09-4.5







「ホンマに……ホンマに何も知らんのか?」







社の固い声が、グツグツと揺れる鍋の音だけがする静かな部屋に響いた。
社は立ったまま固い表情でジッと僕のことを見つめていた。
その表情は酷く疑問と懸念に満ちていた。



















何も知らない──……?









僕が?










何を?

























「……何も……知らないってどういうことだ?」




僕が社にそう聞き返すと、社は我に返ったのか「あ」と小さい声を上げて口元をおさえた。
まるで言ってはいけないことを言ってしまったかのように。
そしてチラリと僕のことを見ると、所在なさげな態度で一歩後ろに後ずさった。


……何も知らない。僕が?

僕の知らないことをキミが知っているとでもいうのか?

僕が知らない、進藤のことを。



僕はさながら対局中のごとく社を睨みながらもう一度口を開いた。



「キミは何かを知ってるのか?」
「いや…その」
「僕の知らない進藤のことを、何か」
「………」



社は酷く言いにくそうに口をモゴモゴとさせると、再び黙り込んでしまった。
一体キミは何を知っているというのだ。

確かに僕は何もわからなかった。

何故進藤が突然あんなこと──僕と一緒にはいられないなどと言い出したのか。
お見合いの誤解は解いたはずだ。

それに、それ以外でもわからないことを口にしていた。
確か『僕とずっと一緒にはいられない──それは一緒に暮らす前からわかっていたこと』
それから『自分のことばかりを考えていた』
……とも。

まさか社は、進藤が一体どういった意味でこのようなことを言ったのかわかっているとでもいうのだろうか。





「今──僕は何もわからなかった。
 進藤が何故怒って、何故出ていってしまったのか。
 僕が黙ってお見合いをしていたことに不安になって怒ったというのならわかる。
 だがそうじゃない、と彼は言う。
 僕にその女性と幸せになってくれれば良い、などと言う。
 ついこの前まで僕を好きだと彼は言ってくれていたんだ!」
「……」
「なのに『僕とはもう一緒にいられない』って…しかもそれは『ずっと前からわかっていたこと』だなんて言う」
「……」
「まったくわからないんだ」







怒りからなのか、不安からなのか──自然と声がワナワナと震えた。
もし怒りだとすれば、これは一体何に対しての怒りなのだろう。
もし不安だとすれば、これは一体何に対しての不安なのだろう。

何も知らない自分に対してなのか、それとも何も語らない彼に対してなのか。
彼のいなくなってしまったこの部屋でどこにぶつけたらいいのかわからないこの感情を、僕はどうしたらいいのだろう。

そしてもう一度僕は、僕の知らない何かを知っているのかもしれない社を問い質した。








「社、キミは何か知っているんじゃないのか。
 もし知っているのなら教えてくれ!」
「………」
「社!!」







高ぶる感情は、自然と声を荒げる。
そんな僕の様子を見ていた社は、所在なさげだった態度から酷く静かな表情へと変わり、こちらも対局中のごとくジッと僕を見つめた。
そして、低い静かな声で話し始めた。






「………確かに……
 オレは……今のお前よりも、進藤の……
 その、事情っちゅーか…ちょっと知ってるかもしれん」
「事情?」







僕が思わず聞き返すと、社はフウと息をついて頭をボリボリと掻きむしった。



社が知っている進藤の『事情』。
僕の知らない、進藤の『事情』。





僕の知らない『事情』って何だ。


進藤。





思わず握っていた拳にグッと力が籠もった。
それはまるで、社がこれから話すことを取りこぼさないようにするかのように。










「春に…4回目の北斗杯終わった時、アイツ大阪来たやろ。
 お前迎えに来たやんか。
 そん時にな……ちょっと聞いたんや」
「………」
「でも、お前が何も聞かされてへんとは思わんかった。
 一緒に暮らすって言うから、オレはてっきり全部知ってるモンだと…」










社の低い声で話すその言葉を聞いた時、先程聞いた進藤の言葉がフラッシュバックするかのように、僕の頭をよぎる。













『……オレ、ホントはわかってたんだよ。ずっと。お前と一緒に暮らす前から。
 オレとお前は、ずっと一緒にはいられないってわかってたんだよ』















一緒に暮らす前から……?


僕の頭の中は、なかなか処理しきれない情報で埋められていく。
そんな僕の頭の中のことなど知る由もない社は、次々と言葉を続けていった。














「だってそうやろ? 
 アイツの事情を知って一緒に暮らすなんてこと……」
「………」
「そんなん……辛すぎてなかなか出来ることやないし……」
「……」
「それでも……暮らすっちゅーから……塔矢もすべてをわかった上でって……オレ…
…」
「………」
「………」












何も言葉を発することの出来ない僕は、黙ったまま社を見つめた。
社は会話の噛み合わない僕を疑問に思いながらも言葉を続けていたが、僕が何も言わないことをおかしく思ったのか言葉を止めて不安げに僕を見つめた。

そして僕と目があった瞬間に、社はふと何かを思いついたのか、ハッとした顔をして再び僕を見つめた。
そして社は、その思いついたことをそのまま僕に向かって伝えた。



















「それで……か?」
「……え?」
「アイツ……それで何も塔矢には言わへんかったのか……?」
「……………」
「塔矢と一緒に暮らすために……」
「……………」

















「お前と一緒にいるために、お前に何も言わんかったんか……?」
















社が少し震える声でそう言うと、静かにスウと息を飲む音が僕の耳に聞こえた。
その瞬間、僕の頭の中に先程と同じように、進藤の言葉がフラッシュバックのように
蘇る。











『オレ、自分のことばっかり考えて…。お前のこと、ちっとも考えてなかったんだって…』






















僕たちはずっと一緒に暮らすことは出来ない。
それは一緒に暮らす前からわかっていたのに。
でも僕と一緒にいるために黙っていた。
僕の知らない進藤の『事情』を。









『本当に、囲碁が。囲碁が好きなんだな。
 オレはお前のそーゆーところが一番好きなのかもしれない』


『いつか、わかる日が来る。もしも、今はわからないと思っていてもいつか──。
 ずっと、一緒にいれば。ずっと一緒にオレ達は打ち続けていれば。
 わかる日が来るよ』


『オレ、オレお前のこと好きだよ。塔矢。それは変わってない。
 でもオレ、わかったんだよ。
 いつまでもそんなこと言ってられないって』


『……オレ、ホントはわかってたんだよ。ずっと。お前と一緒に暮らす前から。
 オレとお前は、ずっと一緒にはいられないってわかってたんだよ』






『塔矢。………ごめんね』











進藤が今まで僕に告げてきた言葉が、次々に僕の頭の中を通り過ぎていく。
進藤の様々な表情と共に。

怒ったり。泣いたり。笑ったり。
色々な表情で進藤は今まで僕に語りかけてきた。




僕はその中で、本当に彼の言葉を理解していたのか?


もしかして──もしかして何か見落としがあったんじゃないのか?


僕の気付かない進藤の感情が、その言葉の中にあったんじゃないのか?







僕の知らない──本当の進藤の姿があったんじゃないのか?












進藤の表情が頭の中で通り過ぎていくのと同時に、バチバチッと何かが弾けるような音がする。
そう──まるで明かりの切れかけていた電球がバチバチッと音を立ててついたり消えたりしているような。

もう少し。
もう少しで何かがわかるような気がするんだ。


何かって何だ?

よくわからない。
でも何かがわかる気がする。



その頭の中でついたり消えたりしている電球にすべて明かりが灯されて──するとそれが点となって一筋の線になり、繋がっていく気がするんだ。
その線を辿っていけば、見つかる気がする。
わかる気がする。


















本当のキミが。



























「塔矢」


社の声で、深い意識の中に沈んでいた僕の気持ちが現実へと戻ってくる。
深く深く沈んでいたせいだろうか、上手く身体が動かない。

ひどくぎこちない動作で社へと振り向くと、社は何かを決意したかのような強い瞳で僕のことを見つめていた。


「塔矢。
 悪いけどな、オレはお前に進藤のその『事情』っちゅーのを言うことは出来へん。
 絶対に。
 お前は、それは、進藤本人から聞かなきゃダメだ」
「………」
「だから、探しに行こう。早く進藤を探そう。
 そしてアイツに直接聞くんだ。お前自身から」
「………」
「塔矢」


社はもう一度意志の強い声で僕の名前を呼ぶと、僕のすぐ目の前まで近づいて同じく強い声で僕に語りかけた。

まるで、深みに填って動けなくなってしまっている僕を、力強く引っ張り起こすかのように。







「進藤も、お前も。
 自分の気持ちには自分で責任取らなあかんで」










社はその言葉を言い終えると同時に、僕の肩をポンと叩いた。
するとその瞬間に、金縛りにかかっていた僕の足は何かに弾かれたように前へと動きだし、僕は自分の部屋へと飛び込むと上着を掴んで外へと飛び出していった。
背後で社が「コラ待てぇ! 鍋の火消してけ!」と叫ぶのが聞こえた。





外に飛び出す。
真夜中の冬の冷たい空気が、走り抜ける僕の身体に当たる。
まるで身体がビシビシと切られていくかのように痛い。
進藤、キミもこんな身を切るような冷たい空気の中を走っていったんだね。

僕が暫く走っていると、背後から社の追いかけてくる足音が聞こえた。








社、ありがとう。
キミが改めて気付かせてくれた。




そうだね、僕も進藤も自分の気持ちには自分で責任を取らなければならない。




たとえ進藤に、どんな真実が隠されていようとも。



























ねえ、進藤。






僕は案外キミのことを何も知らないのかもしれないね。

キミのことを何もわかってないのかもしれない。

僕はいつも自分の気持ちだけに一杯一杯で。

本当のキミをわかろうとしなかったのかもしれない。

だからキミの『事情』もキミの抱えている『真実』も見えなかったんだね。

そんな僕でも今一つだけ言えることがある。

僕は、僕はキミが好きだ。

何が起ころうとも。

キミが何を想って、何を抱えていようとも。

僕はキミが好きだ。

それは出会った時から変わらない。

僕はキミが好きだ。

進藤を見つけたら、もう一度そう伝えよう。































僕は、キミが好きだ。




































そして本当のキミが知りたい。