…?」

先程まで大きな声を出して暴れていたヒカルが、ピタリと動きを止める。
そして小さな声でオレの名前を呼んで、オレの顔を覗き込んだ。
すぐ近くにヒカルの顔があるのに、何故かハッキリと見ることができない。
まるでヒカルが水の底にいるかのように、ユラユラと揺れているように見えた。

暫くして、オレの下にいたヒカルはゆっくりと右手を伸ばし、恐る恐るといった感じでオレの左頬に触れた。
頬に感じる小さなヒカルの手は、僅かな温もりをもってオレの冷えた頬を暖めた。

再び、目の前のヒカルの顔が水の中でグニャリと歪む。


「……永夏……」
「………」
「永夏……泣かないで……」

ヒカルは小さな掠れた声でそう言うと、オレの頬をゆっくりとさすった。




……『泣かないで』?




泣いているのか? ……オレが……?





オレの下のヒカルの顔に、雫がポタリポタリと落ちるのが見えた。

……泣いている? オレが泣いているのか?

オレは自分の右手で自分の右頬を触る。
頬は、涙で濡れていた。



「………」
「……永夏、泣かないで……」
「………」
「永夏、ありがとう……オレを好きになってくれて」
「………」
「オレ、今わかったよ。
 オレの目の前にいるのは、『アイツ』じゃない。高永夏だ。
 人を好きになることを知らなかった高永夏」
「………」
「でも、オレを好きになってくれた高永夏」


ヒカルはそう言ってニッコリと笑うと、両手でオレの濡れた頬を包み、涙を拭ってくれた。
そして、再び優しい声で言葉を続ける。


「ありがとう、永夏」
「………」
「……でも、オレはオレの『目的』を果たさなくちゃいけないんだ。絶対に」
「………」
「オレはそのために今、生きてるんだ」
「………」
「だから、人を……お前のことを好きになることは出来ないんだ」
「………」
「絶対に」


力強い瞳でヒカルはそう言うと、オレの頬を包んでいた手をさらに伸ばしてオレの頭の後ろに回し、そのままゆっくりとオレの頭を優しく抱き込んだ。

オレの顔は、自然とヒカルの胸へと当たる。
薄い胸の向こう側から、トクントクンと心臓の音が聞こえた。


──ヒカルの音。ヒカルの温もり。ヒカルの優しさ。


そのすべてに包まれながら、オレは再びヒカルの優しい声を聞いた。


















「ごめんね」












































そのまま、オレはヒカルの上で目を閉じた。
ゆっくりと意識が溶けていく。










夢の中の世界へ。











夢を見た気がした。

白い白い夢だった。







遠く離れた所に、ヒカルがいた。


オレは、名前も呼ばずにヒカルをジッと見つめていることしか出来なかった。








ヒカルの傍に、二人の人間がいた。
顔が見えない。


だがヒカルは、今までに見たことのない程の飛び切りの笑顔で笑っていた。



──あれは誰だったのだろう。



































































明るい光に目が覚めると、オレはベッドの中へきちんと入っていた。
チュンチュンと鳥のさえずりが聞こえる。

──今何時だ……?


時計を見ようとサイドテーブルに目をやると、オレの折り畳み式碁盤がきちんと片づけられて置いてあった。
……そういえば昨日、床の上に落ちてバラバラになったはず……。



そこまで考えたところで、オレのボンヤリとしていた頭は一気に覚醒した。
そしてガバリと起きあがると、部屋の中をキョロキョロと見渡す。

だが、ヒカルはどこにもいなかった。

オレの寝ていたベッドの中にも、オレ以外の温もりは感じられなかった。




……帰った、のか?

それとも昨日のあれは──夢だったのだろうか。









『お前を好きになることは出来ない。絶対に』


『ごめんね』













ヒカルの言葉が脳裏に蘇る。
あれは、夢じゃない。









「──『ごめんね』か……」







オレは、閉じられたカーテンを開けて、朝日を浴びながら大きく伸びをした。

ヒカルに『好きになれない』と言われたのに、頭の中は酷くすっきりとしていた。
朝日が気持ちいい。









好きになれないか。










だが昨日、ヒカルは初めてオレのことを見てくれた。
『アイツ』というヤツの代わりではなく、オレ自身を見てくれた。

オレはそこで、漸くスタートラインに立てたんだ。

あとは、ヒカルがオレを好きになってくれればいい。
今は好きになれないのなら、いずれオレのことを好きになるようにすれば良いだけの話だ。






ヒカル。

秀英の言った通りだ。




人を好きになることは、楽しいよ。




















































その日、結局オレは日本にいながらヒカルと連絡はとらなかった。
きっと今頃ヒカルの家に訪ねていってもいないだろうし、オレはオレの『目的』が見えた分、頭の中はすっきりとしていた。

明日の北斗杯まで待とう。

急がなくていい。
囲碁は、今の形になるまで何百、何千という時間をかけてきた。
人を好きになることもそれと一緒だ。時間をかければいい。








ヒカル。


囲碁を打つことは『辛い』ことなんかじゃない。
『楽しい』はずだ。








だからまた一緒に打とう、ヒカル。