『恋』という感情は
どんな難解なパズルよりも複雑で
底が見えないのではないかというくらいに奥が深くて
そしてその難しさは『囲碁』と少しだけ似ている。
Seasons
─Summer─ act.05
「好きです」
耳を疑うかのような言葉が部屋に響いて、新聞に落としていた視線を思わず上げてしまった。
すると、目の前に立つ両頬をバラ色に染めた少年と目が合う。
生まれた時から見続けているその黒い瞳は幼い頃より変わりなく、今も真っ直ぐに前を見つめ続けている。
もちろん今は、さぞ間抜けな顔を晒しているであろうオレのことをジッと見つめいる訳なのだが。
確認するまでもないが、今の彼が発した台詞はオレに言ったんだよな。
だって、ここオレの家だし。オレしかいないし。
その時のオレの気持ちとしては、予想外とか驚いたとかよりも「ついに来るべき日が来てしまった」というような感覚だった。
いつか彼がオレの挑戦者、そして良きライバルとして目の前に立ちはだかるであろうことと同じくらいに、彼がいつかその気持ちをオレにぶつけてくるであろうことはわかっていたのだ。
……でも出来ることならば、避けて通りたかったけど。
オレはハァと息をついてから新聞を畳み、先程彼が煎れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
うん、美味い。濃さといい温度といい、さすがにオレの好みを熟知している。勤勉家で努力家である彼らしい。
そんな彼は決して嫌いではないしむしろ好きだし、出来れば……出来れば傷つけたくなかったんだがな。
でも仕方ない。『恋』とは傷だらけの道の先にあるものなのだ。
大人として、兄弟子として教えてやらねばなるまい。
「…好き、とはオレのことが…か?」
「はい」
「それは人間として? それとも恋愛感情として?」
「……前者の意味でも好きですけど、今言っているのは後者の意味です」
「成る程」
一応の確認をした後に、オレは煙草を1本銜えて火を点け、白い煙をフウッと吐き出した。
彼は対局中と同じように視線を逸らすことなく、真っ直ぐにオレを見つめている。
これはやっぱりアレか。答えを求めているんだろうな。
答えって? 告白の時の受け答えって、どうやるんだっけ?
近年のオレの事情といえば大概は好きとか嫌いとかの言葉もなく肉体関係から始まることが多かったからな、すっかりその前に至る『手続き』というヤツを忘れてしまっていた。
やっぱり、「オレも好きです付き合ってください」もしくは「ごめんなさい他に好きな人がいるんです」とか、そういった系なんだろうな。
…………なんて答える? 彼に。
嫌いな訳ではない。
むしろ好きだと思う。
だが恋愛感情として好きだとか何だとか、そういう風に思ったことはない。
「他に付き合っている人がいます」とか? 確かに今2人程関係を続行中の女はいるが、交際しているのかというと別にそういうつもりは(オレは)ないし。
なら「他に好きな人がいます」、か?
…………。
や、コレは違うだろ。そんな言葉を彼に言いたくない。というか言えない。
というか単刀直入に「そもそも男同士じゃん」というところからスタートした方がいいんじゃないのか?
……なんて、そんなことを彼に言っても全く無駄だということは百も承知だから言わないけどな。
ああ、しまった。
彼がオレにいずれ告白してくるであろうという事実は散々シミュレートしてきたというのに、肝心の『その後の受け答え』については全く考えたことがなかった。完全なシミュレーション不足だ。
どうする、どうする。こういう一手の場合はどう切り返す?
どうしてオレは肝心なところで肝心の一手が思いつかないのだろう。
だからいつまで経ってもなかなか先へ進めないんだろうな。なんとか二冠は取ったけど、本当に一番欲しかったのは「本因坊」と「名人」なのだ。本因坊は挑戦者にまでなっておきながら結局ジジイにいいようにあしらわれて1勝4敗という散々な結果で破れ、名人戦に至ってはリーグ戦で早々に敗退してしまった。情けない。
馬鹿だ、オレは。本当に。
肝心の一歩を踏み出せなくて、いつも同じ場所でウロウロしていて。
結局辛うじて返せた言葉といえば、
「…………勘弁してくれ」
なんてグダグダな答えで。
アホかオレは。
ああ本当に難しい、『恋』ってヤツは。
囲碁に似て難しくて面白くて。
そして苦しい。
++++++
塔矢アキラと出会ったのはいつだったか。
……いつだったかも何も、彼が生まれた次の日だったのだから、今から17年も前のことになるのか。
オレも歳を取るはずだ。
その当時中学生で塔矢先生の元へ弟子入りして間もなかったオレは、つい一昨日までお腹の大きかった明子さんがオレが期末試験中でたまたま塔矢家を訪ねることの出来なかったたった2日の間に元のスリムな体型に戻っていて、そしてその腕の中に真っ赤な顔をして泣く赤ん坊を見た時には、……なんというか女性の神秘を見たような気がしたものだった。
不思議だな。本当に人から人が生まれるんだな。
そんな当たり前のことがその当時の思春期を迎えたばかりのオレには衝撃的で、何時間も食い入るように生まれたばかりの赤ん坊を見つめていた。
──それが、オレとアキラくんの出会い。
塔矢先生に似て利発で、そして明子さんに似て愛くるしい顔のアキラ少年はスクスクと大きくなり、物心がつくかつかないかの頃にはすでにその小さな右手の中に碁石を握っていた。
幼稚園に上がるよりも以前からアキラくんは塔矢先生から囲碁の教えを受け、先生の時間が許す限り先生と打ち続けていた。
たった4歳の子供が当時の名人相手に8つしか置き石をしていなかった。
鬼神のような強さを誇るその人の血を引いて生まれた子供は、やはりとてつもない大きな才能という光を秘めていた。
──いずれこの子はオレの前に立ちはだかり、そして追い抜いてゆくだろう。
初めてアキラくんと打ったその日、オレはそう思った。
それからというものの、オレとアキラくんは数え切れないくらい盤を挟んできた。
忙しくてなかなか時間の取れない先生の替わりに、オレがアキラくんと碁を打ち手ほどきをしたこともあった。
そうして時が経ち、彼は幼稚園から小学校へと上がり成長していく。
アキラくんは素直なよい子だったが、同年代の友達は少なかった。いや、少なかったというよりも皆無に等しかったと言ったほうがいい。
大人に囲まれて育ったせいか、昔からどこか年齢よりも大人びた子だった。同年代の子供達からみれば少々取っ付きにくい部分もあっただろうし、アキラくん自身もどうやら自分と同い年の子供にはあまり興味を持てないのか、自分から積極的に友達作りに励んでいる様子もなかった。
オレはそんなアキラくんと一番長い時間を共に過ごし、そして彼が己の天命とする囲碁を共に打ち続けてきたのだ。
今にして思えば、子供に興味を持てなかった彼が、自分にとって身近な『大人』であり、そして『囲碁の強い』人間に心惹かれるのは当然のことだったのかもしれない。
……その人間がつまり、オレなのだけれど。
アキラくんの想いはわかりやすかった。
元が素直な子なのだ。その想いも酷くストレートで、本人は隠しているつもりなのかもしれないが、わかりやすいものだった。
オレが気付かないフリをするのが大変なくらいだった。
手合いで対局中の時も。
研究会の時も。
ちょっとした雑談の時も。
こうして、ウチに呼んで二人で打っている時も。
彼の想いはとても純粋で、そして真っ直ぐな視線をもってオレに「好きだ」と伝えてきたのだ。
……そう、彼は純粋なんだ。
囲碁と大人に囲まれた環境の中で育って。それだけを見つめて育ってきて。
だから彼は純粋で、そして知らない。
『恋』という感情の“奥行き”を知らないだけなんだ。
アキラくんがオレにぶつけてくる『恋』によく似たこの感情は、実は『恋』ではない。
よく似ているが違う。
彼の抱く想い──それは『憧れ』という感情から生まれる『好意』だ。
大人に囲まれて育った彼は、きっと早く大人になりたかったに違いない。
そんな時に、たまたま傍にいた手頃な大人がオレだっただけだ。両親以外で一番身近な大人──それがオレなんだ。
そんなオレに『憧れ』を抱いてそれが『好意』へと変化し、『恋』をよく知らないアキラくんはこの感情を『恋』だと勘違いしているに過ぎない。
もっとわかりやすく言えば、要は卵から孵った雛が一番初めに見たものを親だと思いこむ行為──いわゆるインプリンティングというヤツと同じなんだ。
アキラくんがオレに抱いている感情はたったそれだけのモノに過ぎないんだよ。
どう言えば伝わる?
どうすればお前のその思考を『上書き保存』することが出来る?
そんなことを悶々と考え続けて早10年近く──オレが彼の思考を上書き保存するよりも前に告白されてしまった。
失態だ。すまん、アキラくん。
お前に恋をしているヤツがちゃんと他にいて。
そしてオレなどではなく、お前が真に恋すべき相手も、こんなにすぐ近くにいるのに。
なあ、アキラ。
なのにオレは、それを教えてやることは出来ないんだよ。
絶対に。
そう考える度に思う。
やっぱり『恋』ってヤツは厄介で、そして酷く苦しい。
この苦しみを、お前に教えてあげることが出来ればいいのに。
++++++
アキラくんから予想外に早かった告白を受け、それに対してまるで準備を行っていなかったオレはグダグダの返答をしてしまい、案の定オレと彼の間は微妙な空気が流れた。
どんよりと濁った空気が充満する自分の部屋が息苦しくなったオレは、近所で行われるという花火大会に彼を誘い出すことにした。
「花火でも見にいくか」と言ったオレに、彼は顔を上げてパアッと明るい表情を見せた。
その表情を見て、これから『恋』の苦しさを教えなければならないのだと思うと、僅かに胸が痛む気がした。
その痛みを誤魔化すかのように、オレは胸の中を煙草の煙で充満させた。
鼻の奥がツンと痛む程に深く吸い込んだ煙を、真っ暗な夜空に吐き出していく。
白い煙はゆっくりと暗い空へと昇っていって、静かに消えた。
花火が見える公園のベンチでオレの隣に座り、そしてその消えてゆく煙の先を見つめながらアキラくんは口を開いた。
「間違ってますか? 僕の言っていること」
「………」
「あなたを好きだと言ったこと」
静かな声でそう言ったアキラくんの顔を、オレは横目でチラリと見る。
彼は特に表情を変えることのないまま、真っ直ぐに夜空を見つめていた。
「……間違っちゃいないさ。誰かを好きになるのに、正解も不正解もないだろう」
「でも、僕ではダメなんですか?」
「………」
「何故?」
そう尋ねる彼の声とオレを見つめる視線はいつもと変わらず凛としていて一点の曇りもなかった。
何もかもを見透かしてしまいそうなその黒い瞳は、オレの中に淀む様々な感情を暴いてしまいそうだった。
嘘はつけない。誤魔化すことも許されない。
適当な答えをしたって、この子には見透かされてしまうだろう。
それ程にこの子は純粋で、そしてオレのことをよく知っている。
オレもこの子をよく知っている。何しろ生まれた時から見つめ続けているのだ。
大切だった。だから出来れば傷つけたくなかった。
でも誰も傷つけないでいられる程、『恋』というヤツは生易しいモノじゃない。
「……オレは」
──そう、オレが口を開きかけた時。
暗かった夜空を切り裂くような、ヒュルルッという高い音が響いた。
そして、ドーンという爆発音と共に、美しい花火がオレと彼の目の前で鮮やかに散った。
綺麗だ。
花火なんてもう何十回と見ているのに、心の底からそう思ったのは初めてだった。
その後も何発も目の前で散っていく花火を見る度に、オレの中に淀み、そして心を固く閉じていた蓋が1枚、また1枚と剥がされていくのを感じた。
そうしてすべての蓋が取り外された頃に、オレの中に堪っていた想いはオレの口を突いてスルリと表に出ていった。
「オレは、他に好きなヤツがいる」
「………」
「だから、お前の想いに答えてやることは出来ない」
「………」
「すまない」
オレがそう言った後も、アキラくんは表情を変えることなくボンヤリと目の前で散る花火を見つめ続けていた。
その後オレ達の間は花火の散る音しか響かず、暫くの間沈黙が流れたが──どれくらいの時間が経った頃だろうか、花火も終盤に近づいた頃に漸くアキラくんがゆっくりと口を開いた。
「他に…好きな人」
「………」
「それは…僕の知っている人ですか」
「……ノーコメントと言っておこうか」
「……そうですか」
そう答えた彼の声は、花火や人の声に掻き消されてしまうくらいの小さなものだった。
彼の声がそうして消えた後に、ふと左肩に温もりを持った重みを感じた。
何事かと思って視線を移すと、見慣れた黒髪がオレの肩にもたれ掛かっているのが見えた。
触れている肩の先がどんどんと熱を持っていくのがわかる。
何だか酷く体温が高く感じる。
まだ子供だからか? そうはいってももう17になるのだ、子供という程の歳でもなかろうに。
もしかしてショックから(知恵)熱でも出したんじゃないだろうな。
そう思ってオレが「アキラくん…」と名を呼び掛けようとしたよりも僅かに早く、彼が口を開いて小さな掠れた声を出した。
「……おがたさん…覚えてますか?」
「何を?」
「13年前も……こうして二人でお祭りに来て…花火を見たこと……」
「………」
「あの花火も……綺麗だった」
「………」
「僕はその時に、あなたのことが好きになった」
「そうか」
オレが静かな声でそう答えると、アキラくんはクスクスと笑いだし、その振動が触れ合っている肩を通じてオレに伝わってくる。
アキラくんは笑いながら花火を見つめ、そして再び口を開いて言葉を続けた。
「つらいなあ……」
「………」
「失恋って、つらいですねえ……」
「……そうだな」
「進藤も……こんな風につらかったのかなあ……」
進藤という名前を聞いて、思わずピクリと揺れてしまったような気がした。
そのオレの僅かな動揺がアキラくんに伝わってしまったのではないかと思い、チラリとその様子を窺ったが、彼はどこかトロンとした目で花火を見つめ続けたままだった。
「進藤のことを…考えると……苦しくて……」
「………」
「だから……ぼくは……おがたさんを……」
「………」
「……しんどう……」
最後の花火が華々しく散ったのと同時に「進藤」と小さな声で名を呼んだ彼の声は静かに消えて、そしてそれは間をおくことなくスースーと静かな寝息の音に変わった。
触れているだけだった肩に、ずしりと重みが加わる。
……まったく。
酒なんてほとんど飲めないくせに、コーヒーにブランデーを入れたりするからだ。
オレはハァと深く溜息をついた後に、花火が消えて再び真っ暗に戻った夜空を見つめた。
胸ポケットから煙草を取り出し、口に銜えて火を点ける。
いつもなら途切れることなく煙草を銜えているというのに、彼との会話の間は煙草を吸うのを忘れていた。
……どうやらオレも、それなりに緊張していたということか。
つくづく馬鹿だな、オレは。
30も過ぎたというのに、何をやっているんだか。
こんなガキ二人に振り回されて。
なあ、アキラ。
お前のそのヤツに対する感情は、お前にとって何なのだろう。
オレへの想いを『恋』と名付けたお前は、ヤツへのその感情を何と名付けているのだろう。
あと少し。
あとほんの少しだけ誰かが背中を押して、お前がオレより前へと進んでその感情に気付くことが出来れば。
お前とヤツの、そしてオレの──この苦しい『恋』は終わりを迎えることが出来るんじゃないのかな。
オレは絶対にお前の背中を押すことは出来ないから。
他の誰かが、お前を突き飛ばしてくれればいい。
そうして早く、オレにトドメを刺してくれ。
そう夜空に願いながら久しぶりに吸い込んだ煙草の煙は、何だかいつもより苦い気がした。
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