09-2.8







北斗杯、3日目。





午前中はプログラム通り中国×日本の対局が行われた。
大将の趙石を筆頭に、他のメンバーもまだ14歳、15歳と若手ばかりで中国はチームを編成してきた。
だが確かに代表になるだけあって、斬新な手の打ち合いとなった。
大将の趙石×塔矢は、斬新な一手の応酬よりも、地味ではあるがさすがに手堅い一局となった。
趙石も善戦こそしたものの、塔矢の力強い碁には勝つことは出来なかった。
昨日の秀英と同じく、6目半で塔矢の圧勝となった。

三将の社×王(ワン)。
これには、驚かされる一手の応酬劇となった。
王の第一手目が天元なのも驚いたが、その後の社の応酬が危ういが酷く斬新な一手ばかりで、昨日の韓国戦でのミスを帳消しにするくらいの力強い碁で勝利を収めた。
後で倉田さんに聞いたのだが、社は元々奇想天外な一手を得意としており、初手天元も過去に社は自ら打ったことがあったそうだ。

そして、副将のヒカルの対局──。
毎年斬新で、それでいて美しい棋譜を残すヒカルの対局は、大勢の注目を集めていた。
確かに──一昨日楊海さんが言っていたように、北斗杯のヒカルの対局はいつもとは違う。

何かを探しているかのような──
何かに呼び掛けているかのような──

自分と打てる対局者を──自分を新しい世界へと導いてくれる対局者を探しているかのような──



まるでそれは、遙かなる高みから打っているような──……












そんなことを感じさせるような美しい碁だった。
















そして結果は、もちろんヒカルの勝利。
初めて日本は2勝を上げ、4回目にして北斗杯優勝を飾ることが出来た。





































──だがそんなことも、すべてどうでもいい。

漸くこの時が来た。













1年前の北斗杯──結局ヒカルと対局することは叶わなかった。
だから、その北斗杯の直前にあのヒカルの部屋で打った対局以来となる。


















あれからオレは、秀策の棋譜を今まで以上にさらに研究を重ね、理解を深めた。
秀策の碁をより研究するために大学にまで入ったのだ。
まだ入学して2ヶ月と少しだが、やはりソウル大学には古い日本の文献も数多くあり、今まで見たことのなかった棋譜も発見することが出来た。



漸くここまで来たんだ。



オレが本因坊秀策を超え、ヒカルを手に入れる瞬間が。




















ヒカルは、静かな表情でオレの前へと座った。

ヒカルの目をジッと見つめる。
酷く静かな、深い深い色をたたえた美しい瞳。

だが、そこには誰も映ってはいない、淋しい瞳。








ヒカル。




オレがお前に勝ったら。





その瞳にオレの姿を映してくれ。








+++++
























ヒカルとの対局が始まって、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
わからない。

酷く部屋が静かだ。




オレとヒカルの石を置く音しか響かない。



























先番はヒカル。
オレが白石を持つ。


パチリ。パチリ。パチリ。

手が進んでいく。


ヒカルにしては珍しい、三連星から始まったこの対局は、序盤はヒカルの黒が有利のまま進められた。
いつもヒカルが北斗杯で見せるような『何かを探している』ような棋譜は形を潜め、普段のヒカルらしい、石の流れをよく読んだ手厚い碁を打ってきた。
予想外のヒカルの打ちまわしに驚いたオレは、手を入れるのが遅れたために、前半は苦しい戦いを強いられることになった。

酷く静かで、重たい碁──。
いつの間にか会場は、水を打つどころか、まるで水の底に全員で沈んでしまったのではないかと思う程に静まりかえっていた。





そして、形勢は突如として逆転する。



ヒカルの黒優勢で進められていた盤面、白の44手目。
キリの一手だった。
ここで一気に形勢は変わり、オレの白が先手を取り途端に白優勢となった。















その時だったろうか。

オレは、チラリと顔を上げて盤の前に座るヒカルを見つめた。










酷く静かな顔──。

一気に形勢逆転で、白が有利になったというのに、ヒカルの表情は変わらなかった。
いつもただでさえ白い顔が、さらに白く見える。
顔色が悪い──という訳ではない。
光のせい──?
いや、違う。

そうだ、これはまるで、最初から血が通っていなかった人形のような──













オレは思わず、ヒカルの名を呼びそうになった。
だが、声が出ない。
当然だ、公式での対局中に相手に話しかけることなどあり得ない。
それでもオレは、無性にヒカルの名を呼びたくて堪らない気持ちになったのだ。

だが、声は出なかった。まるで失われてしまったかのように。

















──それからどれくらい時間が経ったのか。




盤面は進み、オレの白有利は変わらなかった。
それどころか、どんどん黒との差は開き、120手目あたりですでに白の中押し勝ちが濃厚になりそうな気配さえ漂い始めた。

だが、オレは一時も気を許すことは出来なかった。
相手はヒカルだ。

まだだ。まだ。

何が起こるか、どんな一手を突然打たれるか。

まだわからない。まだオレ達の対局は終わってはいない。



まだオレは、本因坊秀策を超えてはいない──。








オレは本因坊秀策を超えなければならないんだ。
そのためには、ヒカルから『完全勝利』をしなければならない。
今までのような、『たまたま半目勝っていた』というような勝利ではなく、完全なる勝利を。
そうしてオレは初めて秀策を超えることが出来るんだ。


完全なる勝利を──



















そんな思いを込めた一手だったのだ。
あれは。
























白、126手目。

オサエの一手。当然の一手だ。
ここを押さえておけば、オレの『完全勝利』への道へと繋がる一手となるはず。
そんな最高の一手だった。



打った時は。












その一手が、落とし穴になるとも知らず。






















































さらに手が進み───黒、135手目。



















パチリ。














一際高い音を立てて、ヒカルの黒石が左上に置かれた。







この一手は──

















































……ドクン。







ドクン。ドクン。ドクン。











何だろう。心臓の音が聞こえる気がする。
バカな。そんなものが聞こえてたまるか。

ゴクリ。
唾を飲み込む音が聞こえる。

オレの出した音じゃない。この碁盤を見ている他の誰かが出した音だ。
バカな。そんな音が聞こえる訳などないだろう。




ドクン。ドクン。ドクン。



くそっ、音が鳴りやまない。
なのに、石の音は聞こえなくなってしまった。


ドクン。ドクン。ドクン。


ああ、五月蠅い。黙れ。黙れ黙れ黙れ。
汗がにじむ。汗が頬を伝っていく音さえ聞こえてくる。
そんな音聞こえるはずなどないのに? だが、聞こえる。

酷く動きがゆっくりとして見える。まるで、スローモーションの世界。
時計の針が、正しい動き方を忘れてしまったかのようだ。




そう、黒のあの135手目が打たれた瞬間から──時が止まってしまったかのようだ。

この冷たい、静かな水の底で──。





























































なあ、ヒカル。


お前はその冷たい水の底にいて、何を想っているんだ?
誰を想っているんだ?






お願いだ。教えてくれ。








ヒカル。











ヒカル──























































































「──ありません」








あの一手からどれくらいの時間が流れたのか。

オレの投了で、オレとヒカルの対局は終了した。
オレのみっともなく掠れた声が響いた後も、会場は物音一つしなかった。
そして、そのシンと静まりかえった会場に、オレとは異なる声が響いた。
その声は、少しだけ高い、柔らかくて優しい声。
オレの愛しい声──




「ありがとうございました」






ヒカルはそう言って、ペコリと頭を下げた。
その瞬間に、オレ達の会場は水の底から光のあたる地上へと戻り、時の流れを取り戻した。

途端に、会場は大きなざわめきとどよめきに変わる。


「…………凄い……」
「何て……何て一局だ……」
「あんな一手があり得るのか……?」
「あんなに小さくなっていた黒が……あの左上の一手で、一気に白をすべて殺してしまった」
「白の44手目で初めてあそこでキリを使ったのは、『さすが高永夏!』と思ったんだがな」
「いや、その一手はまさに『さすが』の一手ですよ。あそこで白が一気に逆転した」
「……だが……」
「………ああ………」
「その究極の一手すら、この黒の一手で地雷になってしまった」
「………こんなことが……」
「そして、あのオサエのはずの126手も……」
「…………」
「…………」



会場のざわめきは、いつまで経っても静まらなかった。
だが、そのざわめきはどこか不安に包まれたようなものだった。
何か酷く恐ろしいものを見てしまって、どうしたらいいのかわからない──そんなざわめきだった。

オレの後ろに立って見ていた秀英の顔を見上げると、秀英は盤面を凝視したまま固まっていた。
少しだけ開かれた唇は、恐らく随分前から開かれたままになっているのだろう。
乾燥してひび割れ、血が滲んでいた。

そして、同じようにヒカルの後ろに立っていた塔矢アキラも──対局が終わった後も微動だにせず、まるで自分が対局をしていたかのような厳しい表情で盤面を見つめていた。
いや──その塔矢アキラの表情は、厳しいというよりも──どこか哀しげでさえあった。

その時オレは、何故塔矢アキラがそんな表情をしているのか、全くわからなかった。


それは随分後になってわかることとなるのだが──今思えば、あの時、塔矢の表情の意味がわからなかった時点で、オレはヒカルに勝つことなど出来るはずもなかったのかもしれない。





そう、オレにはわからなかったのだ。

ヒカルが何を想ってこんな棋譜を残したのか。
誰を想ってこんな棋譜を残したのか。



誰を、この棋譜で呼び掛けていたのか──




















オレは、わからなかったのだ。
だからオレはそのことをヒカルに尋ねようとした。
棋士として情けないが、石から読みとることが出来なければ、本人に聞くしかなかったからだ。



オレが盤面から顔を上げて、「ヒカル」とその名を呼ぼうとした時──。



ヒカルの小さな口がわずかに動いて、酷く小さな声が発せられた。
その声は、他の誰にも聞こえず──その盤面の前にいたオレにしか聞こえないような小さな声で。


















































「──……った」

「え」




























































オレが聞き返すヒマもなくヒカルは立ち上がると、そのまま部屋を出ていった。
そのヒカルの後を追うようにして、団長の倉田さんが出ていく。


オレとヒカルが作り上げた棋譜の前には、オレだけが一人ポツンと取り残された。








ヒカル、今の言葉はどういう意味だ?









そしてこの棋譜はどういう意味だ?














オレにはわからない。







教えてくれ、ヒカル。