09-2.5






2006年、4月。




寒かった冬が終わり、春が訪れる。
オレは春が好きだった。



何故かというと。

春──それは、北斗杯の季節。













ヒカルに会える。








































+++++




「出られない!?」
「………今頃何言ってるのさ、永夏…」



大学の帰りに久し振りに秀英の家に来ていたオレは、秀英の言葉を聞いて思わず口に含んだ紅茶を秀英に向かって吐き出してしまうところだった。
そんなオレの様子に、秀英は半分ビクビクとして、そしてもう半分は呆れた様子で目の前に座るオレを見つめた。


「永夏、先月誕生日だったろ。大学の入学式のすぐ後に、19歳の」
「…ああ…そういえばそうだったな」
「北斗杯は18歳以下のジュニア向けの大会。だから19歳の永夏は対象外」
「……そっ……そうだったのか…?」

思わず中腰まで浮いていた腰がヘニャリと力をなくし、床に座り込んでしまう。
秀英は「永夏って肝心なところでヌケてるよね」などと言いながら、碁盤の上の石をジャラジャラと音を立てて碁笥の中へと仕舞った。

「だから、安先生が頭を抱えてたよ。
 去年までは僕と永夏が不動のメンバーだったからね。
 僕はもう決定しているんだけど、残りの二人をどうしようって」
「………」
「僕や永夏の下って、粒は揃っているんだけど飛び抜けた資質を持っている子がいないって」
「………」
「まあ多分、一人は先月、国手戦でいいところまでいった趙になると思うけど…」
「………」
「安先生も大変だよね。自分の仕事も忙しいのに、団長までやらないといけないなん
て。
 『引率の先生はもう懲り懲りだよ』なんて言ってたけど。
 でも今年は永夏がいないから、日本戦が幾分楽になるなって……」
「………」
「……永夏、聞いてる?」
「安先生、か」
「は?」


秀英が不思議そうな顔をしてオレを見つめているのを後目に、オレは立ち上がるとそのまま秀英の家を後にした。
突然のオレの行動に秀英は驚いていたが、説明しているヒマはない。
早く韓国棋院に行かなければ。
行って、あの頭の固い棋院の経営陣に言わなければならないことがある。




秀英。
お前、オレとはもう長い付き合いだろう?
たかが年齢制限だなんて小さなことで、このオレが引き下がる訳ないだろう?

見てろよ。












そんな決意を胸にオレは棋院へと出向き、経営陣を説き伏せて北斗杯の「団長」の座を射止めた。
安先生のスケジュール調整に難航していたために、ちょうど良かったらしい。
オレのスケジュールも相当にキツイものだったが、どうってことはない。
オレは別に選手である必要はない。ただ『北斗杯のために日本へ行く』という大義名分が欲しいだけだ。
北斗杯で──ヒカルに会うために。

そんな経緯でオレが北斗杯の新団長になったのは、秀英の家を出てわずか3時間後のこと。
直後に電話で団長がオレになったという連絡を受けた秀英が、思わず自宅の階段から落ちて頭にコブを作ってしまった程驚いたのは言うまでもない。
秀英もまだまだ甘いな。






それから1週間後。


北斗杯の前に、オレは棋聖戦第5局に臨んだ。

今まで散々挑戦手合いに敗れてきたオレだが、今のオレは去年までのオレとは違う。
今のオレは、果たすべき『目的』を持ったオレだ。
オレは本因坊秀策を超えるんだ。
こんなところで負けているヒマなんてない。

勝負は2勝2敗のまま最終局までもつれ込んだが、この第5局目にしてオレが勝利をおさめた。
韓国最強の棋士・李昌鎬への初勝利だった。
漸く念願のタイトルを一つ手に入れることが出来たのだ。




オレは、オレの『目的』に一歩進むことが出来たかな。






それを確かめたい。








ヒカル、お前で──。








+++++






2006年5月3日──第4回北斗杯。


オレは再び、今度は「団長」という立場で北斗杯に参加していた。
韓国チームの面々は、大将にはもちろん秀英。
副将に秀英と同期の趙(チョウ)、三将には去年の李と同じようにまだ14歳の若手、崔(サイ)が選ばれた。
今までとは全く異なるメンバーで臨むことになり、韓国棋院のジジイ共がやたらと不安がっていたっけ。
まあ、もっともオレは韓国の優勝などには興味はないのだが──。

オレ達韓国チームが会場に入ると、今年はすでに中国チームも日本チームも会場入りを済ませていた。
毎年、団長の楊海さん以外はガラリとメンバーを変える中国は、やはり今年も新たなメンバーで来ていた。
ただ随分と背が伸びていて最初は気が付かなかったのだが、大将の趙石は何度かこの大会で見たことがあったな。

そして──日本チーム。
ここのチームは選手3人が同い年のせいもあるのか、それとも日本の囲碁界のレベルがこの3人以外は高くないのか。
4回目となる今回も、全く同じ顔ぶれだった。
団長に倉田さん。塔矢、社。
そして──



「進藤!」

オレが日本チームを見つめていると、オレの横にいた秀英がヒカルの名を呼んで駆け寄っていった。
秀英の姿を見つけたヒカルは、窓の外の明るい春の光を浴びながらニッコリと笑った。





光に透ける、色素の薄い明るい髪。
その下の、白い小さい顔。
大きなグレーの瞳──






「秀英! 久しぶり」
「──……」
「秀英?」
「え、ああ、……ひ、久しぶり」

ヒカルの声を聞いた秀英は、慌てて我に返って返事をする。
久しぶりにヒカルを見た秀英は、ヒカルの目の前で固まってしまったように動かなかったのだ。
そんな秀英の様子に微塵も気が付かないヒカルは、自分の隣に立つ秀英をマジマジと見つめて、途端に驚いた顔になって大きな声を上げた。


「お前、背ぇ伸びたなーっ! なんかすっげーデッカくなった気がするんだけど」
「ああ、えーと…去年より10センチくらい伸びたからかな」
「10センチ!? 今何センチなんだよ!」
「えーと、確か175くらいだったかな…」
「………去年はオレと同じくらいだったのに……」
「ハハハ、これでお前が一番のチビやな、進藤」
「ウルサイ! 社!」

ヒカルの大きな明るい声と、社と秀英の笑い声が響いた。
オレがその様子をジッと見つめていると、オレの視線に気が付いたのかヒカルがふとオレの方を見た。
明るい日の光の下で笑顔を浮かべていたヒカルは、オレの姿を見てさらに笑顔を大きくした。

それは、本当に明るく綺麗な笑顔で──





「高永夏くん」





オレがヒカルを見つめていると、背後からオレの名を呼ぶ声が聞こえた。
後ろを振り返ると、毎年必ずこの場で会う顔がそこにあった。




「……楊海さん。お久しぶりです」
「や、どーも。今年からキミが団長らしいね」

中国の団長、楊海さんはそう言うと右手を差し出してきた。
オレはスーツのポケットに入れていた手を出して、差し出された右手を取り、握手を交わした。
楊海さんはオレの顔を見てニッと笑うと、右手を離した。


「安太喜はクビにでもなったのかい? 3年連続優勝という輝かしい成績を残しているのに」
「いえ。オレが団長に立候補したんです」
「へえ、そいつはまたスゴイね。キミも対局で忙しいろうに」
「……別に。大したことはないですよ」
「ふうん。大学に通いながらタイトル戦を戦っているのに?
 あ、そういえば棋聖を獲ったらしいね。おめでとう」
「……どうも。ずいぶんとお詳しいんですね」

オレが睨みながら楊海さんにそう言うと「そんな怖い顔で睨むなよ」と言って戯けてみせた。

「『敵を知るにはまず団長から』ってね」
「……何ですか、それは」
「オレが作った格言さ」

楊海さんは笑いながらそう言うと、オレが先程見つめていた先に視線をやった。
そこには秀英、塔矢、社、──そしてヒカルがいる。

「日本チームか。今年は大丈夫かな」
「は?」
「進藤くん。彼、毎年何だか体調を崩していたからね。
 春の季節は苦手なのかな」
「………」
「進藤ヒカル──か」

楊海さんは意味ありげにヒカルの名を呟くと、そのままジッとヒカルを見つめた。
何故楊海さんがヒカルに興味を示すんだ?
不思議に思ったオレは、何やら考え込んでいる楊海さんを見つめた。

「ヒ…進藤が何か?」
「彼の棋譜は実に興味深いね。キミもそれで彼に興味を持ったんじゃないのか?
 スケジュールを押してまで、こんな若手だけの小さな大会にわざわざ来るだなんて」
「………」
「進藤くんの棋譜は随分と見たが、特にこの北斗杯で残している棋譜は殊更興味深くてね。
 だから是非とも万全の体調で臨んで欲しいのさ」
「………」
「また美しい棋譜を残してくれないと困るんだよ。オレ的に」
「………は?」


──困る?

突然の意味のわからないことを言い出す楊海さんをオレは再び見つめた。
楊海さんの視線は、先程と変わらず日の光の下で笑っているヒカルに注がれていた。


「データが欲しいんだよ。強い棋士の素晴らしい棋譜が欲しいんだ。
 オレの『最強の棋士』のためにね」
「……は?」
「高永夏くん、キミはパソコンをやるかい?」
「……まあ、メールやインターネットくらいは」
「だったらココにアクセスしてみるといい」

そう言って楊海さんは、スーツの胸ポケットから1枚の名刺を取り出した。
そこに書かれていたのは、中国の大手のコンピュータ会社の名前と、楊海さんの名前。
そしてどこかのサイトのURL。

「……コンピュータ会社に就職でもしたんですか」
「違う違う。オレが作っている『コンピュータ囲碁』さ。
 このサイトに、オレの作った『最強の棋士』がいる」

そう言いながら、楊海さんはオレが持っている名刺のURLを指さした。
そういえば、楊海さんは語学だけではなく、コンピュータ関連にも強いと聞いたことがあったな、とオレは頭の片隅で思った。
しかし、それにしても。

「……『最強の棋士』」
「まだまだ成長中の子供だがね。だが実力は本物だよ。
 強い棋士たちの棋譜をどんどん覚えて、どんどん強くなっている。
 作ったこのオレでさえ、もう1勝も出来なくなっちまった」
「………」
「スポンサーがついてから3年、漸くここまでこぎ着けた。
 サイトはまだまだ準備段階だが、『最強の棋士』完成まであと少しだ」
「…それと進藤が何の関係が?」

オレがそう訪ねると、楊海さんはオレの方を見て再びニッと笑った。
そして視線を再びヒカルへと戻す。



「本因坊秀策」




そう一言力強く言って、その言葉を聞いてビクリとしたオレの方をチラリと見た。

秀策──……?

そして楊海さんは再び言葉を続ける。



「進藤くんの棋譜は、秀策の棋譜と酷似している。
 ヨミ、打ち筋、棋風──さながら秀策の弟子だな、あれは」
「──……」
「オレも色々な棋士を調べてきたが、オレが思うにやっぱり秀策は『最強の棋士』だよ。
 ──人間の中ではね」
「………」
「それならば、オレの『最強の棋士』は秀策を超える必要がある。
 それで、進藤くんだ」
「……進藤が?」

楊海さんは少し目を細めて光の中にいるヒカルを見つめて、力強い声で言った。









「オレは、彼は秀策を超える存在だと思っている」












オレはそんな楊海さんの言葉に驚いて、目を見開いたまま楊海さんを見つめた。
楊海さんは視線を動かすこともなく、ヒカルを見つめ続けていた。

「今すぐにではないけどね。その可能性があるんじゃないか、ってことさ」
「………」
「彼のあの秀策の傾倒の仕方は半端じゃないからな。
 棋風が似ているにも程がある。本当に何か秀策と関係があるんじゃないかと思ってしまうよ」
「関係……?」

思わず聞き返したオレの言葉を聞くと、楊海さんは苦笑いをしながら短い髪の毛をポリポリと掻いた。
そして大きく息をつくと、ポカンとしているオレに向かって再び言葉を続けた。


「関係というか──何て言えばいいのかな。
 ……『生まれ変わり』だなんて言う程オレはロマンチストじゃないしな。
 だから本当はこんなたとえもしたくないんだが」
「たとえ?」






「秀策が現代に蘇って、才能ある進藤くんに囲碁を教えた──なんてな」



 




その楊海さんの言葉を聞いた時、オレは2年前の自分の言葉を思い出した。







『秀策が蘇ったら…というよりも。
 そうだな…たとえるなら、秀策が蘇って才能のあるものに囲碁を教えたとしたら。
 そうしたら、お前のような者が生まれるのかもしれない』








ヒカルに向けて言った言葉。




楊海さんは、まさにオレと同じ結論に辿り着いていた。





オレは思わず楊海さんをジッと見つめた。
すると楊海さんは「バカなことを言ってると思ってるだろ?」と言って再び苦笑した。


「他に何て言ったらいいのかわからないんだ。
 バカなことだと思いつつも、さっきの言葉が一番オレの中でしっくりときた。
 だから、オレの中で勝手に進藤くんはそういう位置づけにさせてもらったのさ。
 『蘇った秀策の弟子』ってね」
「………」
「ま、そんな秀策を超えるハズの弟子も、北斗杯ではチト様子が違うようでね」


楊海さんは大きく息をつきながらそう言うと、少し遠い目をしてヒカルを見つめた。
思わずオレの視線も、自然とヒカルの方へと注がれる。


「彼の棋譜を色々調べたって言ったろ?
 秀策に似てとても美しい綺麗な棋譜だ。
 だが、何故か北斗杯の時だけ少し変なんだ」
「変?」
「変というか……いつもと違うと言えばいいのかな。
 何かを探しているというか…そうだな、何かに呼び掛けているというか」
「……呼び掛けて…?」
「ま、オレの勝手な想像だがね。
 秀策にでも話しかけているのかな。ハハハ」



秀策に──










『皆様、お待たせいたしました。
 第4回北斗杯のレセプションを開始いたします』


その時、マイクの音が会場に響き渡った。
選手や関係者らが、バラバラと会場の前の方へと集まっていく。
オレの隣にいた楊海さんも「おっと、お喋りが過ぎたかな」と言って中国の選手達を呼んだ。
そしてオレの元を去ろうとした時、ふと足を止めてオレの方へと振り返った。



「まあ、でも残念だな。
 オレ的には、進藤くんには是非ともキミと対局してもらいたかったんだが」
「……オレと?」
「名局は一人では生まれないって言うだろ?
 対等の力を持つ人間が2人揃って初めて『名局』は生まれるんだ。囲碁ってのは厄介だな」
「………」
「彼と対等に打てるのはキミと──塔矢アキラくらいしかいないからな。
 だがこの大会ではどっちも彼とは対局不可能だ。難儀なモンだよ」


そう言って楊海さんはクルリと背を向け、会場へと向かおうとした。
その背に向かって、今度はオレが声をかけた。


「楊海さん」
「うん?」
「不可能じゃありませんよ、ソレ」
「は?」
「お望み通り、この北斗杯で見せてあげますよ。
 進藤ヒカルと高永夏の対局を」
「なんだって?」
「進藤ヒカルと打てるのは塔矢アキラじゃない。高永夏だ」
「──……」


楊海さんは呆気にとられたようにポカンと口をあけてオレを見つめた。
オレはそんな楊海さんの顔を見て、思わずクスリと笑いが零れる。
いや、この笑みは楊海さんのせいじゃないな。
ヒカルと打つという喜びのせいか、塔矢アキラには出来ないことをオレがやるという喜びのせいか。
そんなことを考えていた時、会場の中央から秀英が「永夏! 何してるのさ!」と呼ぶ声が聞こえた。
まあ待て、秀英。オレはまだこの人に伝えばならないことがある。

そしてオレはその人、楊海さんの前を通り過ぎる時に伝えてやった。





「楊海さん、本因坊秀策を超える『最強の棋士』を作ると言いましたね」
「え、ああ」
「無駄だからやめた方がいいですよ」
「何?」







「本因坊秀策を超えるのは、あなたの『最強の棋士』でも進藤ヒカルでもない。
 この高永夏だ」









それがオレの果たすべき『目的』なのだから。

ヒカルが秀策に呼び掛けているだと?
確かに今はそうかもしれない。
だがこの北斗杯の後、それは変わるだろう。



本因坊秀策を超えて、ヒカルの呼び掛けに答えるのはこのオレだからだ。






中国チームも、日本チームも、この大会で行われる対局を見ている世界中の人間も。
お前ら全員、よく見ていろ。


よく見ていろ、塔矢アキラ。













オレが秀策を超えて、ヒカルを手に入れる瞬間を。