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09-2.4
第3回北斗杯を終え韓国に帰国したオレは、以前にも増して忙しい日々を送ることとなった。
六段まで段位を上げていたオレは、対局数も半端ではない数をこなさなければならない上に、雑誌やテレビの取材といったメディアの仕事が爆発的に増えていった。
確かにオレは強い。だが何でオレばかり取材するんだ。
しかも、囲碁と関係のない雑誌やテレビばかりだ。
他にもヒマそうな棋士なんていくらでもいるだろう。
そう秀英に愚痴をこぼすと「永夏は目立つから仕方ないよ」と窘められた。
その秀英も日本から帰国して以来、まるで何かを吹っ切ったかのように囲碁へと打ち込んでいき、オレとともに若手のトップとしての地位を築いていった。
秀英の中で、ヒカルのことはすっかり整理がついたようだった。
高校でもガールフレンドが出来たようで、囲碁の傍らデートに精を出していた。
そして、オレは──。
ヒカルとは北斗杯の後、会うことはなかった。
自宅の電話番号や住所は聞いてはいたが、オレから連絡することも、ヒカルから連絡が来ることもなかった。
前のように、強引に日本へ訪ねていくヒマもなかった。おそらくヒカルも同じだろう。
でも、オレは構わなかった。
オレには『やらなければならないこと』があったから。
オレはほとんどの棋戦で最終リーグまで名を連ねるようになった。
特に、8月に行われた王位戦では、5番勝負のうち2勝2敗まで持ち込むことが出来た。
最終第5局も大接戦だったが、結局10連覇のかかっていた李昌鎬に僅差で敗れてしまった。
──また敗れた。
去年も王位戦は挑戦者になりながら落としてしまった。
さすがにオレ達よりもう一世代前の最強の棋士、李昌鎬の壁は厚い。
……ここを乗り越えれば、オレの囲碁はもう一段上の世界へと進化するはずなんだがな。
なかなか上手くはいかない。
散々リーグに顔を出し、毎回最有力と言われながらも、2005年の夏の終わりの時点で未だに獲得タイトルはゼロ。
情けないな。
こんなところでモタモタしてる場合じゃないんだ、オレは。
オレには『やらなければならないこと』があるのに。
そう、オレには『目的』が出来たのだ。
ヒカルと同じように。
オレにも果たさなければならない『目的』がある。
+++++
「……なんだって? 永夏」
「だから。大学を受けてみようかなと思うんだ」
2005年、9月。
暑かった夏が漸く終わりを向かえ、オレや秀英は世間よりも随分と遅い夏休みを迎えていた。
高校はあるが、仕事はない。そのおかげで、随分と自由な時間が生まれていた。
学校が終わった後、秀英は当然のようにオレの家に来ていつものように囲碁を打っていた。
そして何局か打って、一息ついていたところに、オレは先程の台詞を秀英に向かって吐いたのだ。
オレのそんな言葉を聞いた秀英は驚いて立ち上がり、目をパチパチとさせてオレを見つめた。
「……大学って…」
「大学だよ。オレ、来年高校卒業するだろう? だからさ。
色々考えたんだが、やっぱりソウル大学にしようかと思っているんだ」
「………永夏。今何月だと思ってるの…?」
「9月だろ。9月6日、火曜日」
「…………」
秀英が冷たいグラスを掴んだまま、ワナワナと震えている。
お、久し振りに秀英のあの台詞が聞けるかな。
オレが期待をこめて秀英を見つめていると、秀英はグラスから手を離してバン!と大きな音を立ててテーブルを叩いた。
「永夏!!!!
な、な、何考えてるんだーっっ!! このバカーッッッッ!!!!」
「アハハハハ」
「笑い事じゃない!! 何笑っているんだよ!」
「アハハハ…、いや、悪い悪い。
お前って本当に期待を裏切らないヤツだなって思ってさ」
「何が!!?」
「久し振りに聞いたよ。お前の『バカーッ』って。
お前だけだもんな、オレのことを面と向かって『バカ』っていうのは」
「だっ…だって、永夏が!」
「ハハハハ」
笑い転げているオレを見ながら、秀英は気が抜けたのか大きくフーッと息をついた。
立ち上がっていた腰を下ろして、グラスに入っていたお茶を一気に飲み干す。
そして、オレのことを真剣に見つめながら尋問するかのように聞いてきた。
「……永夏。それって、いつ決めたの?」
「何が」
「大学へ行こうってことだよ!」
「この間だよ。王位戦が終わった後だから……10日くらい前かな」
オレが秀英の問いに正直に答えると、秀英は頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏してしまった。
なんだ、自分で聞いてきたくせに。
「永夏……大学の試験ってのはね……」
「お前の言いたいことはわかるよ。
大学修学能力試験は11月中旬。あと2ヶ月しかないって言いたいんだろう」
「わ、わかってるんじゃないか! だったら…!」
「だったら何だ? 『絶対無理だから諦めろ』って? ハハハ」
「永夏!」
憤る秀英を余所に、オレは空になった秀英のグラスに再びお茶をつぎ足した。
カラン、とグラスの中の氷が綺麗な音を立てる。
「『絶対無理』かどうかなんて、やってみなくちゃわからないだろう?」
「……でも」
「仕事と両立はするさ。ま、忙しくはなるだろうが、2ヶ月くらいならなんとかなるだろう
「………」
「……オレには『目的』があるからな。
こんなところで躓いてるようじゃ、オレの『目的』は果たせないんだ」
「…『目的』?」
オレの言葉を聞いて、秀英は不思議そうな顔をしてオレを見つめた。
オレはグラスの中のお茶を飲み干すと、立ち上がって本棚から1冊の本を取りだした。
小さい頃から何度も何度も覚えるまで読み込んだ、ボロボロになってしまったオレの大切な本。
「ソウル大学には、余所では手に入りにくい本がたくさんあるだろう?
日本の本も一杯あると聞いた。そこで調べたいことがあるんだ」
「……調べ……って、まさか」
「そう、コレさ」
そう言ってオレは、ボロボロになった秀策の本を秀英にヒラヒラとさせながら見せた。
秀英は驚いて、再び立ち上がってオレを見つめた。
「秀策の本なら、韓国棋院にもあるじゃないか!」
「あそこにある本はもう全て覚えた。もっと別の本さ。
ソウル大学の図書館なら、日本の本も含めて色々あるだろう。
それに、大学生になればまだ学生でいられる。棋院も無理な仕事は押し込められないからな」
「………」
「そうすれば、オレは自由な時間が出来る。大学にいる間は自由だ。
そこで秀策の研究が思う存分出来る。
秀策をより深く知れば、オレはよりアイツに近づける気がするんだ」
「………」
「ヒカルに」
窓の側に行って、窓を開ける。
夏の終わりの涼しい風がサアッと部屋の中に入り、オレと秀英の髪を揺らす。
オレの手にあった秀策の本もパラパラとページを揺らした。
「オレの『目的』は、アイツに今よりももっと近づき、
オレのことを好きになってもらうこと。
そのためには、アイツが憧れている本因坊秀策を今よりももっと深く理解すること」
「………」
「それに──それだけじゃないんだ。
この前の王位戦。オレは2年も連続で李昌鎬に敗れた。
今のままの勉強の仕方じゃ限界を感じたんだ。李昌鎬には勝てない。
オレは殻を破る必要がある」
「………」
「それもあって、勉強方法を変えてみようとも思ったのさ。
だからオレはソウル大学へ行く」
「……永夏」
オレは開いていた秀策の本を閉じて本棚へしまうと、打ち掛けになっていた碁盤の前へと戻り腰を下ろした。
すると秀英も慌ててオレの後を追いかけるようにして、碁盤の前へと座る。
「大体、修能(スヌン)ごときで引っ掛かっているようじゃ、勝てないんだ」
「……勝つ? 誰に?」
そう尋ねる秀英の目の前に、オレはパチリと大きく音を立てて黒石を置いた。
「本因坊秀策」
オレの言葉を聞いて秀英は「……は?」と呟き目を白黒とさせた。
オレはそんな秀英の様子を見てフッと笑い、言葉を続けた。
「ヒカルの心を捉えているのは、本因坊秀策だ。
ヒカルの心を得るには、秀策を知るだけじゃ駄目だ。勝たねばならない。
秀策よりも、より素晴らしい一手を極めてやるんだ。
そうすれば、ヒカルはオレを見る」
「………」
「オレを好きになる」
「………」
「それを考えれば、修能なんて前哨戦にすぎんさ」
オレがハッキリとした口調でそう言うと、秀英は暫く呆然としていた。
そしてハッと気付いたように慌てて白石を置くと、フーッと大きく息をつき、呆れるような口調で言った。
「……なんか……
…永夏なら修能も受かりそうな気がしてきたよ…」
「当然だ」
「……進藤のため、か」
「このオレがな。可笑しいだろう?」
「……うん。可笑しい。可笑しいけど、僕はそんな永夏、好きだよ」
「お前に好かれても仕方ないんだがな。オレが好かれたいのはヒカルだ」
オレがそう言い返すと、秀英は「ひどいな〜!」と言って笑った。
オレも大きな声で笑いながら、黒石を小気味よく碁盤の上へ置いた。
それから。
それからのオレの生活は、本当に大変だった。
激務化する仕事をこなしながら、毎晩遅くに帰宅して、それから朝まで勉強を続けた。
朝に僅かな仮眠をとって学校へと向かい、学校でも必死になって勉強を続けた。
もちろん囲碁も決して疎かには出来ない。
勉強の合間をぬって囲碁の勉強も続けた。
勝率を意地でも落とさぬように努めた。
毎日の睡眠時間は2〜3時間がいいところ。
休日なんて1日もなかった。
このオレが目の下に大きなクマを作り、頭もボサボサのまま対局へ行ったりしたのだ。
このオレが。
この高永夏が。
自分で自分の姿を見て思わず笑ってしまう。
これがあの高永夏か。
だが、楽しかった。
これだけ酷い生活を送っていても、不思議と苦にはならなかった。
それどころか、楽しかったのだ。
自分の好きな誰かのために、形振り構わず必死になって努力して。
そんな風に動く日がこのオレにやってくるなんて。
好きな人のために動くこと。
ああ、それはなんて楽しいのだろう。
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