その昔──僕がまだ幼い子供だった頃。
ある夏の日の夜、僕は緒方さんに連れられて近所の夏祭りへ出掛けた。
名人・碁聖を獲得し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでひたすら囲碁に明け暮れていた父。
そんな父がゆっくりと家にいることはとても少なかった。
それにたとえ父が家にいたとしても、父はその時間のほとんどを自分の部屋で囲碁を打つことに費やしていた。
幼かった僕は、その時にはもう碁石を持ち十九路盤で碁を打っていたのだけれど、それでも一人検討をする父の傍には近寄りがたかった。
だから僕は、幼い頃に父と二人で出かけた記憶がほとんどない。
そんな僕が今でも鮮明に覚えているのは、あの夏祭りの夜。
緒方さんと二人で出掛けたあの日の記憶だった。
僕は母に着せてもらった藍色の浴衣を着ていて、緒方さんはいつもと同じような白いYシャツ姿で煙草を燻らせていた。
夜のやや涼しくなった風の吹く中、カラカラと乾いた音をたてて回る鮮やかな風車。
冷たいかき氷のシロップの赤い色。
白い雲のような綿菓子。
夜空に黄色く浮かび上がる裸電球の眩しい明かり。
少し生ぬるい水の中をスイスイと泳ぐ、色とりどりの金魚たち。
そして、暗い夜空に大きな音を立てて散った、美しい花火────
どれもが皆鮮やかに瞼の裏に焼き付いていて、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
その時僕はまだ4歳で。
緒方さんの大きな手を掴んでいなければ、すぐに転んでしまうような小さな子供で。
それでも、鮮やかに散る花火を見つめるその人の横顔を見た時。
僕はこの人が好きなのだ、と。
心から思った。
Seasons
─Summer─ act.04
緒方精次。
現在十段・碁聖の二冠を保持し、碁界のトップの一人であるその人は、僕が物心ついた時にはすでに父の弟子となっていた。
とある知り合いのツテで父と出会い、彼がそのまま父の一番弟子として入門した時にはまだ中学生だったという。そして外来としてプロ試験を受けて合格し──若手の中でも抜きん出た存在の一人となって現在に至るのである。
そんな緒方さんは、僕が幼い頃より知る「父以外で一番碁の強い人」だった。
それこそ、僕が石を持ち始めたばかりの幼い頃より緒方さんとは盤を挟んできたのだ。
父以外で最も一緒に碁を打った人でもある。
──そして、僕よりも強い人だった。
緒方さんの碁は綺麗だった。
師である父譲りの力強い碁の中に、繊細で緻密に計算された石の流れが常に見えた。
熱心な研究と勉強、そして心から碁を愛している緒方さんだからこそ生み出すことの出来る、綺麗な綺麗な碁だった。
僕は、そんな緒方さんの碁が好きだった。
緒方さんと打つことが好きだった。
緒方さんと盤を挟み、盤の向こう側から放たれてくる石を見る度に、僕はとても満たされている気がした。
そんな風に思える人は、緒方さんだけだったんだ。
ああ、僕はこの人の碁が好きだ。
この人の打つ一手が好きだ。
この人の石を持つ手も。
碁に対する考え方も。
眼鏡の奥の色素の薄い瞳も。
そして盤の向こう側から僕を──僕だけを見つめるあなたが、僕は好きだった。
そう、僕は緒方さんが好きなんだ。
誰よりも僕の傍にいて、美しい碁を打つあの人が、僕は好きなんだ。
そう自覚してから緒方さんを見つめると、自然と胸が高鳴るのを感じた。
煙草の苦い香りや独特の匂いの香水に、頭の奥がクラリと揺れる感じがした。
──そうか。きっとこれが『恋』っていうんだな。
あの夏の花火を一緒に見て「この人が好き」と思ってから13年──僕は『恋』を自覚する。
僕は、緒方さんに『恋』をしていた。
++++++
「いやあ、素晴らしい対局でした」
「塔矢先生も緒方十段・碁聖を相手に最終局までもつれ込む戦いぶりで…本当にお見事でした」
「これが初めてのタイトル挑戦とは思えませんな」
「先生、検討も終了したことですし、別室でもう少し詳しいお話を」
ああ、眩しい。
目の前で瞬かれるカメラのフラッシュが眩しくて堪らない。
そんなに強い光を浴びせないでくれ。
見えなくなってしまうじゃないか、僕と緒方さんが作り上げた棋譜が。
僕は目を細めながら目の前にある盤上を見つめる。
黒と白の石が鬩ぎ合う盤上──僅かに勝ったのは、緒方さんの持つ白石だった。
8月の中旬、真夏の暑い日。
長野にあるホテルで碁聖戦第五局が行われた。
タイトル保持者は緒方精次十段・碁聖。
そして挑戦者は僕──塔矢アキラ四段だった。
四段という段位でタイトルの挑戦者になることは、普通あまりない。
そして、これはもう一生つきまとうことなのだけれど──僕が「塔矢行洋の息子」ということで、僕のこの碁聖戦挑戦は異常な程に注目されていた。ましてや相手が兄弟子である緒方さんだ。注目されて当たり前のことだし、それによって囲碁が世間的に注目されるのであれば協力もすべきだと思う。それでもやっぱり、時折鬱陶しくもなる。
それは僕がまだまだ子供のせいなのか、それとも器が小さいとか、そういったせいなのか。
少し不安になって、だいぶ前に緒方さんに聞いたことがあった。すると緒方さんは笑いながら「じゃあ、塔矢先生も器が小さかったことになってしまうな」と言った。
「先生はそもそも、そういった煩わしい事柄から逃れてもう一歩自分を高めるために、引退したのだしな」とも。
緒方さんと父の付き合いは長い。
それこそ、僕が生きている年数よりも長いのだ。
だから、緒方さんが父のことを実の息子である僕よりもよく知っているのは当然なのかもしれなかった。
そんな風に、緒方さんから僕の知らない父の姿を聞くことも好きだったんだ。
緒方さんが好き。
そう、僕はこの人が好き。
そんな僕の好きな人の保持するタイトルに挑戦することはこの上ない喜びだったけれど、打ってみてさらに強い喜びを感じた。
勝負には敗れてしまったけど、素晴らしい棋譜を残すことが出来たんだ。
力強い石の流れ、新たに生み出される輝くような一手。
これは、緒方さんと僕だからこそ生み出すことの出来る棋譜。
嬉しかった。大好きな人と一つのものを作り出す喜びは、何にも代え難かった。
だから、もっともっとこの棋譜を見つめていたいのに。
もっともっと、この棋譜を僕と一緒に生み出した人と、検討していたいのに。
なのにそれを妨害するかのように目の前で瞬かれるフラッシュ。
ああ、鬱陶しい。
「……すみません、後できちんとお答えしますから、少し時間を頂けますか?」
そう言って僕は席を立つと、緒方さんや取材陣のいる対局室を出ていった。
部屋を出てホテルのロビーを抜け、テラスのようになっている場所へたどり着く。
昼から始めた対局が終わり、検討も終えた今──空は夜の闇に包まれていた。
見上げると星がキラキラと光っている。東京とは随分と数も光の強さも違うんだな、と思って見つめる。
そんな輝く星を見ながら、僕はふと考える。
碁盤の上に打たれている九つの点を「星」と呼ぶ。そんな風に、囲碁の一手を星に準えて語ることもある。
打たれる一手一手がどれほど輝いたものになるかで、その棋譜の価値が決まると僕は思う。
この碁聖戦で僕と緒方さんが作り上げた棋譜は、どれもすべて輝いていた。
あんなに輝く一手を打てたのは、緒方さんが相手だったからこそだ。
告白しよう。
星空を見つめていて、急にそう思った。
緒方さんは、僕は緒方さんにこんな風に想いを寄せていることを知らない。
伝えてどうなるのか、その先に何があるのか──今の僕にはわからない。
少し怖いけど、それでもいい。ただ知っていてくれるだけでいい、と進藤も言っていたじゃないか。
進藤も。
ふとそう考えた時、夜空の輝く星の向こうに進藤の顔が浮かんだような気がした。
あれは──3ヶ月前の北斗杯で、洪秀英と打ち終えた後の泣き出しそうだった進藤の顔。
あんな輝くような一手を放って、何故そんな顔をするのか。
わからない。彼はわからないことだらけだ。
「いつか話すよ」と言ってくれた事柄も未だに話してくれないし、時折あの北斗杯前の時のように不安定になる理由もわからない。
何よりも、彼は僕を「好きだ」と言ったのだ。その理由もわからなかった。
そうやって進藤のことを考える度に、僕は胸の奥がピリリと痛むのを感じた。
それは今に始まったことじゃない。彼と出会った──5年前からそうなのだ。
彼と初めて碁会所で、あの信じられないような碁を打った時も。三将戦を打った時も。
ネット碁でsaiの名前を見つけた時も。院生からプロになったキミを見た時も。
──キミが突然打つことをやめてしまった時も。そして再び、僕の前に戻ってきてくれた時も。
僕はいつだって、キミのことを考えると胸が痛むんだよ、進藤。
キミに「好きだ」と言われたその日から、よりその痛みが増したような気がして苦しくなって、極力キミのことを考えないように努めたりした。でもそれも無駄な努力だった。油断するとすぐに胸の奥に、頭の中にキミの顔が浮かんでくるんだ。
そして、僕の胸の奥をキミはチリチリと焦がしてゆく。
この気持ちは何なのだろう。
わからない。
本当に、進藤のことはわからないことだらけだ。
進藤のことはもちろん嫌いではない。それどころか、僕の生涯のライバルとして、かけがいのない大切な人だ。
でも「恋愛」として考えると──そういう対象として、進藤のことを考えたことはなかった。
それはそうだ、僕の好きな人は緒方さんなのだ。
だって、緒方さんのことを考えている時はこんな風に胸は痛まない。
また素晴らしい碁を打つことが出来た、一緒に輝くような一手が打てた──そんな強い喜びに支配されて、緒方さんのことを考えている時にはいつも胸が高鳴った。
ドキドキして、幸せで心地よい感情に胸の中が支配されていった。
進藤のことを考えると、胸が痛んで苦しくなるのに。
──だから、これは恋じゃない。
恋じゃないんだ。
だって、恋とは楽しくて幸せなものでしょう?
答えのない問い掛けを胸の奥で僕は浮かべる。
そうしてまた泣き出しそうな進藤の顔が浮かんで消えて、僕の心を痛ませるのだった。
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