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09-2.3
「──永夏!!」
オレが北斗杯会場のロビーで佇んでいると、遠くから聞き慣れた声が聞こえた。
その声のした方へ目をやると、秀英が走ってくるのが見えた。
その後ろには、安先生と李が歩いてくるのが見える。
秀英はオレの前まで来て立ち止まり、ハアハアと息を切らした。
オレはそんな秀英の様子を見ながらフウと息をつき、声をかける。
「なんだ、そんな大急ぎで来て。時間までまだ随分あるぞ」
「……だっ…誰のせいだと思ってるんだよ!!
し、心配したんだぞ!! イキナリ一人で先に日本へ行くだなんて!!」
「お前に心配される程のことじゃないだろう。日本語だってわざわざ覚えたんだ」
オレがそう言うと、秀英はますます顔を紅潮させてギャーギャーと小言をまくし立ててきた。
やれやれ。相変わらず五月蠅いヤツだな。
そんな秀英を宥めながら会場の入り口を眺めていると、中国チームが現れた。
ここも団長は3年連続楊海さんと、変わらない。だが、あまりメンバーに変化のない日本や韓国とは違い、中国チームは毎年ガラリと選手のメンツが変わる。
去年の代表だった楽平や趙石などはいなくなり、全く知らない顔が並んでいる。
さすが10億人の国、優秀な人材はいくらでもいるということか。
受付を済ませた中国チームとオレたち韓国チームが言葉を交わしていると、何やら会場がざわめきだした。
大会委員らしいスタッフたちが、先程からバタバタと走り回っている。
「何かあったのかな」と秀英が呟くのを聞きながら、オレ達はその様子を見ていた。
すると、オレ達と話していた楊海さんが韓国語で安先生に話しかけた。
「……日本チームが来てないな。もうすぐ時間なのに」
「あ、そういえばそうですね。それでザワついているのかな」
「自分の国が主催の大会に遅刻とは、大したもんだな。
それとも何かあったかな? 倉田が食べ過ぎで腹を壊したとか」
「ハハハ、ない話ではありませんね」
……日本チームが来ていない?
そうだ。オレも先程からずっと入り口を見ていたのは、日本チームを──ヒカルを待っていたからだ。
だが、いつまでたっても日本チームは現れなかった。
次第に会場のざわめきは大きくなっていく。
「ねえ、永夏」
「なんだ」
「……その…進藤……には、会ったんでしょ?」
秀英がオレに耳打ちするように小さな声で、おずおずと聞いてきた。
「ああ、会ったさ」
「……やっぱり。
秀策の棋譜の研究だなんて言って、やっぱり進藤に会いにいったんだ」
「研究はしたさ。秀策によく似ているヒカルと打ったりしたんだから」
「その時、何か言ってなかった? 今日のこと」
「? 『北斗杯は遅刻する』って前もって言うのか? バカな。
塔矢の家で合宿をするとかナントカ言ってたがな」
オレと秀英がそんなことを話している間に、とうとうレセプション開始の時間になってしまった。
慌ただしく大会委員たちが走り回る中、委員長らしき男が壇上に上がり、汗を拭きながらマイクで話し始めた。
『え〜……第3回北斗杯、レセプションの開始の時間になってしまいましたが…え〜…
じ、実は日本チームがまだ会場に到着しておりません……』
委員長の言葉を聞いて、会場のざわめきはますます大きくなる。
委員長は『お静かに! お静かに!』とマイクの音をキンキンと響かせながら再び喋り始めた。
『え〜、先程日本チームの団長である倉田碁聖から連絡が入りまして…え〜、
実は、進藤ヒカル選手が、え〜、突然体調を崩しているとのことで、え〜……
今現在、倉田碁聖と進藤選手は病院に向かっており、まもなく塔矢選手と社選手が先に会場に……』
そこまで委員長が話した時、会場のドアがバタンと大きな音を立てて開き、塔矢と社が息を切らせながら飛び込んできた。
壇上にいた委員長は、そんな二人を見て思わずマイク越しに二人の名前を呼んだ。
『と、塔矢くん! 社くん!』
「……っ、ハア、ハア……お、遅れました…も、申し訳ございません」
塔矢は息を切らしながらハッキリとした口調でそう言うと、会場にいる人間たちすべてに向かうようにして深々と頭を下げた。
隣にいた社も、それに引っ張られるようにして頭を下げる。
そんな二人の様子を呆然と見ていた委員長の男は、ハッと我に返り、『では、レセプションの方を開始いたします!』と高らかに北斗杯開始の声を上げた。
同時に、会場からパチパチと拍手が鳴り出す。
そんな中、塔矢と社は受付に行き、大会の委員に何やら事の顛末を説明しているようだった。
……………ヒカルが………体調不良……?
去年の夏、韓国に来てヒカルが倒れた時の、苦しそうなヒカルの表情が頭の中に浮かんだ。
背後で、楊海さんが安先生と話す声が聞こえる。
「倉田じゃなくて進藤くんだったか」
「そうですね。大丈夫でしょうか?」
「さあなぁ…。そういえば彼、去年も体調を崩してたな。
なんだ、北斗杯には鬼門でもあるのかね?」
「彼の碁は、もう一度見ておきたかったんですけどね。
去年の秀英との一局、いい碁だった」
………そういえば、去年も。
確かに去年もヒカルは対局の最中、具合が悪そうだった。
北斗杯に鬼門?
バカな。それであんな素晴らしい棋譜が残せる訳がないんだ!!
レセプションのくだらない話が終わると同時に、オレは秀英の制止を振り切って日本チームの元へと駆け寄った。
すると塔矢は驚いた顔でオレを見ると、流暢な韓国語で話しかけてきた。
「……何か? 今立て込んでいるんだが」
「ヒカルはどこだ。何があった。どこの病院にいる?」
「……ヒカル? ………。
進藤は今病院で診察中だ。明日の対局には間に合うようにやってくる」
「そんなことは聞いていない。ヒカルに何があったんだ!
今、どこの病院にいると聞いているんだ!!」
塔矢のすました顔に無性に腹が立ったオレは、思わず掴みかかってしまう。
何故だ。
何故そんな冷静でいられる?
オレは、お前はオレと同じ気持ちをヒカルに抱いているものだと思っていた。
そうだ、だからオレは塔矢を見ると苛々としていたんだ。
大切なヒカルが倒れたというんだぞ。お前は心配ではないのか。
オレが思わず塔矢の胸ぐらを掴んだ瞬間、塔矢の背後にいた社が「何しとんのや!」
と大声で言いながら塔矢を後ろから掴んでオレから離れさせた。
オレの背後からは秀英が同じように「永夏! 何してるんだ!」と大声で叫びながら走ってくると、オレの腕をつかんで後ろに引っ張った。そして、安先生も慌てて走ってきてオレを押さえる。
塔矢とオレは、後ろで押さえつけられるのを無視しながら、お互いの目を睨み付けていた。
──塔矢の目。切れ長で真っ黒な鋭い瞳。
まるで黒い炎が燃え上がっているような目だ。
──そうか。
やはりオレの考えは外れている訳ではなさそうだな。
塔矢も、オレと同じようにヒカルのことを想っているのだ、と。
オレは塔矢と睨み合いながら、心の中でそう確信した。
そのまましばらく睨み合っていると、塔矢がフウと息をつき、オレに乱されたスーツを整える。
そしてクルリと背を向けると、日本語の低い声で呟くように言った。
「……昨日から、なんとなく風邪気味だったんだ。それで、今朝になって高熱を出した。
自己管理の甘さから来るただの風邪だ。自業自得だ」
言い捨てるようにそう言うと、塔矢は肩を怒らせながらレセプション会場を出ていった。
その後を社が慌てて追いかける。
──塔矢アキラめ。
やっぱりお前は、このオレが完膚無きまでに叩きのめしてやる。
「永夏!!」
オレがそんな誓いを立てていると、秀英が怒鳴るような大声でオレの名前を呼んだ。
秀英の顔を見ると、顔を真っ赤にさせて、明らかに怒っているのが見て取れた。
そのまま秀英はオレの腕を取ると、ズンズンと歩いてオレを引きずるようにして韓国チームの部屋へと引っ張っていく。
その後を安先生と李が追いかけて来た。
オレ達の去り際に、中国チームの楊海さんが再び韓国語で、オレ達に聞こえるようにポツリと呟いた。
「進藤くん一人で日本も韓国も大騒ぎだな。こりゃ、今年はウチがいただきかな」
そうはいくか。オレは誰にも負けないんだ。
特に、塔矢アキラには。
見てろよ。
+++++
北斗杯、2日目。
今年の北斗杯の組み合わせは、2日目に韓国×中国、日本×中国。
そして明日の3日目が日本×韓国。
オレとヒカルが大将戦で対局した2年前の第1回と同じ日程となった。
最初に韓国×中国の対局が行われる。
オレは当然あっさりと中国に勝利を収める。三将の李も、その新しい才能で抜擢されただけあって、熱戦の末に2目半差で勝利を収めた。
だが、副将の秀英は──中国の副将、張(チャン)──実質的な中国のNO.1だが、オレに勝利するために大将から副将へと転じたのだろう──に苦戦を強いられ、半目差で敗れてしまった。
だが、2勝1敗でオレ達韓国チームが勝利を納めた。
そして、続いて行われる日本×中国戦──。
選手が次々と着席していく中、ポツンと空いたままの席があった。
ヒカルの席だった。
去年と同様に副将である真ん中の席が空いていた。
再び大会委員たちがバタバタと走り回っている。
どうやらまだ会場にヒカルと倉田団長は来ていないようだった。
すでに対局の終わったオレたちは会場を出され、控え室に行かされる。
そこのモニターで慌ただしい会場の様子を眺めていた。
「進藤がやはり来ていないようだな」
安先生がポツリと呟いた。
秀英の肩がピクリと揺れるのが見える。
ヒカルを知らない李は、キョトンとした顔をしていた。
「──さて、どうするのかな。このまま不戦敗になるのか……それとも、急遽代役を立てるのか」
「開始までに来なかったら、不戦敗になるの?」
「いや、開始30分以内に着席をしなければ、不戦敗ということになるな」
そんなことを安先生と李が話している間に、開始のブザーがなる。
日本の大将の塔矢、三将の社がほぼ同時にパチリと黒石を置いた。
「始まったな」
カチカチと時計の音が部屋に鳴り響く。
安先生と李がモニターを見ながら石を並べていった。
オレと秀英は、固まってしまったように画面を凝視していた。
20分が経過する──。
副将の碁盤だけが、未だに真っ白のままだった。
「……来ないな、進藤は」
「………」
「代役を立てなかったのは、来る確証があったから──ではないのか?」
「あと10分もないね」
「それとも作戦かな」
「作戦?」
李が手を止めて安先生を見上げた。
画面を凝視している秀英の肩が、またピクリと揺れる。
「大将戦は、どう考えても塔矢の勝ちだろう。歴然の差がある。
三将戦も……接戦ではあるが、社に分があるな。このままいけば、日本は2勝だ。
ここで体調の悪い進藤を張にぶつけるよりも、不戦敗で1敗させた方がいいだろう。
日本の勝利には変わりない」
「あー、なるほど! だから進藤はわざと来ないん…」
「来るよ!!」
李の声を遮るように、秀英の声が部屋中に響いた。
そのあまりの迫力に李はビクリと震え、手に持っていた白石をポトリと碁笥の中に落とした。
秀英は画面から目を離そうとしなかったが、背中から怒りのオーラが滲み出ていた。
そんな秀英の様子を見て、安先生は「ゴホン」と咳払いをすると、再び石を並べ始めた。
そうだ。秀英。
ヒカルは絶対に来る。
アイツは碁を打ちにくる。
何故ならアイツは、碁を『打たなければならない』人間だからだ。
オレと同じように。
その時、画面からワッと大きな音が響いた。
「アッ!」と秀英が大きな声を上げて立ち上がる。
何台かあるうちの1台のカメラが、会場の入り口を映し出した。
「進藤だ!!」
秀英が声を弾ませて、再び大きな声でヒカルの名前を呼んだ。
オレも思わず立ち上がり、画面を見つめた。
すると、確かにそこにはヒカルがいた。
倉田団長に支えられるようにして会場内へ入り、倒れ込むように副将の席に座った。
画面からも、その荒い息づかいが聞こえてくるのではないかというくらいに、ヒカルはハアハアと息を切らしており、顔も真っ青だった。
いつもは碁盤を見ると鋭い目つきに変わる大きな瞳も、どこか虚ろなままだった。
「安先生、進藤ってアイツ?」
「あ、ああ……。来たには来たが……あんな状態で打てるのか?
何で倉田さんは代役を立てないんだ」
「……進藤」
オレ達が食い入るように画面を見てると、控え室に倉田さんと楊海さんが大きな声で喋りながら入ってきた。
「倉田さん!!」
安先生が大きな声で名前を呼ぶと、倉田さんは「おー今年も韓国強いんだって?」と言うと、空いている席にドカリと座り、目の前のコップのお茶をガブガブと勢いよく飲んだ。
「プハーっ! やーっと落ち着いたよ〜〜」
「倉田さん!」
「あ、安太喜じゃん。相変わらず生意気そうな顔してんなー」
「一体どういうことです? 何故進藤くんを連れてきたんです!
あんな状態で、しかも張と……打てるわけがない」
「まったくもー、散々だよ!
進藤のおかげで病院と会場を往復してさー。オレ今日メシも食ってないんだぜ!?
絶対3kgは痩せたよなー」
「倉田さん!!」
倉田さんは楊海さんから安先生の言葉の通訳を聞くと、自分で自分のコップにお茶を注いで再びガブガブと飲み干す。
そしてフーッと大きく息をつくと、鋭い目つきになって画面を凝視し、呟いた。
「アイツが『出る』って言ったんだ。
『北斗杯だけは絶対に出るんだ』って」
「……進藤くんが…」
「まあ見てなって。北斗杯のアイツは、いつもとちょっと違うんだ。
去年みたいに、また面白いものが見られるかもしれないぜ」
『北斗杯だけは絶対に出るんだ』か。
ヒカル。
また、オレ達にお前の美しい棋譜を見せてくれ。
+++++++
「…………」
「…………」
「……安先生…これが進藤ってヤツなの……?」
「……し……信じられない……」
ヒカルが遅れて入ってきてから、2時間半あまりが過ぎた。
すべての盤が、終局を迎えようとしていた。
大将戦である塔矢は、圧倒的な強さで孫(スン)を下していた。
諦めきれない孫はしぶとくまだ打ち続けているが、塔矢の勝利はすでに揺るぎないものとなっていた。
三将の社は安先生の言った通り、接戦の末、馬(マー)の投了で勝利を収めた。
そして、中国NO.1の張と戦う進藤の盤は──。
「さーて、そろそろ終わるな。行くか」
オレ達の背後に座っていた倉田さんはそう言って立ち上がると、控え室を出ていった。
その様子を、楊海さんは苦虫を噛みつぶしたような表情で見つめていた。
「こ……こんな棋譜があるのか……こんな一手が」
安先生が、また呆然とした口調で呟く。
その言葉を聞いて、楊海さんがフーッと大きく息をついた。
「……やれやれ。『ミヤモトムサシ』じゃないんだ。
遅刻してきて勝利するなんて、ナシだぜ」
「……で、でも……これは細かいですよ」
「だが進藤くんの勝利だろ。半目──1目くらい差がついたかな。
庇う訳じゃないが、張は素晴らしかった。ベストコンディションだ。
……だが熱に浮かされている進藤くんの方がより素晴らしかった。それだけさ」
そう言って楊海さんも立ち上がると、控え室を出ていった。
そう。ヒカルと張の対局は、ヒカルの勝利だった。
激しい戦いだった。ヨセも非常に細かい。
だが出来上がったその棋譜は──
「……綺麗だ…」
いつの間にか画面を立ち上がって見ていた秀英が、小さな声でポツリと呟いた。
そう、その棋譜は、酷く美しいものだった。
一昨日、オレと打った棋譜よりもさらに研ぎ澄まされ、恐ろしい程石の流れの計算され尽くした美しい棋譜だった。
ヒカルと張の対局が終局する。
ヒカルは礼をして立ち上がると共に、床に倒れ込みそうになった。
それを横で支えたのが──大将である塔矢だった。
そこへ倉田さんが駆け寄っていく。
「あっ! 進藤!」
秀英は画面を見て叫ぶと、部屋を出ていこうとした。
そして、未だ座ったままのオレに向かって声をかける。
「永夏! 行かないのか!?」
………ヒカル。
そして………塔矢アキラか。
「いや、オレはいい。先に部屋へ戻る」
「え、ええ!? だって進藤が…」
「オレが行っても仕方ないだろう。オレが出来ることはない。
──塔矢があそこにいる限り」
「……え?」
呆然としている秀英を残して、オレは先に部屋へと戻った。
確かにヒカルのことは心配だったが、今アイツの隣には塔矢アキラがいる。
オレの入る隙は──ない。
塔矢アキラめ。
ヒカルと打ちたいのもヤマヤマだが、明日はオレはお前と打つ。
そしてお前を倒す。圧倒的な力で。
ヒカルと打つのはそれからだ。
絶対にお前を倒す。
++++++
北斗杯、3日目。
今日は日本×韓国の対局が行われる。
安先生は、昨日の日本戦の様子を受けて酷く布陣に悩んだようだったが、蓋を開けてみれば昨日の中国戦と同じオーソドックスな布陣となっていた。
奇をてらうよりも正攻法で──ということか。
まあいい。今日のオレの目的は塔矢アキラただ一人なのだから。
会場に入って席につく。
予想通り日本チームはまだ来ておらず、オレ達が先に席についた。
ふと、横の秀英を見る。
まだ対局は始まっていないというのに、凄まじい気迫だった。
同じチームのはずの李がビビってしまう始末だった。
開始3分前──日本チームが会場に現れた。
ザワザワと会場が騒ぐ。
塔矢アキラを先頭に、社、そして昨日よりもさらに顔色の悪くなっているヒカルを倉田さんが支えるようにして中に入ってきた。
そして──。
「………」
「──!?」
「…あ……?」
日本チームが席につくと、会場は再び大きくどよめいた。
大将の席には、当然塔矢アキラ。
そして副将の席には社──三将の席にヒカルが座ったのだ。
秀英と李は、この日本の布陣に驚きを隠せない表情をしていた。
……だが、あり得ない布陣ではない。
明らかにヒカルは昨日よりも具合が悪そうだ。普通ならまともに碁が打て状態ではない。三将に宛うのも分かる。
だがそれはあくまでも『普通なら』だ。
ヒカルにそれは通用しない。
だからこそ、安先生は敢えて昨日と同じ布陣を組んだのだ。
だが。
「……裏目に出たか」
「………」
さすがの秀英も、この展開には口をきけないでいた。
だが秀英なら、拮抗はしているが落ち着いて打てば、社は勝てる相手だ。
落ち着け、秀英。
李は駄目だな。
目の前の真っ青なヒカルにすっかり萎縮してしまっているのはミエミエだった。
──まあいい。たとえ韓国は負けたとしても、オレの目的は果たされる。
塔矢アキラを完膚無きままに倒すこと。
『始めてください』
先番はオレだ。
勝ってやる。
+++++++
それから3時間が経ち──対局は終了した。
2年ぶりとなった秀英と社の対局は、予想通り大熱戦となった。
だが落ち着きを失わなかった秀英が土壇場で逆転をし、社の投了で幕を閉じた。
そしてオレと塔矢アキラの対局は──。
塔矢はやはり強かった。
1年前よりもさらに力強さが増し、以前には時折見受けられた隙はなくなっていた。
このオレが、打っても打っても勝つことが出来ない。だがそれは塔矢も同じだった。
まさに差しつ差されつ──。
打っているオレでさえも、最後はどちらが勝っているのかもわからなくなる程だった。
そんな混戦を極めた碁は、漸く終局。
数えてみれば、オレがたまたま半目勝っていた。
『たまたま』だった。
そして、ヒカルと李の対局。
一番最初に終局したのはヒカルと李の対局だった。
どうやら、予想以上の早碁だったらしい。
ヒカルは元々早打ちが得意な棋士だが、想像を絶する程のハイペースで対局は進んでいった。
そして、2時間半あまりで終局。
ヒカルの1目半負けだった。
ヒカルは昨日と同様に打ち終わると同時に倒れ込み、再び倉田さんが連れてすでに退場した後だった。
ヒカルが退場してすでに30分近く経っているというのに、三将戦の碁盤の上からは、まるで熱気が立ち上っているようだった。
未だに李はゼエゼエと酷く息を切らしており、そのうち真っ青になってしまい、こちらも安先生に連れられて出ていってしまった。
対局者のいなくなってしまったその碁盤に残された棋譜は──やはり酷く美しかった。
だが。
明らかに昨日の淀みない石の美しい流れを表現する優しい棋譜とは、全く異なるものだった。
まるで、手で打ち合ったのではなく、お互いを刀で斬りつけ合ったような碁。
立ち上る熱気は、どこか血の匂いがするのではないかと思うほどの凄まじさだった。
こんな凄まじい碁を早碁で打たれたのでは、李ごときがついていけるはずがなかった。
李が勝てたのは、運が良かっただけだ。たまたま勝てたのだ。
オレと同じように、『たまたま』──。
『たまたま』だった。
終わってみれば、第3回の北斗杯もオレ達韓国チームの優勝だった。
2位の日本チームは、団長の倉田さんは進藤と共にすでに病院へ行ってしまい、大将の塔矢が表彰を受け取った。
だがオレ達は『たまたま』優勝しただけだ。
秀英もそれは分かっていたようで、取材のコメントも酷く言葉は少なかった。
日程を無理に調整して日本に早く来ていたオレは元より、安先生も秀英もすぐに明日から仕事が入っていたため、オレ達はその日のうちに帰路へとついた。
オレの隣に座り、ボンヤリと飛行機の窓の外を眺めていた秀英が、ポツリと呟いた。
「……結局、僕も永夏も進藤と対局は出来なかったね」
「………」
「でも、……やっぱり進藤はスゴイ」
「………」
「また…打てるよね」
「ああ」
そうさ。
オレ達はまた打てる。
オレ達は、囲碁がある限り、囲碁を打ち続けている限り、繋がっているんだ。
そうだろう。ヒカル。
こうして、波乱含みだった第3回北斗杯は幕を閉じた。
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