いつだったか。
昔、この棋院のロビーには疑似の魚を入れた水槽が置いてあって、そこに顔を張り付けて何やらブツブツと言っている子供がいた。
思わずオレはその子供に声をかけて、あろうことか「研究会に来ないか」などと誘ったりしていた。
どうかしていたんだと思う。
オレがあの子供に興味を持ったのは、それが最初だったか。
いや、もっと前だったのか。
今となってはもう、わからない。
いつの間にかあの水槽は、棋院のロビーから姿を消していた。
それと同時に、そこに張り付いていた明るい笑顔の子供も、消えてしまっていた。
Seasons
─Summer─ act.06
「進藤」
思わずその名を呼んでいた。
声を掛けるつもりなど毛頭なかったのに、思いもがけずに姿を見かけたものだから、思考よりも先に言葉が出てしまった感じだった。
オレが名を呼んだその子供は、ロビーの椅子に腰掛けてボンヤリと大きなビジョンを眺めていた。
オレの声に引っ張られるようにしてノロノロと視線を上げて、その大きな瞳にオレの姿を映して暫くしてから驚いたような表情を見せた。
「緒方さん…どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ何してる、こんなところでボンヤリと」
そう言いながらオレがヤツと同じテーブルの椅子に腰を下ろすとギョッとした顔をする。
そんなあからさまに嫌そうな顔をするな。相変わらず失礼なガキだな。
「ちょっと早く仕事が終わったから…ボンヤリとしてただけ。
クーラー効いてて、気持ちいいし」
「成る程」
そう言ってオレが煙草を銜えようとすると、進藤がジロリと睨んで「緒方さーん、ココ禁煙」と言った。
そういえば棋院も改装したのと同時に、喫煙スペース以外は全館禁煙になったんだったな。
まったく住みづらい世の中になったものだ。
オレが「フン」と言いながら煙草を箱に戻すと、進藤は「煙草ってオイシーの?」と尋ねてきた。
「なんだ、吸ったことないのか」
「あるワケねーじゃん。オレ未成年なのに」
「未成年でも興味本位で一度くらいは吸うだろ、普通」
「匂いがあんまり好きじゃないんだよ。苦い感じがしてさ」
そう言って顔を顰める進藤に、オレが「ガキ」と言うと「うるさいよ」と返して頬を膨らました。
……まったく。こういった受け答えだけを見てると、本当にアキラくんと同い年なのかと思ってしまう。
それはアキラくんが大人びているのか、進藤がガキっぽいのか、それとも両方なのか──よくわからないけれど。
そんなことを考えた時、ふと先日の花火が頭の中で蘇った。
夜空一杯に散る花火の下で、オレは彼に言ったんだ。
『オレは、他に好きなヤツがいる』
『だから、お前の想いに答えてやることは出来ない』
そう、オレはアキラくんの気持ちには答えてやれない。
だが、そんな自分の想いを伝えることも出来ない。
ただ、同じ場所に立ち止まってグルグルと回っているだけ──
「緒方さん」
高くてどこか柔らかい、独特の声が響いて顔を上げた。
すると進藤が不思議そうな顔をしてオレのことを見つめていた。
「どうしたの? 何か考え事?」
「……まあな。お前と違って色々と悩み事があるんだ」
「なんだよ、それ。また人のこと馬鹿にしてさー」
オレにだって悩み事くらいあるもん、と言って進藤は再び頬を膨らませる。
……悩み事か。
椅子を引いてガタリと音を立て席を立つと、座ったままオレを見上げる進藤に声を掛けた。
「その悩み事とやらを、聞いてやろうか?」
「……へ?」
「夕食&デザート付き」
「……行く!」
オレのその言葉に釣られて、進藤は満面の笑顔を浮かべて立ち上がり、先を歩くオレの後を子犬のようについてくる。なんて単純なガキだ。食い物なんぞに釣られやがって。悪い大人に誘拐でもされたらどうする。
……その悪い大人が、オレなんだがな。
まったく、嫌になる。
こんな単純なガキのせいで日々悩んでいる自分自身が間抜けに思えて仕方がない。
でも仕様がないか。
恋愛ってヤツは、惚れた方が負けだというしな。
仕様がないから、大人しく翻弄されてやる。
いつの間にかオレの前を軽い足取りで歩く小さな背を見ながら、ボンヤリとそんなことを思った。
++++++
その後オレが進藤をタクシーに乗せて向かった場所は、都内でもそれなりに有名な“料亭”というヤツだった。
後援会からの接待や指導碁をした先の金持ちの客などとよく行く店で、ここの女将とも顔見知りだった。
進藤を連れて店の中に入ると、女将は進藤を見て驚いた顔をした後にニッコリと微笑んで「今日は随分と可愛いお連れさんですねえ」と言った。使い慣れた座敷に通されて「いつものコースで」と注文をする。
その間、進藤は落ち着かないのかずっとソワソワとした様子で、座敷に腰を下ろしてもキョロキョロと部屋中を見渡していた。
「物珍しそうだな」
「だって……オレこんなトコ、初めて来たもん」
「なんだ、そうなのか。アキラくんとは時折来るんだがな」
「……そーなんだ」
オレが『アキラくん』と口にした途端、進藤はクルクルと動かしていた表情をピタリと止める。
そしてもう一度静かな声で「そうかあ、塔矢と」と言った。
……しまった。いきなり地雷を踏んだか。
オレは運ばれてきた酒を口に含みながら進藤の顔をチラリと見つめた。
進藤はオレからアキラくんの名前を聞いた後ほんの一瞬、大きな瞳をグラリと揺らして目を伏せた。
だが本当にそれは一瞬のことで、すぐに顔をあげて元の表情に戻ると、運ばれてきた前菜を勢いよく口に放り込んで「おいしい!」と言った。
そんな進藤にオレは「……そうか」と答えて、もう一口酒を飲んだ。
それから、オレと進藤は他愛もない話をしながら食事を続けた。
この間行われた対局の話、碁界のちょっとした噂、それから海外で活躍している塔矢先生のことなど。
オレは進藤に悟られないようにしながら、もう一度地雷を踏まぬように慎重に話題を選んだ。
……おかしな話だな。
オレはこの料亭を何度も接待やら付き合いやらで、いわゆる上級職の連中や金持ちたちと訪れたりしているが、こんなにも相手に気を使ったことはない。女と来てもだ。
そもそも女はこんな料亭には連れてこないがな。
このオレにここまで気を遣わせるとは、大したガキ…というかオレがアホなのか。
いつからだろう。
いつからオレは、この一回り以上も歳の離れたガキに心を持って行かれてしまったのだろう。
今となってはもう、よくわからない。
気が付けばこんな事態に陥っていたのだ。
自覚したのはいつだったか。
そんな風に思いを巡らしていた時にふと──頭の中に浮かんだのは、いつの間にか水槽のなくなった棋院のロビーで一人佇む、笑顔をなくした子供の顔だった。
──あれは、いつ?
いつ見た光景?
「……さん。緒方さん!」
思わず遠くへ意識を飛ばしていたオレは、その原因を作った子供──進藤の呼び声で我に返った。
進藤は眉間に皺を寄せて「オレの話、聞いてる?」とやや不機嫌そうに言った。
「ああ…すまなかったな。少しボーッとしてた」
「なあに? もう酔っぱらっちゃったの?」
「馬鹿。これくらいでオレが酒に酔うか」
「……ねえ、お酒ってオイシーの?」
そう言って進藤は物欲しそうにオレの手元のグラスを見つめる。
……なんだ、コイツ煙草どころか酒も飲んだことないのか。
「……飲んでみるか?」
「ホント?」
そう言って悪戯っぽく笑う進藤に、オレは新しいグラスに酒を注いで進藤に渡す。
焼酎だが、そんなに癖のないヤツだ。味覚がお子様なコイツでも少しは飲めるだろう。
酒を手に持った進藤は興味深そうにグラスの中を覗いて匂いをかぐ。まるで貰った餌を確かめる野良猫のようだな。そう思ってオレがククッと笑い「無理して飲まなくてもいいんだぞ?」と言うと、進藤はムッとした顔になって「無理なんかしてないもん!」と言いグラスに口をつけて飲む…というよりも、ペロリと舐めた。
「………」
「どうだ?」
「ヘンな味。でもちょっとオイシーかも」
「一気飲みはするなよ?っぱらっても責任は持てんからな」
「わかってるよ」
そう言って進藤はまたペロリと酒を舐める。
その様はまさに猫のようで、オレはまたククッと笑った。
進藤は再びムウッとしながらもそうやって少しずつ酒を飲み(舐め)続け、気が付けばグラスの3杯程を空けていた。慣れないアルコールに僅かに顔がほんのり赤くなってきていたが、思った程酔っぱらっている様子もなかった。
「意外だな。お前がそんなイケるクチとは」
「なに? イケるクチって」
「酒が飲めるヤツ、ということだ。
もう少し大人になれば、お前は案外酒の強いヤツになるかもな」
「もう大人だもーん」
「へえ、どこら辺が」
「一人暮らしだってしてるしぃ」
そう言って進藤は空になったグラスを弄びながらクスクスと笑い出す。
……何だ、それなりに酔っぱらっているらしいな。
そう思いながら今にも落としそうなヤツの手元からグラスを取り上げて、オレは声を掛ける。
「お前、実家も東京だろう? 何でその歳で一人暮らしなんか」
オレがそう言った途端──クスクスと笑っていた進藤の顔がピタリと凍り付いて、そして染まっていた頬の赤みがスウッと引いていくのが見えた。
一瞬にしてそんな風に変わってしまった進藤を見て、オレは自分が再び地雷を踏んだことに気付く。
……『一人暮らし』っていうのも地雷だったのか? 何故?
でも初めてコイツが「一人暮らしを始めたらしい」ということを碁会所の市河さんから聞いた時、おかしいとは思っていたのだ。一人暮らしをする理由が見当たらなかったからだ。
実家も東京で棋院からも近い場所にある。そして甘ったれ(であろう)のコイツが一人暮らしをするには、何か特別な理由があったんじゃないのか?
オレがそんなことを考えている間に、顔を白くした進藤はそのままズルズルと身体を屈ませてテーブルに頬をつけるような形になり、突っ伏してしまった。
「おい、進藤」とオレが声を掛けると、「……冷たくてきもちいいー」という掠れた声が聞こえた。
そしてそのままの姿勢で、進藤はまるで独り言のように小さな声で語り出す。
「オレさあ……強くなりたいんだぁ…」
「………」
「今までよりも、もっともっと、囲碁、たくさん打って……強くならないと」
「……それで実家を出たのか?」
「ひとりで……集中したかったから……」
突っ伏したまま語る進藤の声は、耳を澄まさないとよく聞き取れない程に小さなものだった。
進藤の声に耳を傾けながら、オレはその表情をそっと覗き込む。
酒に酔ったせいかトロンとした瞳でボンヤリと前を見つめている。
酔いのせいなのかそれとも話の内容のせいなのか──その大きな瞳はグラグラと大きく揺れていて、今にも零れ落ちそうだった。
「オレ……強くならないと。緒方さんよりも強くならないと」
「……オレよりも?」
突然名前を呼ばれたオレは、僅かに動揺しつつ進藤の次の言葉を待つ。
進藤はスンと音を立てて鼻を啜った後に、再び言葉を続ける。
そしてそれは──オレが最も聞きたくない言葉だった。
「塔矢は……緒方さんのことが好きだから……オレ、緒方さんよりも強くならないと……」
「………」
「そうじゃないとオレ…いらなくなっちゃう。また一人になっちゃう」
「………」
「オレ、塔矢のことが好きなのに」
「………」
「そんなの嫌だよ。……塔矢といたいよ……」
そう言った進藤のユラユラと揺れていた大きな瞳はさらに大きくグラリと揺れて、その拍子にポロリと大粒の涙を零した。それは静かに進藤の顔を伝ってテーブルに丸い染みを作り、その後もポタポタと同じような染みを作り続けて、いつの間にか水たまりのようになった。
震えてしゃくり上げながら顔の下に大きな水たまりを作る子供を見ながらオレの中に浮かんだのは──慰めの感情でもなく労りの感情でもなかった。
もっともっと強くて激しい火のような感情──それは言葉に置き換えて言うのなら、恐らく『嫉妬』と呼ばれるものだった。
こんな感情を抱くのは人生で初めてだった。そうか、これが嫉妬というんだな。
子供相手に? 馬鹿だオレは。しかも泣く子供を見て劣情を抱いている。
そんな自分をオレは心底嗤った。つくづく救いようがないなと思った。
一度奥で何かが切れてしまったオレは、もう自分を止めることが出来なかった。
というか止める術を思いつかなかったのだ。そんな自分は初めてだったから。
そうしてオレは口にする。
「そんなに泣く程辛いなら……何故好きになった?」
「──」
「何故アキラくんを好きになった? ライバルだけではいられずに」
「お前は何の為に彼を好きなったんだ?」
「ただ、苦しいだけなのに」
オレがそう言った途端に、零れていた進藤の涙はピタリと止まった。
そして白い顔はますます白くなってゆき、大きく見開かれたままの瞳には何も映されていなかった。
スウと息を飲む音が聞こえた後──進藤からは何の音も聞こえなくなった。
まるでオレの言葉にトドメを刺されて息絶えてしまったようだった。
オレは口にする。
「何故好きなったの」──それがヤツにとって地雷だと知っていて、オレは敢えてそれを踏む。
そうして動かなくなった子供をオレは抱えて起こして、丸く開かれた瞳を見つめた。
涙に濡れたその瞳には、目の前にいるオレの姿すら見えていないようだった。
「苦しい恋だな、お前の恋は」
好きなってもただ辛いだけなのに……憐れで馬鹿な子供。
そしてオレが心惹かれて止まない子供。
まるで何かを言いかけたように──小さく開かれたままの口をオレはそっと塞いだ。
初めて触れた子供の唇は酷く柔らかく、そしてどこか甘かった。
触れるだけのキスを交わして顔を離し、子供の表情を窺う。
ただ見開かれていただけの瞳は再び大きく揺れて、そして静かに涙を流す。
白い頬に涙が伝う姿は、どこか官能的な感じがして美しかった。
それからオレと進藤は店を出て、進藤が一人で暮らしている小さな部屋に行った。
囲碁を打つためだけに存在しているその部屋は、モノも生活感も何もない部屋だった。
そうして進藤が自分を追いつめた先にあるその部屋で──オレは進藤を抱く。
初めて他人に暴かれた子供の身体は酷く華奢で頼りなく、今にも壊れてしまいそうだった。
傷ついて血を流してオレを受け入れ、涙で崩れた声は最後に潰れるようにして消えた。
……オレは、何をやっている?
散々グルグルと迷ってそれでも自分にはトドメを刺せなかったくせに、何故だかオレは自分の惚れた相手にトドメを刺している。何も知らない子供を追い詰めて犯して、自分のテリトリーに引きずり込んでいる。
憎い恋敵に犯されるのは、どんな気持ちなのだろう。
どうする? この子供を強引に手に入れて、オレは。
その先には何がある?
何の光も見えない暗い部屋の中で、オレは小さな子供を抱く。
沈んでいくような感覚の中でただ一つ──縋るようにしてオレの背を抱く進藤の手の温もりだけが、互いの苦しい恋の希望のような感じがして、酷く愛おしかった。
|
|